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  • 週末 義母の13回忌
    週末になりました。前から予定していた義母の13回忌を今日行ないました。家内の母は多くの兄弟姉妹と一緒に、戦前の時代に奄美大島から本土にやってきました。兄弟姉妹の中には哲学者や考古学者や音楽家がいて、学問や芸術で身を立てた人ばかりだったので、私は家内と結婚する時に親戚を回った折、彫刻家を志望する私に親戚全員が理解を示してくれました。私は職人家庭に育っていたので、学術文化の香りのする環境に憧れを持ったこともありました。義母は13年前に86歳で他界しました。その頃、私の拙い芸術に対する思索を聞いてくれた親戚の面々も、現在は年老いて、この13回忌が最後かもしれないと思いました。義母の兄弟姉妹の中で、カント哲学者であった叔父が亡くなった時は、私にもショックがありました。叔父ともっと話がしたかった、私は未だカント哲学の裾野にも到達していない、そんな残念な思いに駆られたこともありました。学問で身を立てようとした兄弟姉妹を義母は経済的に支えていたらしく、そうした環境で家内は育ったのでした。家内は中国考古学を専攻している叔父にとくに懐いていたようで、80代後半に差し掛かった叔父を、家内はいつも気遣っていました。家内の両親の墓地は、横浜の古い地域である久保山墓地にあります。久保山の日蓮宗の寺で法要をした後、横浜中華街に場所を移して、親戚縁者で会食をしました。この機会を大切にしたいと私は思いました。私がまだ彫刻家にも公務員にもなっていない頃、夢に生きていた私に対し、理解を示してくれ、また支援をしていただいた家内の親戚の厚意を私は忘れることが出来ません。手前味噌ですが、今日は良い一日だったと思っています。
    勤務終了後に上野の美術館へ…
    横浜市瀬谷区の職場に転勤してきて、前職場に比べて外会議が多いなぁと感じています。出張というほど遠方に行くわけではなく、区役所の会議室を使って区内のさまざまなことについて話し合いを持っているのです。今日も午後から区役所に行きました。勤務時間終了までそこで会議を行っていて、その後は帰路につく予定でしたが、今日は金曜日なので遅くまで開館している東京の美術館を目指して、横浜から上野まで出かけていきました。東京都美術館で開催している「クリムト展」は必ず見に行こうと決めていました。私は20代の頃、ウィーンに住んでいました。当地の国立美術アカデミーに在籍していましたが、グスタフ・クリムトを中心とするウィーン世紀末芸術は、ウィーン観光の売りになっていて、多くの観光客がクリムトの世界を味わうために、ベルベデーレ宮殿併設の美術館を訪れていました。私も幾度となくクリムトの絵に接してきました。私がウィーンに滞在していた最初の頃は分離派会館(別称セセッション)が工事中で、クリムトの壁画が見られませんでしたが、帰国間近になってリニューアル工事が完成し、金色の球体(別称金のキャベツ)を頭上にのせた独特な建物を見ることが出来ました。その時に修復を終えた「ベートーヴェン・フリーズ」も観ました。いつも買い物で訪れたナッシュマルクト(市場)の傍にあった分離派会館とオットー・ワーグナーのデザインしたアパートが、ウィーンの生活の一場面として今も思い出されます。今回の展覧会では「ベートーヴェン・フリーズ」の実物大複製が展示してあったので驚きました。私はいつ頃、ウィーン世紀末の芸術家たちを知ったのか、もちろんウィーンに行く前から知っていましたが、最初の記憶が定かではありません。おそらく学生時代に愛読した「見えない彫刻」(飯田善國著 小沢書店)に掲載があったクリムト、シーレ、ココシュカに関する評論で知ったものではないかと思っています。「クリムト展」は開館時間延長日にも関わらず、入場規制が行なわれるほど混雑していました。鑑賞者は圧倒的に女性が多く、クリムトの瀟洒な雰囲気が女性に人気なのかなぁと思ったりしました。クリムトは日本美術を取り入れていて、金色を多用したり、和装の文様のような幾何的な平面構成があったりして、その絵柄は明らかに日本のそれと類似していると感じました。平面文様と写実性のある人物描写が相俟っているところがクリムトの特徴で、強いて言えばこのような象徴性が全面に出ている絵画は、日本人が好む要素が満載しているんじゃないかと思いました。詳しい感想は後日改めます。
    木材の注文
    工房のロフト拡張工事に来ていた元梱包業者に教えていただいた本格的な梱包用木箱。これを作るために小割80本×3の240本を、これも元梱包業者に教えていただいた木材専門店に注文に行きました。勤務中の外会議がある途中に木材店に立ち寄り、木材の切断をお願いしてきました。次の週末は梱包用木箱を作りたいので、木材は土曜日の早朝に取りに行くことにしました。大手の店舗なら開店時間が決まっているところを、個人の店は私の要望を聞いてくれるので有難いなぁと思いました。とりあえず週末に10箱作る予定ですが、作品の数を考えると10箱では足りません。20箱くらいは必要かなぁと見積もっています。ともかく週末に可能な限り木箱を作ってみようと考えています。こうした木材を注文に行ったり、道具を揃えたりするのは、創作には直接関係ないのですが、作品を保管するためには大切なことで、手間暇がかかっても仕方がないと思っています。自分の工房を使って彫刻をやっているといろいろな業者や店舗との付き合いが増えてきます。たとえば陶土を購入するなら栃木県益子の問屋さん、木材調達は前述の木材店さん、窯のメンテナンスは懇意にしている窯の業者さん、ロフト拡張工事の鉄工業者さん、もちろん彫刻制作に欠かせない多くのスタッフや撮影していただいているカメラマンやアートディレクター、その他電気工事やら植木畑の枝の刈込や草刈りなど、さまざまな職種の方々に私は支えられているなぁと感じています。木材を注文しに店に向かう途中で、ふと業者さんたちの顔が浮かびました。いろいろな助言をいただきながら仕事が進められる幸せを感じています。
    14冊目の図録作成に向けて
    先日、個展のための図録用の撮影を行いました。毎年多くのスタッフに手伝っていただいて、集合彫刻の組み立てやら分解、そして周囲の片づけや掃除をしています。もう14回目となると撮影は恒例行事のようになっていて、撮影する順番も決まっているのです。その日に撮影した画像を私が選び、その後はカメラマンに編集作業に入っていただきます。何故私は毎年かなり手間のかかる図録を作っているのか、これは自作が組み立てに労力を要する集合彫刻だからです。作品は分解して木箱に詰めて工房の倉庫で保管します。作品を見るためには多くのスタッフの手を借りなければ全体像を提示することが出来ません。そのため作品完成を示す画像が必要なのです。今晩は撮影に立ち会った2人のカメラマンが自宅にやってきて、撮影した多くの画像を見せてくれました。私は自ら作成した図録のレイアウトに従って画像を選びました。画像を通して、初めて私は光や影の立体的効果を知ることになり、アナログな彫刻制作とは違うデジタルな表現に改めて感動を覚えました。毎年のことなのに、自分の作品であって自分の作品ではないデジタルな不思議さに再三驚かされてしまいます。私は映像表現が好きです。映画館に足繁く通うのも、そうした映像好きな私の趣味の反映です。図録を楽しみたい気分も映像好きであるが故のものではないかと思っています。今回の図録の写真はフラットなものにして欲しいとカメラマンに要求しました。今まで光と影を強調したり、周囲の空気までを表現して欲しいと言ってきましたが、今回は真逆で、隅々までクリアな画像が欲しかったのでした。そうしたことがあるため新作の図録は、今までと趣が変わっています。14冊目の図録作成に向けて、カメラマンとの協働作業が始まると言えるのです。
    京都の「若冲と祈りの美」展
    先日行った京都での展覧会の詳しい感想を、昨日のNOTE(ブログ)に引き続いて述べたいと思います。毎年京都に行く度に、私は岡崎公園にある細見美術館を訪れています。細見美術館のコレクションが素晴らしいこともありますが、企画展もなかなか面白くて、つい足を運んでしまうのです。細見美術館の扉の演出も気に入っていて、奥まった所に格納された秘作を見に行く雰囲気があります。室内は照明をやや落としていて、作品の持つ静寂さを際立たせています。「若冲と祈りの美」展は美術館のコレクションである伊藤若冲の絵画と仏教美術の数々で構成されていました。私は久しぶりに若冲の世界に浸れた喜びがありました。スピード感のある墨が颯爽と冴えわたる「鶏図押絵貼屏風」六曲一双は、京都まで来た甲斐があったと私に思わせてくれました。若冲の精密な描写や流麗な色彩に、私は常々惹かれるところですが、無地にさっと描いた水墨画もその抑揚と筆さばきに驚かされています。若冲は庭で鶏を飼い、日々デッサンをしていたと資料で読んだことがあります。鶏の姿態が完全に把握できていたからこそ到達できた水墨画であろうと思いました。解説によると「背景を一切描かず、墨の濃淡とユーモラスな表情は躍動感に富んでいる。一方特に雌鶏には似通った姿も見られ、最晩年の若冲画は形式化が進んでいたこともうかがえる。」とありました。署名には八十二歳画とあり、その年齢を信じれば老いてなお凄まじい表現力を持っていたことになります。若冲は還暦以降、改元の度に一歳加算したという説もあるので、これは1・2年遡る作品である説が有力ですが、それでもこの筆の気迫は常軌を逸しているのではないかと思いました。今回のNOTE(ブログ)は若冲の作品が中心になってしまいましたが、仏教美術の作品の数々も併せて展示されていました。美術品として視点で宗教美術を見ると、祈りの対象から離れて作者が表現しようとした意図が見えてきます。そんな鑑賞もあっていいのではないかと私は思っていて、美術館に限らず寺社に行った時も手を合わせることなく、寧ろ眼で思考するようにしているのです。宗教美術には表現力に富んだ素晴らしい作品があって、心を満足させる瞬間があることを付け加えておきます。