2018.05.11 Friday
東京上野にある東京国立西洋美術館で開催されている「プラド美術館展」で、最も呼び声の高い芸術家はベラスケスです。ベラスケスは写実主義絵画の巨匠ですが、描かれた人物の風貌や静物の質感には、目を見張るような表現力を感じました。肖像画の前で時間を忘れるほど佇んだことはレンブラントの絵画を見た時以来かなぁと思っています。一連の肖像画の中で、その特異性で際立ったのが矮人を描いた作品でした。ベラスケスの「バリェーカスの少年」より前に「矮人の肖像」と題名のついたファン・バン・デル・アメンの作品がありました。王侯や貴族が、矮人を身近に置く習慣は古代東洋から始まり、ペルシャ、エジプトを経てギリシャ、ローマ帝国に伝わったようです。彼らを召使いとして仕えさせる動機は、彼らに不完全性や愚かさを見取り、逆に貴族たちは自らの完成性を認識し、その慈愛と寛容を示したのでした。現代では差別的とも捉えられる動機ですが、ベラスケスが生きた時代ではその慣習が定着していました。ベラスケスが描いた「バリェーカスの少年」は、医学的見解では脳水症を患った少年だったようですが、ベラスケスはその障害をことさら強調することもなく、画家の視点もモデルと同じ目線に置かれているため、対象の奇異な雰囲気は感じられません。ありのままの少年を描いているので、前述した「矮人の肖像」と比べると、暫し眺めていないとモデルが矮人なのかどうかがわからないほどです。そうした自然な状態を感じさせてくれる描写表現にベラスケスのベラスケスたるところがあると思うのです。どんな作品であれ、自然の摂理を感じる作品は忘れられない印象を残すと私は思っています。美術史に名を遺した芸術家の作品には、こうした要素があると私は常々確信しています。
2018.05.10 Thursday
ゴールデンウィーク中の東京上野の賑わいは大変なもので、家内と私はそんな混雑を避けて、夕方の時間帯に東京国立西洋美術館に行ってきました。開催していたのは「プラド美術館展」。副題に「ベラスケスと絵画の栄光」とあり、今回来日したプラド美術館所蔵作品の目玉は、セビリア出身の巨匠ベラスケスの絵画7点でした。もちろんベラスケスだけではなく、ティツィアーノやルーベンスも含まれていて、スペイン並びにヨーロッパ全土の最高峰の芸術作品に触れることが出来ました。20代の頃、私はスペインの首都マドリードを訪れ、プラド美術館に足を運びました。質量とも圧倒的な芸術品の数々に、見て回った多くの作品を咀嚼できず、安宿で呆然とした記憶があります。寧ろ日本の企画展の方が、作品をじっくり味わえるのではないかと思ったほどです。ベラスケスの絵画群は、改めて写実主義の中にあるリアリティを私に感じさせてくれました。図録にこんな一文がありました。「ベラスケス芸術を純粋にスペイン絵画史の文脈において眺めると、その作品の図像学的な特異性にすぐ気づく。同時代のスペインでは、画家の多くが基本的に宗教画を手がけ、一部が静物画を専門としていた。それに対してベラスケスは、後半生の25年、信仰のための絵画を一度も描かず、宮廷肖像画に特化した。そして、ほかのスペイン人画家よりも頻繁に、非常に独創的な神話画や風俗画、風景画を制作した。肖像画についてさえ、矮人や道化の肖像のような割合に珍しい分野を決然と掘り下げたのである。~略~ベラスケスはほかのヨーロッパの宮廷と異なる基準に従って宮廷肖像画を制作したり、身近にあったティツィアーノやルーベンスの作品よりもはるかに色彩への傾倒を推し進めたり、絶えず古典主義に挑戦して独特な主題表現の方法を試したりした。」(ハビエル・ポルトゥス著 豊田唯訳)ベラスケスの個々の作品については別稿を起こします。
2018.05.09 Wednesday
東京汐留にあるパナソニック汐留ミュージアムは、私にとって感度の高い企画展をやっていることが多く、交通の利便さもあってよく出かける美術館のひとつです。今回の「ジョルジュ・ブラック展」も絶対に見に行こうと決めていました。キュビズムの巨匠ジョルジュ・ブラックはピカソとともに20世紀絵画に革新を起こしたフランスの画家です。描こうとする立体的な対象物を、平面上に分割して再構成をするという手法は、発表当時は議論の的となりました。ピカソは既に知られている通り、キュビズム後も表現方法が次々に変わり、その都度大きな足跡を残しましたが、ブラックはキュビズムに留まり、この手法の論理的な帰結に至りました。ブラックの晩年期には「メタモルフォーシス」と名づけられた絵画以外の素材によって、三次元の半立体の作品を制作し、高い完成度を持つジュエリーや陶器、彫刻が生まれました。今回は「メタモルフォーシス」の日本初の本格的な展覧会のため、私は内心ワクワクしながら、汐留に出かけました。一度平面作品で確かめた構成を、実材を使って作り変える試みは、単なる置き換えとは異なる効果を齎せ、対象物の輪郭の追求が際立っていました。私の個人的な感想としては、ブラックはあくまでも平面性を追求した画家であり、彫刻家ではなかったと僭越ながら思ってしまいました。ブラックの彫刻作品は平面の延長上にあって、たとえばキュビズム彫刻を代表するオシップ・ザッキンとは空間の捉えが違うと感じました。ただし、「メタモルフォーシス」は美しい作品群であることに変わりなく、色彩や構成の楽しさや面白さが私の印象に残りました。ブラックはルーブル美術館での個展も叶い、幸せな生涯を送ったようです。前衛画家にしては数少ない恵まれた人生だったのではないかと思います。
2018.05.08 Tuesday
昨年の第90回米アカデミー賞作品賞に輝いた映画「シェイプ オブ ウォーター」を横浜のミニシアターで観ました。これは半魚人が登場するモンスター映画です。モンスター映画がアカデミー賞作品賞を受賞したのは史上初だそうで、そこには現代に通じる様々な要素が散見されているのが受賞に至った理由ではないかと私は感じています。まず時代を米ソ冷戦が過熱化していた1962年にしてありました。捕獲された両棲人間を軍事利用するアメリカ軍、その施設を統括する神経質で邪悪な軍人。まず私が着目したのは当時の強いアメリカを象徴するような軍人とその家庭環境でした。時代設定の62年、まだ幼かった私は海外番組の影響で、アメリカの豊かさを羨望の眼差しで見ていました。軍人の家庭は裕福さを物語っていました。当時は人種差別もあり、アメリカは難しい問題が山積していたにも関わらず、白人優位の社会階層が幅をきかせていました。現在のトランプ政権に当時を彷彿させる気配を感じてしまうのですが、これは映画からの深読みでしょうか。そこに持ち込まれたモンスター。軍人に拷問されるモンスターは神々しい姿にも感じられ、モンスターと交流が始まる言葉が発せない女性とのやり取りは、不思議な美しさを漂わせていました。半魚人のデザインや造形にも、私は目が奪われました。アスリートのような筋肉と魚類系の眼の動き、感情を表すエラに、水陸両棲ならどんな生態系になるのか、創造と試行を繰り返したであろう現代版半魚人の姿に惚れ惚れしました。ラストシーンで、愛で結ばれた女性の亡骸を抱いて、海に落ちていく半魚人、そして海中で蘇生する女性の首にエラが一瞬出来上がっていた数秒の場面が、私には印象的でした。作品賞に輝いた理由はまだまだありますが、グロテスクな世界は人間側にあって、迫害されるモンスターは殉教者のように感じられたのも理由の一つでしょう。最後にデル・トロ監督の言葉を引用します。「僕はモンスターの侍者で、伝道師だ。」
2018.05.07 Monday
先日、常連になっている横浜のミニシアターに「ザ スクエア」を観に行ってきました。現代美術を扱っている映画というだけで、私は映画館に出かけましたが、内容は人間性の本質に迫る風刺の効いた辛辣なものでした。床に正方形を描いただけの作品が”ザ スクエア”で、枠内では全ての人に平等な権利と義務が与えられるという約束になっていて、この中にいる人が困っていたら、誰であれ手助けをしなければならないというものです。映画ではそうした自らが支持するモラルと、実際に自分が起こす行動との間に差が生じ、葛藤していく場面が描かれていました。現代美術館のキュレーターである特権意識の高い主人公が、”ザ スクエア”を準備する段階で、通勤中に財布と携帯電話を盗まれ、犯人が居住しているビルを探し出し、脅迫めいた手紙を配ります。”ザ スクエア 思いやりの聖域”を扱う美術館の仕事と、犯人捜索のために他人を思いやることがない脅迫文。同時進行して”ザ スクエア”を広報するためPR会社の若手社員が、炎上商法を思いつき、事態はとんでもない方向へいってしまい、やがて主人公は社会的地位を追われることになっていくのです。個人主義と共助の関係、集団的無関心と信頼との関係、寛容な社会とはどのようなものか、メディアの影響力とはどんなものか、この映画は日本人からすれば福祉が発達したスェーデンの現実的な社会を描いていたことも、私には衝撃的でした。映画は私たち観客をも刺激し、こんな場面に遭遇したら、あなたならどうしますか、と問われているように感じました。理想を掲げながら、欲望のために現実から目を背ける自分の闇の部分が暴かれているようで、映画全編にわたって居心地の悪さも感じました。そんな感想を持つことで、私たちはまんまと監督の術中に嵌ってしまっているのかもしれません。社会心理学で言うところの「傍観者効果」や、メディアによる過激な発信を好んでしまう私たちの集団的心理を浮き彫りにした本作は、まさに観客挑発型の映画と言えるでしょう。