2019.01.11 Friday
冬季休業が終わったばかりで、すぐ三連休がやってきます。有難味は薄いのですが、創作活動においては時間確保が出来て、弾みがつくのではないかと思います。新作の2つの塔を繋ぐ根の陶彫部品は、前の作品でも何回も作っているので、制作方法には馴染んでいますが、これはなかなかシンドい作業なので骨が折れます。陶彫はどんなカタチであれ、焼成をしなければならないため、陶土を無垢にはできません。内部はがらんどうなのです。根の陶彫部品は蒲鉾型で、裏側から手を入れられると曲面の張り出し具合や厚みを調整できます。この裏側から手を入れる作業が結構辛いのです。陶彫部品が乗っている作業台に穴が開くようにしてあって、成形がある程度終わったら、小さな穴から手を差し込んで、陶土の内側を手で探りながら、最終的なカタチに仕上げていきます。この三連休では、根の陶彫部品を2個作ることにしました。現在、根の陶彫部品は3個出来ていて、乾燥を待っている状態です。三連休で2個作れれば、残りは10個程度になります。三連休では職場のある地域の新年会があって、全て制作に充てられないのですが、限りある時間を有効に使って頑張りたいと思っています。RECORDはこの三連休でどのくらい遅れを散り戻せるのか、これは夜の時間帯になりますが、合わせてRECORDも頑張っていきます。
2019.01.10 Thursday
「風景シリーズ」として始めた今年のRECORDですが、まず最初の1月を「浮遊の風景」というテーマで日々制作をすることにしました。私が創作活動の中心に据える彫刻は、空間の中に置かれる立体であり、それなりに重量があります。彫刻を重量から解放したのはアメリカ人彫刻家アレキサンダー・カルダーでした。彼のモビールは空間に浮遊する彫刻作品として世界的な認知を受け、現代彫刻の中にはモビールの考え方を発展させた作品も見受けられます。また、トロンプ・ルイユ(騙し絵)の手法を使ってオブジェを宙に浮かせる立体作品も登場しています。それが軽やかに見えるかどうかは別問題として、モノが浮いているのを見ると私はある種の軽快さを感じてしまうのです。私は地表から立ち上がったり、地表の下へ掘り込まれていく形態を作っているので、その真逆にある空中を浮遊するカタチに憧れを抱いています。まだ、自分で浮遊感のある彫刻作品を試みようとは思いませんが、いつかそんな風景をイメージして、彫刻を作る日がくるのでしょうか。風に舞う凧や風力発電に使用するプロペラさえ、私は立体造形としての魅力を感じています。発掘された出土品みたいな作品をつくっている自分にしたら可笑しな趣向ですが、自分とは対極にあるモノにある日忽然と挑戦するかもしれません。そんな思いを反映して、今月のRECORDを作っています。平面作品だから出来ることは、重力からの解放です。もしこんなものが作れたら、という思いで1ヵ月間やってみようと思います。
2019.01.09 Wednesday
今年のRECORDの方向性を考えました。もう既に元旦から作り始めているRECORDですが、今年1年の大きな主題として、現存する風景、または心象風景を中心に据えて、日々制作していこうと決めました。彫刻の手ほどきを受けていた20歳頃の私は、立体把握の習作として人体塑造をやっていましたが、海外に出て空間造形の在り方を思考するうち、周囲の風景を取り入れるようになり、西欧で遭遇した古代遺跡をイメージの源泉にする彫刻を作ってきました。「発掘シリーズ」や「構築シリーズ」はそうした中で生まれてきたものです。RECORDは彫刻とは別の動機で始めた表現媒体ですが、既存のRECORDにも彫刻のイメージを補填する作品があり、それならばいっそのこと類似したシリーズでRECORDをやってみようと思い立った次第です。私が5年間の滞欧生活で辿り着いた心象風景。自分の足で歩き回り、現地の空気を吸って思い至った空間に対する感触。そこに現象として存在し、意識分析を経て作品として再現する意義。そんな思索を通して現前する風景を自己解釈する試みを彫刻ではやってきました。今年のRECORDは、その延長にある位置付けをして取り組んでいきます。毎月のテーマに「~の風景」という文言を入れていきます。RECORDが彫刻と異なるのは次元の違いです。平面なら素材の重量や重力から解放されます。ただし実材がないため、存在感に欠けるのは否めませんが、自由度は増すのではないでしょうか。今年1年間をそんなコンセプトでいく所存です。
2019.01.08 Tuesday
昨日に続いて「経験の構造 フッサール現象学の新しい全体像」(貫茂人著 勁草書房)の第九章「他者と客観的世界」についてNOTE(ブログ)に掲載していきますが、この章から大きな単元になっていて「自我という問題ー他我・歴史・文化」という括りがついています。現象学はその性質においては独我論になると考えられますが、他我や歴史や文化を扱うとなると相互主観性が問われることになるのです。まず本章では自我についての考察があり、「固有性領野」という語彙が出てきます。つまり「人工的な手が加わっていない『自然事物』と私の自我機能」がこれで、自我機能というのは受動的・能動的作用で、「フッサールは特に身体の機能を強調する。身体機能として重要なのは『方位原点』機能と『身体運動感覚』だ。」とする一文がありました。他我については「固有性領域に、私の身体と同型の対象があらわれ、その対象とわたしの身体との間に『体化』という受動的綜合がおこる。~略~その身体に私は『自己移入』する。~略~他我は『付帯的に現前』する。」とありました。次に出てくるのが他人の心を間接的に推論しようとする「類推説」です。フッサールは類推説を否定する理論の展開を試みますが、「人格主義的態度は超越的態度とは異なる。自然科学に対応する、事物や生命的自然を扱う自然主義的態度と、精神科学に対応する、人格や社会を扱う人格主義的態度は、われわれがそれぞれの場面で主題化することなく『生きている』態度であり、超越論的現象学態度において主題化され、『領域存在論』を形成する。」とありました。後半に登場する「パースペクティブの二乗」という語彙がありますが、これは何を意味するのでしょうか。他我を媒介しなければ私の人間自我が成立しないとフッサールは考えていて、「私もしくは私の身体が客観的なものという資格を持つためには、私の身体が私以外の主体にとっての対象とならなければならないのである。~略~パースペクティブの相互嵌入、パースペクティブの二乗というべき構造において初めて生まれる事態だ。このように、まったく新しい構造が、それ以前の構造契機の組み合わせによって生まれる状況は、熱力学における非線形構造や『創発』に類似している。」とありました。第九章もまとめには至りませんが、今日はこのくらいにしておきます。
2019.01.07 Monday
冬季休業を利用してフッサールの現象学を少しでも理解しようとしていましたが、難解な語彙や複雑な理論に、正月の休み気分では太刀打ちできず、「経験の構造 フッサール現象学の新しい全体像」(貫茂人著 勁草書房)の読破は出来ませんでした。それでも第八章と第九章を読み終えたので、まず第八章のまとめをNOTE(ブログ)に掲載します。この章では哲学者デカルトが登場してきました。フランス生まれのデカルトは合理主義哲学を唱えた人として有名です。デカルトは元来数学に関心が高く、信仰による真理ではなく人間の理性を用いた自論に、無神論を広める思想家として非難を受けたことがあったようです。そのデカルトが構築したものを体系化して図式として示したものが「デカルト図式」です。「フッサールは、主観と客観を区別した上でコギトとしての前者をすべての基礎とするデカルト的図式を踏襲したという解釈が導かれる。だが、超越や内在の構成分析がある程度完成した段階において、還元論から導かれる図式は維持しうるのだろうか。」と本文中にありますが、現象学は近代哲学を切り開いたデカルト主義を反転させる理論に達していることを本章では証明しています。現象学的還元論はフッサールの代表的な著書「イデーン」の中で述べられていて、そこから発想される結論から、次のような文章が提示されています。「円熟したフッサールの理論において、内在の絶対性は維持しえず、超越的世界は志向的相関の必然的構造とされる。内在を絶対とし、超越を偶然的とするデカルト主義的図式を反転させたものが、円熟した現象学体系だ。この反転は、対象や経験構造に関する現象学的分析の積み重ねに導かれた。~略~初期現象学は、表象のタイプ別分類にすぎなかったが、後期現象学は、経験や体験の場面ごとに多様な原理や装置が見いだされ、場面ごとに別個のシステムからなる全体として組み立てられている。その結果が図式の反転だ。」まとめには到底なりませんが、今日はここまでにします。