2018.12.22 Saturday
今日から職場は冬季休業に入ります。出勤日もありますが、年休を使うと最大16日間の休みが取得できます。この長期休暇の制作目標は陶彫部品を8個作ることです。単純に計算すれば2日で1個作るわけですが、職場外の催し物に参加したり、大晦日や正月もあるので、計算通りにはなりません。多少の無理も承知で頑張っていくつもりです。今日は朝から工房に篭りましたが、土曜日はウィークディの疲れがあって、なかなか作業が捗りませんでした。昨晩は職場の納め会もあったので、今日はぼんやり過ごしたい気分でしたが、とにかく日々のノルマを達成しなければ制作目標に近づかないので、土練りや大きめのタタラを複数枚作っていました。夜はRECORD制作に費やしました。RECORDは2週間分の遅れを取り戻すために、今までの大量の下書きに彩色を施していました。絵の具が乾くまで現象学の書籍を手にとって頁を捲りましたが、頭が朦朧としてデカルト式図式というのがなかなか入ってこず、今晩は現象学の学習は諦めました。人間は機械のように動けないものだなぁとつくづく思いました。学問は時間刻みのスケジュールでは頭に入らないものなのかもしれません。現在の私にとって読書は楽しいものではありません。難解な語彙の中に自分を投入して、混み入った理論を紐解いていく学習なのです。それでも単元を読み終えて、あれこれまとめをしていると不思議な満足が得られます。それは創作活動も同じです。創作活動はまさに労働の蓄積で、耐え忍ぶ姿勢で作業をやっています。これも出来上がってくると不思議な満足感がやってきます。即座に楽しめないところに高水準な楽しみがあると言えます。これを16日間やっていると結構大変かもしれません。今日は16日間の初日で、内容としては手強いスケジュールだなぁと思っているところです。
2018.12.21 Friday
明日から最長1月6日まで冬季休業を取得できるように、私の職場では「働き方改革」を進めています。職員によっては出勤を余儀なくされる部署もありますが、年末年始を迎えるこの時期は、それぞれの家庭事情を考えて適切に休んでほしいと私から全職員に話しました。長く休むためには休業中もコンプライアンスを意識してほしい、職場にある個人情報管理を徹底してから退室してほしい等、さまざまなことを職員に言いました。働き過ぎの私の職場では、職員一人ひとりが穏やかに年の瀬を迎えられることを祈っている次第です。私自身は16日間のうち職場外に出勤する機会がありますが、緊急事態がない限り、職場を可能な限り休んで創作活動に没頭したいと思っています。現在作っている新作の集合彫刻は、50数個の陶彫部品で構成される作品ですが、そのうち33個をこの冬季休業で作りたいという目標を掲げています。現在25個の陶彫部品が焼成済みか、乾燥待ちをしている状態で、残り8個を作る予定です。16日間で8個、これは何とかなりそうな目標です。勿論これをやるには大晦日も正月も創作活動に充ててしまわなければなりませんが…。美術館や映画館にも鑑賞に出かけたいと思っていて、どこかで時間を作ろうと思います。難解な2冊の書籍の読破も目標にしていますが、昼は陶彫制作、夜はRECORDやNOTE(ブログ)をやっている中で、どこで本を読もうか思案しています。こう考えていくと、私は創作活動を仕事と捉えれば、働き過ぎなのかもしれません。それでも心は解放されるので頑張って取り組みたいと思います。
2018.12.20 Thursday
高校時代、工業デザインを学ぼうとしていた私は、大学では彫刻を学ぶことになり、そこで出会った師匠に刺激を受けて、今まで40年以上も彫刻に関わり続けています。日常生活の質の向上を目指すデザインに比べると、社会的ニーズのない造形をよくもここまでやってきたなぁと思っています。逆に二足の草鞋生活として関わっているウィークディの仕事は、社会貢献度としては抜群の職種で、これがあるから自分の存在意義を感じていると言っても過言ではありません。現在、公務員としては社会的責任を伴う役職にいるので、ニーズのない造形とは主従の関係になりそうですが、私の中ではどちらも同等な存在感があります。ではなぜ彫刻、いや造形全般に対して私が拘りをもって奮闘しているのか、これは自己探求にもなりますが、自分なりにずっと考えていることで、明確な理由は今もって掴めていません。分かっていることは、現在やっている陶彫部品を組み合わせた集合彫刻が面白くて仕方がないということです。誰にも非日常的なイメージを抱く場面があるのではないか、こんなふうに出来たらいいなぁという朧げな想像を、想像のままに終わらせないで、具現化してしまうことが自分を造形に掻き立てている動機です。もうひとつは私の資質になりますが、ひとつのことをブレずに追求する信仰心のような姿勢があります。神の存在を信じていれば、造形は神に捧げる明快な理由づけが可能です。私は何に対して信仰しているのか分かりませんが、40年以上も継続する何かがあると感じています。創作に対する理由が欲しくて、偉人たちが構築した哲学に挑んでいると言っても差し支えありません。これも自己探求のひとつです。理由なんか要らない、やりたいことをやるだけ、と思っていたのは造形のスタートラインに立っていた頃だったと述懐しています。60歳を超えてなお旺盛に創作に挑むことは、自分なりの造形に対する根拠が必要です。自分は何者か、今後も自分に問いかけていくのだろうと思います。
2018.12.19 Wednesday
昨日、一昨日のNOTE(ブログ)に「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)の単元毎のまとめを掲載しました。著者であるミシェル・アンリはフランスの現象学者で、抽象絵画の先駆的役割を担ったカンディンスキーの絵画論を、現象学的視点で論じたものが「見えないものを見る カンディンスキー論」です。本書を読む前に、カンディンスキーに関する文献を読んでいた私は、点・線・面、あるいは色やフォルムを独自な視点で論じている本書に関しては、予備知識も手伝って読解に多くのパワーを費やすことはありません。手強い箇所もありますが、カンディンスキーの絵画を思い浮かべれば、難しい文面も紐解けるような気がしています。それに比べると「経験の構造 フッサール現象学の新しい全体像」(貫茂人著 勁草書房)は、私にとってかなり難解な箇所が多く、読み取りに時間を要します。本書は現象学を提唱したフッサール哲学を平易に解説した書籍ではなく、フッサールの理論を現代にアレンジした発展的な専門書ではないかと思っています。幾度も読み返しながら理解に努めていますが、何しろ御本家フッサールの書籍をまだ読んでいない私は、胸にストンと落ちていかない咀嚼不全を感じています。フッサールの翻訳書籍も持っているのですが、これもなかなか難しくて頁を捲ると腰が引けるような専門用語の羅列が眼に入ります。それは「形式論理学と超越論的論理学」という書籍ですが、これに挑むのは少々先になりそうです。とりあえず、現在読んでいる「見えないものを見る カンディンスキー論」と「経験の構造 フッサール現象学の新しい全体像」を冬季休業が終わるまでに読破したい目標があります。2冊同時読破は難しいかもしれませんが、頑張ってみるつもりです。
2018.12.18 Tuesday
昨日に引き続き「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)の単元を取上げます。今回は「目に見えない色」についてです。カンディンスキーの著書「点・線・面」の中では、色彩以外の造形要素の分析がありますが、それでも著者は色についてのカンディンスキーの理論を読み解いています。「われわれは、線の実際の存在とは線を生み出す力であり、最終的にはその力の情念であり、したがって目に見えない存在であることを論証した。色の場合の証明は、同じやり方で、同じくらい明快に行ない得るであろうか?色はいかなる力とも結びついていないように見えるし、主観性の領域の中に自己を同じように組みこんでくれそうな主観的性質を有する媒介物をまったくもちあわせていないように見える。」と色についての否定的な見方を冒頭では標榜していますが、カンディンスキーが展開する色についての情熱的な論考を取上げて、色は目に見えない生の中に感じ取ることができると結論付けています。色を包括的に含んだ絵画論に、私が気に留めた箇所がありました。「絵画は、ことばなしですませる。そのことが抽象絵画によって教示されるのであり、また抽象絵画に表現力をもたらすのである。実際、もし色が外的な関係によってわれわれの心の諸感情とかかわるのではなく、その諸感情の中に真の自己存在ー純粋な感覚としての、純粋な体験としての自己のありようーを見出しているとすれば、色は、ひとつの方法として、目に見えないわれわれの生という抽象的な内容を表す必要はない。色はわれわれの生と一致している。色はわれわれの生の情念、苦しみ、憂い、孤独、喜びとなっている。」これは抽象絵画における色の関わりが示された一文です。次に抽象絵画とは何か、というより一般的な絵画についても生と色との関係を解いています。「生と芸術作品との関係において、対象に意味や価値を与えることのできる眼ざしはまったく存在しない。なぜなら眼ざしや意味や対象は存在しないからであり、たとえば生と色との関係とは、色の主観性、すなわち生それ自体であるからである。」今日はここまでにします。