Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 9月の振り返り
    9月の最終日になりました。今日は朝から工房に篭り、11個目の陶彫部品の成形と彫り込み加飾を行いました。陶彫部品は7月に1個、8月に5個、そして今月は5個作り、2つの塔の土台部分はこれで終了しました。焼成は今日の分を含めると3回の窯入れを行いました。次の水曜日にもう一度窯入れを行う予定です。今日は台風の影響で朝から雨が降り、めっきり涼しくなって作業はやりやすくなりました。酷暑続きだった夏はどこにいってしまったのか、季節の移り変わりは確実にやってくるものだと実感しています。さて、今月を振り返ると充実した制作内容に満足を覚えました。陶彫部品5個を作り終えたのは、本当に良かったと思います。焼成も始まり、次から次へと乾燥した陶彫部品に仕上げや化粧掛けを施しています。ゴールはまだ先と言えど、気持ちが今まで以上に前向きになっているのが喜ばしいのです。RECORDも山積みされた過去の作品を全て作り終えました。食卓に置いた山積み解消です。日々のRECORD制作に加えて、過去の作品の彩色や仕上げを毎晩3時間くらいかけて行っていました。自宅でぼんやりする時間がなく、今月は根を詰める日が続きましたが、それでもそうした習慣に慣れてしまうのはどうしたものでしょうか。創作活動が自然に自分の中に入り込んでいるのではないかと思いました。鑑賞も充実していました。大きな展覧会は「藤田嗣治展」(東京都美術館)に行っただけでしたが、後輩の彫刻家が出品していた「二科展」(国立新美術館)や多摩美大助手の個展(GSIX蔦屋書店)、同じ職場の人が出品していたグループ展(美術家連盟画廊)にも足を運びました。映画鑑賞は「モリのいる場所」、「犬ヶ島」、「スターリンの葬送狂騒曲」、「カメラを止めるな」(全てシネマジャック&ベティ)の4本。ウィークディには仕事をしながら、週末の制作の合間を縫ったり、夜間の時間帯に鑑賞に出かけたりしていました。忙しく動き回ることを貧乏暇なしと言いますが、経済状態はともあれ、心は決して貧乏ではなく裕福で豊かな状態にいると思っています。確かに経済を支えているのはウィークディの仕事だけですが、自分の精神性を培う多忙さは歓迎すべきものではないかと私は考えているのです。その中で現在読んでいる現象学の書籍は手強いなぁと感じています。美術作品や映画を単に観るだけではなく、モノの存在を現象面から考察することに自分なりの思惟を持ちたいと考えている私は、これを避けて通れず、納得できるまで付き合う所存です。どんなに理解が困難で解釈に遅滞が生じても、頑張って読破しようと思っています。来月も今月並みに制作や鑑賞に邁進していきます。
    週末 9月最後の陶彫制作日
    9月最後の週末になりました。制作工程を早めに進められたおかげで、この週末で土台部分11個が全て揃います。もちろん陶彫制作には最後に焼成という極めて重要な工程がありますが、これは人の手が及ばない神がかり的境地なので、人智が及ぶ範囲での制作として土台部分の完成は喜ばしい限りです。土練り、タタラ、成形、彫り込み加飾の他に焼成のための仕上げと化粧掛けが加わり、制作サイクルは着実に回り始めています。今日は朝から工房に籠り、第3回目の窯入れをする準備として、仕上げと化粧掛けを行いましたが、そろそろ週2回の窯入れをしようと思い立ち、仕上げと化粧掛けは2個分をやることにしました。明日の夕方に窯のスイッチを入れて、水曜日に窯出しと次の窯入れを行うことにしたのです。今日の午前中は2個分の仕上げと化粧掛けを行い、午後になって土錬機を回し、土練りとタタラ6枚を作りました。土曜日はウィークディの疲労が残っていて身体が動かないのですが、明日の成形のための準備として頑張ってしまいました。今日は台風が近づいていて、雨が降ったり止んだりしてちょっと肌寒い日でしたが、シャツが汗でびっしょりになりました。真夏でもないのに汗が滴る感覚は久しぶりでした。明日は陶彫部品としては土台の最後となる11個目の成形と彫り込み加飾に挑みます。
    2018個展の批評より
    (株)ビジョン企画出版社から発行されている「美じょん新報」は月々の展覧会情報が掲載されていますが、「評壇」欄では美術評論家瀧悌三氏による、端的で歯に衣着せぬ展覧会批評があって、私は常々参考にしています。9月20日発行の新報にギャラリーせいほうでの私の個展評がありました。引用すると「黒褐色の、古い遺跡から出土した『発掘』品のような陶彫。塔のようにそそり立ち、根元から4本の足が出た立体と、高いテーブル下方に長四角が付いている立体との2体。前者が最大、後者がそれに次ぐ。共に手の混んだ作り。迫る力、並みではない。他に方形板の類品(小品)若干。」という短文ですが、「迫る力、並みではない。」という箇所に元気をもらいました。この一言で私の彫刻は彫刻としての発信が強いのだと勝手な解釈させていただいています。何よりも現在進行形の私の表現に間違いはないと実感した次第です。陶を扱うと陥りやすい技巧的な作為、私はそれに反発して作品が技巧的に走ることを戒めました。初期の頃の作品には陶板をギリギリまで薄くしていこうと考えた時期がありました。私の作品が工芸品ならばそうしていたでしょう。でも私が求めていたのは彫刻なので、あくまでもイメージを優先にして作品を考えました。手先で器用に作ることではなく、自分の心に湧いたイメージを常に思い描きながら、表現への渇望が生じない限りは作らず、技巧よりも精神性を求めました。思いつきや小手先ではない一貫した自己世界観の創出。それは思索でもあり、造形理論の構築でもあります。彫刻でなければならない必然性、陶彫でなければならない必要性、私のイメージの起源はどこにあるのか、若い頃やっていた人体塑造を放棄したのは何故か、広漠とした都市空間に眼を向けた時に感じた空間の開放感と閉塞感。そもそも空間とは何か、モノが存在するとはどういうことか、モノが眼前に現れている現象の考察、意志と表象の世界、アポロン的解釈とディオニソス的解釈、そんな根源的な学問が頭を駆け巡り、私に何をするべきかを示唆しているのです。並みではない迫る力はそんなところから生まれてくるのかも知れず、私がこれから求めていく世界は、さらに深淵なところに私を追い詰めていくのだろうと思っています。空間に対して面と向かう彫刻表現は、空間を哲学として扱うものだと私は考えています。嘗て親しんだハイデガーの著作も現在読んでいるフッサールの現象学も、私の求めるものの一助となると信じているのです。
    映画「カメラを止めるな」雑感
    2日にわたって映画の感想をNOTE(ブログ)に載せさせていただきます。私が常連客になっている横浜のミニシアターは遅い時間帯に上映する映画があって、勤務終了後に立ち寄ることが出来るのです。この時間帯であれば家内を誘うことも可能なので、感想を話し合うのも楽しいひと時です。今回観た映画は低予算で制作された無名の新人監督、無名の役者たちによる話題作でした。観客動員数が話題に上るほど評判になっている映画なので、この人気ぶりは一体何なのか確かめてみたくなりました。「カメラを止めるな」はゾンビが登場するホラー映画の部類に入りますが、まだどこにもないエンターティメント映画であると実感しました。まず度肝を抜かれたのは37分に及ぶロングワンカット。カメラに血しぶきがかかったり、地べたを這い回ったり、ともかく役者もスタッフも体当たりで臨んだ制作の現場であっただろうと思いました。映画の骨子を語るとメタバレになってしまうので、言い方が難しいのですが、綿密に考え抜かれた企画、何度も練習したであろう現地でのリハーサル、動線の確保やらメイクの準備など、常軌を逸したテイクを撮るためにトラブル続きだったのではないかと察するところです。ロケ地は茨城県水戸市にある芦山浄水場という廃墟で、これが撮影にぴったりの場所だと思いました。浄水場内とその周辺しか撮らないため、役者もスタッフもここに缶詰め状態でロケをやっていたわけで、おまけに最後に登場する大人の組み体操は傑作でした。こんなことに大真面目に取り組まなければならない運命に思わず笑いが噴出してしまいました。撮影の裏側で展開されるスタッフたちのドタバタは、無我夢中だからこそ滑稽で笑いを誘うのでしょうか。映画は私がやっている彫刻制作や家内がやっている胡弓演奏と同じ創造行為です。直接衣食住に関わることがない芸術文化に属するものです。そういうものにどうして制作者たちは肉体や精神の限界まで挑むことができるのでしょうか。戯事と言えばそれまでですが、そうしたものに人を夢中にする魔力があると私は感じています。映画「カメラを止めるな」に多くの人が魅了される理由がわかりました。理屈抜きで面白い、破天荒な娯楽性というのはこういう映画を言うのでしょうか。
    映画「スターリンの葬送狂騒曲」雑感
    先日、横浜のミニシアターにイギリス映画「スターリンの葬送狂騒曲」を観に行きました。物語の発端は旧ソビエト連邦に君臨した独裁者スターリンが、1953年に脳溢血で倒れ、そのまま死去し、その後継者を巡って政権内で権力争いが起こるというものです。図録によると「『驚くべき物語が、さらに驚くことに、ほとんど事実』であるために、フランスで出版されるや物議と人気がヒートアップしたベストセラー・グラフィックノベルの映画化が実現。」とありました。また「壮大なのに姑息、大真面目なのに可笑しくて、卑劣で残忍なのに引き込まれる、史上最もドス黒い実話に基づくブラック・コメディである。」という紹介文もありました。スターリンは粛清という大量虐殺を行ったため、その追従者である首脳陣は本音を隠すことが習慣化してしまい、スターリン死後もその亡霊に翻弄される箇所があります。腹心のマレンコフ、秘密警察警備隊トップのベリア、第一書記のフルシチョフが騙し合いや裏切り、裏工作を仕掛けていきます。これは大事件であるにも関わらず、滑稽で卑小な人間関係を映画では浮き彫りにしていくのです。その一つがスターリンが倒れた直後に側近たちは医者を呼ぼうとしますが、有能な医者は獄中か死刑に処されていて、仕方なくヤブ医者を掻き集める場面があり、またそこまで辿り着くまでに手順通りの合議をする場面です。こんな急を要する時に何をやっているんだと気を揉みますが、敢えて時間を費やし、独裁者を死に追いやろうとする周囲の計算も見て取れます。脚本家がこんな一文を寄せています。「あえてコメディに仕上げようとはせず、状況からコメディが生まれてくるようにした。登場する男たちが卑劣な人間なのは明らかだが、その性質が強く出た時でさえ何らかの魅力を感じてもらえるようにしたかった。」この映画は2018年1月にロシア文化省が、歴史映画としても芸術映画としても価値がないとして、封切り3日前に上映中止にした経緯があります。これが上映されていたら、ロシアの人たちはこの映画に対してどんな感想を持ったのでしょうか。