2019.03.09 Saturday
明日は職場で休日出勤する日になっていて、週末の休日は今日しか取れません。週末が2日取れれば、陶彫制作が順調に進むのですが、一日だけとなれば、制作サイクルを少々遅らせて足踏みすることになります。今日は彫り込み加飾2個と、乾燥した陶彫部品に仕上げと化粧掛けを施しました。通常の制作サイクルなら明日の成形のために大きなタタラを数枚用意するところですが、今日は止めました。今日は久しぶりに若いスタッフが工房にやって来ました。彼女は中国籍のアーティストで、グラフィックデザインを大学院で専攻していました。現在はその大学で助手をやっています。入試の業務が無事終わり、次は新入生を迎える準備があるそうです。毎年中国人留学生が増えているので、彼女の仕事は多忙になっているのではないかと思っています。いつも笑顔でいるので、彼女の辛さが分かりませんが、グローバルな教育には欠かせない人材であることには変わりはないでしょう。今日は早めに彼女を最寄の駅まで車で送りました。今日は花粉症が気になりました。若い頃に比べれば、花粉症が多少改善されていると自分では思っていましたが、今日はクシャミが止まらず、作業が度々中断しました。次回は制作を先に進めなければならないと思いました。
2019.03.08 Friday
私は彫刻に関わるようになったのは大学の1年生からで、それまで工業デザインを専攻するつもりだった私が、極端な方向転換をして初めて彫刻に出会ったのでした。本格的な立体表現を知らなかった私は結構混乱して、そこから半ば自嘲的で内密なメモ書きをノートに残すようになりました。立体把握に困難を感じていた私は、そもそも自分に彫刻は向かないのではないかとさえ思っていました。今もその感覚は忘れていません。立体把握が面白くなりかけた時期になると、素材を扱う困難さに直面していました。粘土、木材、石材、金属、どれをとっても自分のものにならず、おまけに表現の自由を奪っているものは、何といっても素材の重力でした。当時のメモ書きはそんな不満や不安が綴られていたのではないかと述懐しています。大学卒業時に焚火にしてしまったメモなので、今では私の記憶が頼りですが、そこには詩らしきものも書いてありました。その中で「蝙蝠」という詩の題名は覚えていますが、内容は思い出せません。母方の祖母に見せたらクスっと笑われました。詩への関心は高校1年生の現代国語の教科書に掲載されていた詩が契機になり、そこから詩作する試みが始まりました。草野心平、谷川俊太郎、黒田三郎、西脇順三郎の詩から始まり、書店に出入りするうちに寺山修司、白石かず子、富岡多美子などに興味が移り、自宅の書棚に詩集が増えていきました。言うなれば私の関心は海外の詩人よりも日本人の現代詩から始ったのでした。大学に入ると美術評論を書いている大岡信、瀧口修造の著作が増えていきました。詩と彫刻双方の分野に足跡を残した芸術家となれば、お馴染みの高村光太郎がいます。私は彼が生きた環境が知りたくて、晩年の光太郎と智恵子が住んだ岩手県の寒村を訪ねています。私自身は詩の創作が出来ているとは言えません。詩は彫刻よりも早く芽生えた創作分野でしたが、彫刻の方がいち早く自己表現の方向性を定め、個展を開催できるまでになりました。彫刻をイメージする際に詩心が必要なのは言うまでもなく、私が密かに育んだ詩は、造形の中に生きているのではないかと思うこの頃です。
2019.03.07 Thursday
現在、通勤時間に読んでいる「ある日の彫刻家」(酒井忠康著 未知谷刊)に、風変わりな章がありました。私が尊敬する彫刻家で既に逝去された若林奮に関する論考ですが、「素描に埋めつくされた日記」という題名がつけられていました。冒頭に「画面のなかに5月12日から22日までのことを細かいペン字でぎっしりと書かれた日記が埋め尽くされている。素描と一体になっているのである。」とありました。若林氏が若い頃、工業高校の講師を勤めていた時代に書いたもので、美術準備室(本人は研究室と呼んでいる)で授業の合間に綴っていた文章のようです。私も学生時代にノートに文章を書いていた記憶があります。それは人に見せるものではなく、今となっては気恥ずかしい内面の吐露であって、造園業をやっていた亡父が植木の枝を作業場で燃していた時に、高校時代に描いていた多くのデッサンと一緒に日記も燃やしてしまいました。過去の清算がないと先に進めないと当時の私が考えていたからでしたが、工房に出入りしている若いアーティストが小さな文字で日記を綴っているのを見て、自分と重ね合わせていました。彼女はそのノートを分解して糸で繋ぎ留め、自身の展示作品として展覧会に出していたので驚きました。若林氏の素描と一体になった日記も、こんなふうに公開されることが念頭にあったのでしょうか。現在私が毎日書いているNOTE(ブログ)はホームページにアップすることを前提にやっていて、密かなメモとは違います。それに比べて表題にした「素描に埋めつくされた日記」は微妙なニュアンスが漂う文面です。その中で気に留まったコトバ(若林メモ)を書き出してみます。「彫刻はその作った結果は、一銭にもならない事が多い。注文される以外、全てそうなのであるが、作る時、金をかけ様と思えば、いくらでもかけられるし、又かけない様にすれば、ただでも作れる。それをつくらすのは情熱であろう。昔から彫刻などやる者は貧乏ときまっていた。結果としてそうなるのかと思ったが、今は、貧乏でなければ、出来ない事であると考えをかえた。金がある人間はこんな事をやってはいけないのだ。ここで金があるというのは、もちろん、生活の経済的な安定を意味する。彼等は、それぞれの社会に適した小さな経済機構の中で精一杯、金をあつめ、長生をする事を考えてればよい。腹のへった彫刻家は、せめて、それをつくる事によって自分の考えをまとめ、あるいは何の役にもたたないかもしれない美を自分の手にいれるのだ。」
2019.03.06 Wednesday
植物の芽が息吹き出すテーマは、今までも幾度となく扱ってきました。今回のテーマは「風景」というコトバをつけることで、以前作ったものとは違う意識を持ってイメージ出来るのかなぁと思っています。RECORDは毎日1点ずつ作っているので、季節感に左右されるところが大きいのですが、通勤途中で眺めている満開の紅白の梅を見て、萌芽というコトバが浮かびました。そのうち桜の開花がやってきます。古木に花が咲き乱れている情景は、何と美しいことかとつくづく感じています。年度末の多忙時期になっても、まだ自分には花を愛でる心の余裕があることが嬉しいと思っています。植物は人の鑑賞に関わらず、生命の循環として花を咲かせているため、通常気づかない場所に楚々と咲いていたりします。そんな情景を見るにつけ、つい感情移入してしまうのは、自分の詩心が成せる業だろうなぁと思っています。そんな些細な動機であっても、RECORDのテーマは象徴性に傾いたり、抽象性を追求してしまうことがあるので、当初のイメージを離れてしまうことがあります。それでも今月は「萌芽の風景」というテーマでやっていきます。毎日1点ずつ作っていくことがRECORDのスタンスですが、3月は下書きだけになってしまっていて、まだ1点も仕上がっていません。鉛筆でざっくり描いた下書きが食卓に積み上がっていくのを見ているのは辛いものがあります。RECORDはそんな強迫観念がいつも付き纏っていますが、日によってはガンガン進む意欲的な日もあって、感情にムラがあることを私は認めざるを得ません。
2019.03.05 Tuesday
「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)は、実際のカンディンスキーの作品を思い浮かべながら読むと、理解が容易になります。本書は現象学的な視点で書かれた部分も多く、本来は基礎的なものでも論理を積み重ねるうちに、難解な箇所が散見され、理解に苦しむ展開もありますが、基本的にはカンディンスキーが提唱した理論に立ち返る場面があるので、本書の主張するところは何とか読み解けます。本章の「フォルムと色の統一性に関する困難さ」についてもカンディンスキーが提唱したコンポジションの概念が頭にあれば、本章の言わんとするところが分かります。まず描くとは何かという問いかけが冒頭に出てきました。「描くとは、ある色によってあるフォルムをおおいつくすことである。両者が理論的に同じ基調色に結びついているときでさえも、両者を重ねあわせることは、その基調色をかなり変化させるし、それをめだたせ強調して、新たな音色を生み出す。芸術が創造的なのは、そこのところである。」さらにフォルムと色の統一性に関する理論が続きます。最終的にはコンポジションに辿り着くわけですが、それは次章に譲るとして、本章はこんな一文で締め括られていました。「われわれが専念していたのは、諸要素を、より正確には諸要素がもともとの組み合わせー点/基礎平面、直線/曲線、黄/三角形、青/円などーの中で形成している複合的・客観的・情念的な諸統一性をひとつひとつ考察することであったのだから、そうした分析が一体となって構築する有機的な全体性であり絵画そのものにほかならない有機的な全体性であるコンポジションに、まだ向かいあっていたわけではない。」と書かれていました。この文章はコンポジションへの導入と解釈してもいいのでしょうか。この流れでいくと、次章はコンポジションの概念に触れていくようです。