2017.03.07 Tuesday
私がエゴン・シーレという画家の存在を知ったのは、「見えない彫刻」(飯田善国著 小沢書店)という書籍からでした。同書の初版が昭和52年なので、私は刊行後すぐ購入しました。同書にあった「予感的存在者としての…エゴン・シーレ」の章を幾度も読み返し、図版を眺めてみては、渡欧してオリジナルの絵画に会えるのを楽しみにしていました。1980年から5年間、私はウィーンに滞在してシーレ縁の国立美術アカデミーに入学しました。時代はウィーン幻想派の画家たちが教授職に就いていて、精神分析的な絵画が主流になっていました。ウィーンでは19世紀末のユーゲント・スティールと呼ばれる様式が、建築や美術を席巻し、その影響から発展した装飾的な作風が街中に残っていて、独特な美を形成していました。クリムトやシーレはオーストリア美術史の中で不動の地位を築いていました。さて、シーレはどんな人物だったのか、28歳の若すぎる急逝であっても、残された作品は数多く、その戦慄な絵画世界は私を一気に虜にしてしまいました。慣れない海外生活で精神不安定な日常を送っていた私が、シーレに惹かれたのは自然だったのかもしれません。シーレのことが知りたいと思ってもウィーンの書店で扱っている原書では読むのに時間がかかり、これは日本で改めて調べ直せねばならないと決めて帰国しました。「エゴン・シーレ 二重の自画像」(坂崎乙郎著)や「永遠なる子供 エゴン・シーレ」(黒井千次著)を読んで、自分の留学時の記憶と重ねて、シーレの実像に迫っていきました。心のバランスを崩すとシーレの世界がよくわかる、シーレの絵画には異常性が認められるのかもしれないと私は感じています。シーレが生きた時代は、芸術と猥褻の関係が漸く論じ始められていた時代であり、シーレの求めた世界は時期尚早だったのかもしれません。退廃芸術としてナチス政権によって廃棄させられた作品もあったでしょう。ともあれ私の5年間の滞欧生活は、クリムトとシーレによって刺激的で実り多いものになったと今でも思っています。
2017.03.06 Monday
先日、橫浜のミニシアターで「エゴン・シーレ 死と乙女」を観てきました。図録の中にあった「愛の不毛の中で、誰ひとり幸せにならなかった。ただ数々の傑作だけが残った。」(中野京子)というフレーズが目に留まり、感想としてまさにその通りだと思いました。エゴン・シーレその人を扱った映画は、フェーゼリー監督による1981年版があります。それが封切られた時に、私はシーレに関わりの深いウィーンの国立美術アカデミーの学生でした。シーレと独裁者ヒトラーは同時代人で、ヒトラーはアカデミーの入学試験に落ちていたのでした。シーレは教授陣に失望して中退したようですが、恥ずかしながら私は語学力不足による情けない中退でした。今回の映画ではシーレを取り巻くモデルを勤めた女性たちに主題がおかれているように思えます。クリムトから譲り受けたモデルのヴァリは、軽蔑される職業にありながら、愛の献身と覚悟があって見事な女性として演じられていました。図録の一文を引用します。「彼の恐るべきエゴイズムは、妻は妻として、愛人は愛人としていつまでもそばにいてくれるべきものだった。絵の中のシーレが、取り返しのつかぬことをしてしまったという眼なのはそれゆえだし、女を傷つけて女より傷ついているのもそれゆえだ。」(中野京子著)シーレの映画は愛欲の闇の部分を描く陰湿な物語になりがちですが、「エゴン・シーレ 死と乙女」ではシーレが踊り子モアと陽光の下で戯れたり、ヴァリと雪で遊ぶ場面があって青春を謳歌していました。心地よいバランスが全編にあって、それ故の死の恐怖が一層引き立っていたように思えます。次稿でシーレの絵画世界との出会いや思索を述べてみたいと思います。
2017.03.05 Sunday
今日は朝から工房で制作に明け暮れました。スタッフは2人来ていて、それぞれの課題に向き合っていました。職場から絵を描きに来た職員も遅れて到着しました。今日の工房は賑やかでした。通常通りの制作風景でしたが、乾燥を待っている陶彫部品のひとつが罅割れをしていて、私はその作品を再度作りなおしていました。昨日タタラを作っておいたのですが、それを使っての陶彫成形のやり直しで、制作工程は足踏みをしてしまう結果になりました。陶彫に長く関わっていると、いろいろな場面があり、これも仕方がないと思うようになりました。罅割れた作品は焼成前なので、ハンマーで叩いて粉にして、水を打って陶土として再生しようと考えています。元通りにするには、かなりの時間を要しますが、陶土は無駄にしないように努めているのです。午前中は陶彫成形に時間を費やし、午後は土錬機を回して40kgの土練りを行いました。作業途中から作業着の下に来ているセーターを脱ぎました。気候は着実に春に向かって暖かくなってきているようです。喉も渇くようになりました。身体が動き易くなっているのも気候が緩んでいる証拠かもしれません。週末の創作活動はウィークディの仕事とは異なる神経を使います。ウィークディの仕事をしていると週末が恋しくなり、週末になってみると創作活動の厳しさにクタクタになってしまうのです。来週はまた夜に時間帯に工房に通わなければならず、RECORDやNOTE(ブログ)の時間が取れない日がありそうです。
2017.03.04 Saturday
3月に入って最初の週末を迎えました。今日は朝から横浜のミニシアターに出かけ「エゴン・シーレ 死と乙女」を観てきました。家内が1泊2日の小旅行に出かけたため、工房に出入りしているスタッフを連れて行きました。朝9時から映画を観るのは滅多にありませんが、明日で上映が終わってしまうので慌てて観てきたのでした。エゴン・シーレは19世紀末から20世紀初頭にかけて美術界を疾風の如く駆け抜けたオーストリアの画家です。しかも彼は28歳で夭折したのです。一般的に言えばまだ画学生と言ってもいい年齢です。私が嘗て在籍したウィーン国立美術アカデミーをシーレは早々に中退して、独自の道を歩み始めたのも束の間、スペイン風邪に倒れたのでした。シーレの映画は1980年製作の「エゴン・シーレ 愛欲と陶酔の日々」があります。ヘルベルト・フェーゼリー監督、マチュー・カリエール主演による映画で、私が30年も前に滞在していたウィーンで観ました。今回観た「エゴン・シーレ 死と乙女」はディーター・ベルナー監督、ノア・サーベトラ主演によるもので、セセッション館(分離派会館)そのものが登場しました。私がいた頃、同館は修復中で、帰国前に漸くクリムトの「ベートーベン・フリーズ」の修復が完成して、内部を見ることが出来ました。映画の詳しい感想やシーレについての雑感は後日改めて稿を起こします。映画を観た後、みなとみらい地区に移動し、大手販売店で木材等を購入してきました。午後は工房で陶彫制作のための準備を行いました。座布団大のタタラを掌で叩いて作っている時は、ウィークディの疲労を感じました。夕方になってスタッフを駅まで車で送って帰宅しました。明日は朝から陶彫制作に挑みます。
2017.03.03 Friday
日本では西欧から彫刻の概念が輸入されたのは歴史的には浅く、ロダンやブールデルに学んだ日本人彫刻家が、内面から迸る動勢やリズムを塊として捉えた人物像を制作していました。西欧の新鮮な空気を纏った具象彫刻に、学生だった私も影響を受けました。現存の公募団体に出されている彫刻作品よりも、初期の時代の、彫刻の何たるかを模索をしていた先人の作品に溌剌とした雰囲気を感じたのは、私ひとりではなかったと思っています。ただし、学校で習っていた私の作品は相当お粗末なものでした。習作とはよく言ったもので、全部破壊したい衝動に駆られたこともありました。本来なら具象を極める中で象徴化や抽象化に発展していく過程がありますが、極めてもいない具象から忽然と抽象化していくのは、如何なものだろうと思いつつウィーンの美術学校に在籍していた私は、悶々とした中で抽象化へ傾いていきました。それは段階を踏まない抽象化でした。現在読んでいる「芸術の摂理」に登場する石彫家中島修さんも同じではないかと勝手に思い込んでいますが、自分と同じオーストリアで制作を続けていた中島さんも幾何学的な形体を追求していました。中島さんは具象彫刻の巨匠柳原義達の愛弟子だったので、どこかの時点で具象から抽象に作風が移行したはずですが、そこは本人から聞いていないので詳細はわかりません。私の場合は美術学校で女性モデルの横顔を小さなレリーフで作った後、何の前触れもなく抽象形体を石膏で作り始めました。そこに自分の思索はなく、いろいろ試してみようとしたのではないかと述懐しています。作品を抽象にした意味合いとモチーフは制作途中で湧き上がってきました。当時頻繁に散歩をしていたウィーンの旧市街が構築性を持って私にイメージを与えたのでした。人物ではない街の雑多なモチーフが私を取り巻いていて、裏街の路地が構成要素となり、微妙な角度をもつ抽象レリーフに発展しました。遺跡のような出土品を思わせる現行の自作は、そんなところから始まったと思っています。