Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

  • Tag cloud

  • Archives

  • 週末 制作&横浜の展覧会
    週末になると、どこかの美術館に行くという習慣が先月から続いています。陶彫制作も余裕がない中で、何とかやり繰りしている按配ですが、今日も夕方美術館に行ってきました。鑑賞があるからといって制作工程はそのまま続行しています。朝から集中すれば夕方までにノルマを達成できると信じて、今日も陶彫成形と彫り込み加飾を終わらせました。仕事が雑にならないように精一杯気遣いながら、24個目の陶彫部品を作り上げました。工房から自宅に戻ったのが午後3時で、そこから家内と横浜美術館に車で出かけました。横浜美術館は地元なので気楽に行ける場所にあるのです。見てきた展覧会は「駒井哲郎展」。銅版画では日本のパイオニア的存在の人で、私の大学時代に駒井哲郎を信奉している先輩がいたおかげで駒井ワールドを知ることができました。私は大学時代にドイツ表現派の影響で木版画をやっていました。傍らで銅版画に取り組んでいた先輩がいて、表現の多様性と腐食版画の面白さに興味津々でした。銅版画をやってみたいなぁと思っているうちに今日まで来てしまい、さて、いつになったら銅版画を始めようか思案しているところです。実は他の施設で使っていたエッチング・プレス機を譲り受け、工房に置いてあるのです。二足の草鞋生活の現在は、公務員管理職と彫刻家の生活で全く時間が取れないため、憧れの銅版画は後回しにしているのです。そんな銅版画のパイオニア的存在の人が、横浜で展覧会をやっていると知って、絶対に見に行こうと決めていました。駒井ワールドは私小説のような世界を覗かせながら、さまざまな実験を繰り返して、次から次へと表現の幅を広げていました。前衛芸術との接点や現代詩人たちとの交流を通して、駒井哲郎はその世界観を作品に取り入れていました。「煌めく紙上の宇宙」という副題が示す通り、紙の上で展開する小宇宙が、駒井ワールドの醍醐味かもしれません。この歳になって漸くこうした世界が彫刻のようなモニュメンタルな世界とは真逆にあることを感じました。銅版画は自分にとってはRECORDに近い世界です。詳しい感想は後日改めたいと思います。横浜美術館を出た後、久しぶりに横浜中華街に行って夕食をとりました。横浜美術館のあるみなとみらい地区も横浜中華街もクリスマスのイルミネーションが綺麗でした。
    週末 益子から陶土が届いた日
    陶彫を作るためには陶土の調達やら焼き窯等の設備が必要です。道具も多岐にわたっていて、その中には自分で作ったヘラも含まれています。それらは自分の創作イメージを具現化する中で、少しずつ整えてきたものです。一朝一夕にはいかない環境整備の賜物です。環境整備の一番は何と言っても制作場所の確保で、私は亡父が所有していた植木畑の一角に工房を建てました。そうしたことが積み重なって漸く陶彫制作が本格化出来たと私は思っています。それまでは他の施設を借りて制作をしてきました。今は気兼ねなく何時でも制作が出来ることを嬉しく感じています。栃木県益子町という陶芸の里から陶土を調達していることがあり、当地の問屋や陶芸家たちと今も繋がっていることも自分を取り巻く環境のひとつでしょう。勿論新作を発表させていただける東京銀座のギャラリーせいほうも、作品の撮影をしていただいているカメラマンも、支援していただいている工房スタッフも、大切な人的環境と言うべきでしょうか。今日は朝から工房に篭っていましたが、ウィークディの疲れがあって、なかなか作業が進みませんでした。40kgの土練りをやって、明日のために大きなタタラを6枚作りました。陶土を掌で叩いて伸ばすだけの作業でしたが、身体がヘトヘトしていました。昼ごろ、栃木県益子町から陶土600kgが運ばれてきました。運送業者も1年1回しか顔を会わせませんが、同じ業者ではないかと思いました。工房の搬出口のシャッターを開けて、トラックに積んであった20kgで包まれた陶土を30個降ろしました。これでもう1年間の制作が可能です。新しい陶土がやってくると気分が上がります。例年この時期に陶土を益子町の明智鉱業にお願いして入れていただいているのです。今日は夕方まで作業をして工房を後にしましたが、この疲労は昨晩の映画鑑賞が影響していると思いました。実は昨晩、仕事から帰ってから家内と連れ立って、横浜市鴨居にあるエンターティメント系の映画館に行ったのでした。常連にしているミニシアターでは上映していない映画を観に行きました。映画はロックバンドとして名高いクイーンの活動を描いた映画「ボヘミアン・ラプソディ」で、クイーンのヴォーカリストであったフレディ・マーキュリーの生涯を中心に、彼らの独特な音楽観に迫る内容になっていました。日本で人気があったクイーン。私たちの世代は皆知っていて、そのメロディを聴けば青春が甦ると言ってもいいと思います。多少の感傷も手伝ってこの映画を観に行ったわけですが、この歳でクイーンの音楽作りを改めて見てみると、貪欲な表現意欲に元気づけられること頻り、自分の創作活動の起爆剤にもなりうると感じたのでした。詳しい感想は後日改めます。今日はゆっくり休んで、明日の陶彫成形を頑張りたいと思います。
    「体験流の構成」について
    「経験の構造 フッサール現象学の新しい全体像」(貫茂人著 勁草書房)の第七章「体験流の構成」を読み終えました。体験流の構成とは何か、冒頭の文章に述べられていた箇所を引用いたします。「体験流の構成とは、過去の体験を想起し、そこから現在にいたるまでの体験の『流れ』を『再』構成することである。」とありましたが、まず想起について書かれた文章を拾い上げていきます。「連合によって想起が可能となるからといって、体験流の過去が間違いなくすべて自由に直観可能となるわけではない。」というのは、記憶を思いだす場合に、確実なものではなく錯誤してしまうことは充分ありうると言っていて、私もそう思います。続く文章には「初めに想起された過去と、それとは無関係な別の過去の想起の触発能力が競合状態に到ったり、ふたつの過去が混同・融合されてしまう。」とありました。それでは現在知覚されている経験と、連合的想起はどう異なるのか、こんな一文もありました。「現在の知覚経験と、連合的想起は現象学的にどのように違うのか。志向的相関構造にもとづくか、連合にもとづくかという違いのほか、両者には時間構造の相違もある。それは、『生きられて』いるか、対象化されているかの相違だ。知覚や判断が遂行される現在は『根源的印象』『過去把持』などによって構造化される時間性をもつが、この時間性は『生きられる』ものであって、対象化はされない。」想起という言葉ひとつ取っても、現象学的に論考すると、こんな感じになってしまいます。何かのコマーシャルを見て、旅行した時の記憶が甦り、そういえばこんな食事をした、あんな買い物をしたっけと思い出す時、それは決して正確とは言えず、別々の記憶を繋ぎ合わせている場合もあります。日常茶飯として何気なく行っている行為を厳密に学問として洞察し、根本となるものを探っていけば、「体験流の構成」で述べられているような論考になると思います。
    フェルメール「牛乳を注ぐ女」について
    画家フェルメールの「牛乳を注ぐ女」は世界的に有名な名画です。フェルメールの傑作はまだ他にもありますが、上野の森美術館で開催されている「フェルメール展」のラストを飾っていた「牛乳を注ぐ女」は、やはり自分の心を捉える傑作だったと改めて認識しました。フェルメールの部屋に入った途端、遠くから射貫かれたような構図と色彩の明快さ、小さい画面ながら圧倒的な光を放つ存在感につい吸い寄せられてしまいました。「牛乳を注ぐ女」は以前も来日していますが、今回は数々のフェルメール作品と並んで鑑賞できたので、本作の凄さに目を奪われました。図録から構図や光について書かれた箇所を拾います。「透視図法、光の処理、個々の描写対象の配置、これらはすべて慎重に考え抜かれている。女性像と机と右側の床にある木製足温器は、古典的な三角形構図を形成している。フェルメールは、透視図法の消失線を女性の右手の真上にある消失点に向かって集中させることによって、絵を見る人の視線をさりげなく絵の中心要素に導いている。カンヴァスのその箇所にある小さな穴は、フェルメールが17世紀のアトリエでよく行われていた方法を用いていたことを物語っている。画家は、消失点となる場所にピンを刺し、透視図法の消失線を定めるためにそこから絵の端まで糸を張ったのである。」安定した構図を得るために画家が工夫した痕跡が見えますが、美術史家の中には写真機の先駆けとなったカメラ・オブスクラを用いていたのではないかという説も聞かれます。その件に関して図録から引用いたします。「光の反射を観察するために、フェルメールはカメラ・オブスクラを使ったに違いないという説が唱えられてきた。フェルメールがこの機器をよく知っていた可能性は高いが、この《牛乳を注ぐ女》を描く際にカメラ・オブスクラを利用したとは考えられない。何よりも、光の斑点や飛沫はおもにパンやウールの布のような低反射素材上にあるが、これらはまさにカメラ・オブスクラでは感知されない部分なのである。」(作品解説より)この神がかった写実性はどこからくるのか、私はロダンの彫刻「青年時代」が本物から型を取ったのではないかという俗説と共通するものを感じてしまいます。芸術家の眼が、写実を捉える時の、肉薄していく対象に迫る魂を感じるのは私だけでしょうか。単に緻密に計算された写実絵画ならば、「牛乳を注ぐ女」の絵画的主張の強さは現れないと思っています。
    上野の「フェルメール展」
    事前予約が必要な美術展に行ったのは、私は初めてだったかもしれません。それほど上野の森美術館で開催されている「フェルメール展」には国際的に見ても貴重な作品が多数来日していると言っても過言ではありません。鑑賞したのは先月でしたが、改めて詳しい感想を述べます。17世紀ネーデルランド(オランダ)の画家ヨハネス・フェルメールは全世界で確認されている絵画作品が37点、そのうち10点(実際は9点)が日本で見られるのは今後とも不可能なことかもしれません。展覧会出口付近に設置された部屋がフェルメールだけが展示されているスペシャルルームでした。フェルメールは有名な絵画ばかりなので作品は図版によって知っていましたが、私は実物を見るのは初めてで、まずそのサイズの小ささに驚きました。初期の大きめな宗教画が1点、残りは風俗画で女性が登場するものばかりでした。その女性の仕草にドラマを感じさせる情景があり、1点ずつ立ち止まって空想してしまうこと頻り、当時の人々の営みが感じられて、鑑賞者たちは時代を洞察しながらの会話を楽しんでいました。図録から引用いたします。「フェルメールは、歴史画のみならず同時代の生活においても道徳的な関心事が重要であることを理解していて、注意深く構想された風俗画においても、私たちが日常生活の中で分かちあう価値観や関心事を反映した人物像の時を超越したイメージをつくりだすことによって、それを伝えようとしたのである。」(アーサー・K・ウィーロックJr.著)たとえば若い女性を誘惑しようとする男性のいる室内に、節制を意味するステンドグラスの絵柄がある作品がそれに当たります。こうした作品はどんな環境で描かれたのか、これも図録より拾ってみます。「わずか43年の生涯を通じてフェルメールは、アムステルダムの南西48kmに位置し、およそ2万人が住む中規模の都市デルフトで制作活動を行った。~略~デルフトの町とその周辺環境は、フェルメールと妻カタリーナ・ボルネスや彼らの多くの子どもたちが必要とするものすべて、たとえば家や仕事、顧客や収入などを与えてくれた。一家が暮らしていたのはカタリーナの裕福な母親の近所であった。彼女は、娘とその義理の息子、たくさんの孫たちに対して、十分な額の資金援助をたびたび行っていた。~略~彼には当時、デルフト近郊に住む人々から成るごく小さな顧客のグループが付いていた。画家は、限られた愛好者の集団のために特別に作品を制作していたと思われる。」(ピーテル・ルーロフス著)フェルメールの個別作品に関しては別稿を起こします。