2018.10.15 Monday
彫刻家池田宗弘先生は、私の大学時代の師匠で彫刻の面白さを教えてくれた人です。もう40年も前のことですが、学生だった私は東京都美術館で池田先生の真鍮直付けによる作品を見て、感動を覚えたことを今でも記憶しています。長野県麻績の住居兼工房「エルミタ」にお邪魔すると、その作品が無造作に置かれていて、制作の現場の雰囲気に包み込まれます。その作品は痩せこけた猫が複数登場し、魚の骨を狙って歩み寄る場面を描いた風景彫刻でした。真鍮で作られた猫の胴体には穴が開いていたりして、まさに野生の存在だけが感じられる実物大の凄まじい彫刻です。その彫刻の間を本物の猫がのほほんと散歩している様子は思わず笑ってしまうのです。当時の先生の彫刻は、人々の何気ない仕草をスケッチしたような作品が多かったのですが、スペインに滞在されてからキリスト教の修道士が登場する作品が増えてきました。今回、自由美術展に出品された「第二の試み(頂点に立つ)」も同じシリーズで、翼を持った悪魔が修道士を誘惑している場面を作っています。第二というのは同じものがもうひとつあって、それは昨年の自由美術展で見た作品だろうと思っています。悪魔の誘惑に打ち勝って颯爽と立つ修道士の姿が(頂点に立つ)という副題に籠められた先生のメッセージと受け取りました。宗教を題材にしていても、先生は人間の心の迷いをテーマとして取り上げていて、風に向かって歩みを続ける旅人も同系列に入る作品だろうと思います。先生の彫刻は単体が少なく、ほとんどが情景を表している風景彫刻です。人や動物や木々さえも量感を削り取られ、骨格そのもののような姿を曝しています。構成要素がはっきり見て取れる独特な世界観を持っています。学生時代、私の塑造に対し、先生は骨格に拘った指導を繰り返しされて、空間に粘土でデッサンをするように作れと言われていたことを今もって忘れることが出来ません。人体の手や足は表情を出せるので丁寧に作るようにも助言されました。あれから数十年が経ち、先生の世界観とは異なる方向へいってしまった私ですが、彫刻の基本は同じと考えています。先生の作品を見る度、初心に返れるのが幸せと感じているこの頃です。
2018.10.14 Sunday
今日は週末の制作としてノルマを果たしてから東京の美術館へ行こうと決めていました。これはかなり厳しい制作時間になりましたが、何とか計画通りに遂行しました。早朝から工房に出かけ、窯を開けました。窯内の温度を冷ますのに多少時間が必要だったため、昨日準備したタタラを使って新作2段目の3個目の成形を行いました。今日作った成形と昨日作っておいた成形の彫り込み加飾2個分をそれぞれ施しているうちに、窯内が冷えてきたので、焼成が終わった作品を出し、新しい作品を窯に収めました。朝7時過ぎから作業を始めて、ここまでで午後2時を回りました。工房での今日の制作ノルマはここまでで終了しました。一息つく暇もなく、家内と自宅を出て東京の六本木に向いました。師匠の池田宗弘先生から「自由美術展」の招待状をいただいていたので、久しぶりに池田先生の彫刻に会いに行ったのでした。国立新美術館は後輩の彫刻家が出品していた「二科展」以来で、今度は先輩に当たる池田先生が出品している「自由美術展」が開催されていました。作品は先生が得意とする真鍮直付けによる具象彫刻で、キリスト教の修道士と悪魔との関わり合いを情景の中にまとめたものでした。翼を持つ悪魔が登場するのは、先生の作品としては2年目になると私は記憶しています。先生の作品にも時代の変遷があり、私が最初に拝見したのは、痩せこけた猫が何匹も魚の骨を狙って歩み寄る場面を描いた風景彫刻でした。真鍮直付けの技法は当時と変わっていません。量感を削り、骨格だけになった彫刻の空間的な面白さは、先生の特徴でもあり、遠方から眺めると人が影法師のように感じられる楽しさがあります。軽妙洒脱な世界観、重力を感じさせない彫刻、それだけにストレートに訴えかける物語性に、池田ワールドの醍醐味があると思っています。先生の作品については別稿で取り上げたいと思います。次に向ったのは国立新美術館からさほど遠くないところにあるサントリー美術館でした。ここで開催されている「京都・醍醐寺」展は、ポスターにもなっている如意輪観音坐像の美しさに惹かれ、是非行って見ようと思ったのでした。「真言密教の宇宙」という副題が示す通り、密教に関する資料が多く展示されていました。また醍醐寺は豊臣秀吉が豪勢な花見を行ったことでも有名です。この展覧会については後日稿を改めます。夜7時に帰宅しましたが、今日は些か疲れました。この週末2日間は自分が計画した通りに制作も鑑賞も出来ましたが、ゆっくり休む時間がなく、身体を少々酷使したようで、また右ひざが痛み出しています。明日からウィークディの仕事が待っています。週末とは異質な仕事ですので、創作活動の疲労は改善されるはずです。
2018.10.13 Saturday
制作サイクルが回り出すと、無我夢中になれる瞬間があって、週末の制作が楽しみになります。新作の集合彫刻は2つの塔が並列するイメージでやっていて、現在は床に接する1段目の陶彫部品が出来上がっています。先週から2段目に取り掛かり、今日は2段目の2個目に当たる成形を行いました。成形の準備としてのタタラはウィークディの夜の時間帯に作っておきました。さらに先日土練りを多めに行ったので、3個目の準備として今日中にタタラを作ることも出来ました。成形は制作工程の中では一番楽しい作業で、集中力が増します。今日は朝から夕方までそんな作業に追われていました。気候も涼しくなりました。環境的にも好条件が整ってきましたが、先日から右ひざが痛くなって、先週整形医院に行ってきました。レントゲンの結果では右ひざの接合部分の軟骨が磨り減っているとのことで、治療を始めることになりました。加齢なのか、無理しすぎていたのか、座った姿勢から立ち上がる時に痛みがあるのです。歩き始めると何でもなくなります。飲み薬と湿布をもらって帰ってきました。仕事に出かけるのも、東京の美術館に出かけるもの全て足を使うので、大事に至らないようにしたいと思っています。彫刻制作は身体を酷使する場面があって、どこか身体の一部が悪くなると忽ち影響が出てきます。数ある芸術行為の中では一番身体が強くないとやっていられない分野なのです。そのせいか先輩の諸氏は、皆んな元気で溌溂としています。自分も末長く彫刻制作に携わっていたいと願っていて、身体には気を使っています。明日は制作の後、東京の美術館に出かけます。久しぶりに師匠の作品を拝見してきます。
2018.10.12 Friday
「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)の中で、昨日は「点」について取り上げました。カンディンスキーの有名な著作である「点・線・面」の順番から言えば、今日は「線」を取り上げていきます。本書の中では「点・線・面」から引用した文章が散見され、そこを起点に現象学的見地からカンディンスキーの抽象芸術について論じている部分も少なからずあります。まず「線」の定義となる一文を取り上げます。「『この力は、平面内に喰い込んでいる点に飛びかかって、点をむりやりに引き離し、それを、平面上或る方向へと押しやる。』とカンディンスキーは詩的なことばで明確に述べている。点に働きかける新しい力の指し示す方向ーその力が変わらないかぎり同じままである方向ーへと、追いたてられる点、それは線なのである。」同じ「点・線・面」の引用から次の一文もありました。「純粋にフォルム的な線の働きにとって、生のあらゆる力ーその力のみごとな完成から劇的な対立までーを現実化することが可能なのである。カンディンスキーはこう書いている。『このように、線の世界は、冷たい情熱に始まり熱いドラマチックに終わるところの、表現的な響き全部を所有しているのである。』」カンディンスキーにとってのフォルムとは何か、この考察も述べられていました。「カンディンスキーは内部の音色にもとづいて、生の情念的多様性とその限りない様態変化にもとづいてー芸術の抽象的内容にもとづいてーフォルムの語彙をつくりあげているのである。情念が線を出現させる力の情念であるかぎり、線の働きが(そこから生ずるフォルムの広大な領域に支えられつつ)そうした力の働きであり、われわれの生を物語るものであるかぎり、フォルムの語彙は生の表現となっているのだし、そうなることができるのである。」線についての考察はここまでにしておきます。
2018.10.11 Thursday
「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)を昨日に続いて取り上げます。画家カンディンスキーは抽象絵画の創始者であるとともに、当時バウハウスで講義した抽象芸術の理論が有名で、近代美術史の中では実践と理論双方で大きな業績を残した巨匠と呼ばれています。私もカンディンスキーの著作である「芸術における精神的なもの」や「点・線・面」の邦訳を読み耽った時期がありました。嘗てこのNOTE(ブログ)でもカンディンスキーの著作を取り上げたことが記憶にあります。今回は著者ミシェル・アンリによる「点」の解釈を載せます。「点」を定義した本文を引用いたします。「バウハウス時代、探究が集中的に向けられて行くフォルムの最初のものは、点である。~略~まぎれもなく、点は幾何学的存在でもある。幾何学的存在としての点は分割することができず抽象的であるが、これは、純粋状態で(もはや自然のフォルムとしてではなく)把握され考えられた幾何学図形一切を表す場合の、非具体的で観念的な存在という意味においてである。」現実に点を作品表面に穿った場合はどうなのか、こんな一文もありました。「現実の点は、いくぶんか小さかったりいくぶんか大きかったりする。したがって、点が大きくなればなるほど、それが占める表面がまさしくひとつの面になり、そういうものとしてその固有の音色とともに知覚され体験される。~略~点が少しずつ面に変わったり、あるいは逆に面が再び点として把握されたりする間、二つの内部の音響、二つの情動的な基調色、点と面の基調色は重なりあっているけれども、ただひとつの外部の要素、現実の点という要素のほうは眼ざしをとらえ続けて離さないのである。」