2016.12.22 Thursday
今年は29日(木)から休庁期間が始まりますが、今日で仕事が一段落し、職員全員が昼食を囲む場面を設定しました。私の職場運営の手法の一つに、全員が鍋をつついて語り合う大鍋コミュニケーションがあります。現在の職場に境川部屋にいた元力士がいます。彼の力を借りて、今回は「ちゃんこ鍋コミュニケーション」にしました。今年さまざまな課題に対応し、それをひとつずつ丁寧に解決してくれた全職員に、私からのささやかな感謝の気持ちを表すため、「ちゃんこ鍋コミュニケーション」は海鮮を使った高級鍋にしました。毎回私のポケットマネーでやっているのですが、蟹や海老をふんだんに使った鍋は通常の倍以上の費用がかかりました。それでも職場を支えてくれた職員に頭が下がる思いです。職場は人と人の関係性で成り立っています。ひとり一人の職場に対する思いが、分掌の係を超えた連携に現れているのを見るにつけ、お互いの仕事をカバーする部分が大きいと見ていて感じます。そうしたカバー部分の幅が大きいほど仕事環境は良好であると言えます。「お節介な人が多いほど良い職場」と私が持論する所以です。このような職場文化がずっと継続していって欲しいと願うばかりです。
2016.12.21 Wednesday
現在読んでいる「シュルレアリスト精神分析」(藤元登四郎著 中央公論事業出版)の4人目に登場する画家はオランダ人のM・Cエッシャーです。エッシャーの絵画に関しては、自分が10代の終わり頃、トロンプルイユを多用した版画作品を知って衝撃を受けた記憶があります。今年の10月に橫浜のそごう美術館で「エッシャー展」があり、久しぶりにエッシャーの世界に触れて、心底楽しみました。本文の中にエッシャーの世界観を語る上での夢の精神分析を引用した箇所がありました。精神分析と言えばフロイトですが、ここではさらに分析を先に進めたフーコーの理論が用いられていました。フーコーは、夢の源泉が無意識の抑圧ばかりではなく、「特殊な形式の経験としての特権」であることを主張して、エッシャーの夢性を裏付けていました。カーターによる認知科学の一文も併せて引用します。「認知科学によれば、物がどうみえるかを決めるのは二つの要素がある。ひとつは遺伝子で、もうひとつは経験を経て形成された脳のパターンであるといわれている。したがって、私たちがみるものはそこに厳然と存在しているものであると限らないのである。『人が見る場合には、認識しやすい要素だけを拾いだし、頭の中で構築した図像に過ぎない』(カーター)こういう次第で、私たちの意識には『内と外』、『上と下』、『直線と曲線』などの基本的なパターンを反射的に認識するのである。エッシャーの作品は、これらの反射的認識の回路を解体し、認識のプロセスを混乱させるので、常に衝撃を与えるのであろう。~略~エッシャーの作品の非合理性あるいは認知感覚は、夢と同様に、認知の反射的回路を攪乱するのである。しかし夢とエッシャーの作品の根本的な違いは、夢の出来事が驚きや恐怖を引き起こすのに対して、彼の作品は自己の存在を脅かすような感情を引き起こすことはないということである。このことは、彼の作品がきわめて知的で緻密に計算されたものであることを示している。」
2016.12.20 Tuesday
このところ自作のタイトルは造語にするしか考えが浮かばず、漢字を繋げて造形イメージに近づけようとしています。「層塔」「群塔」「環景」など、過去のタイトルを振り返ると、造形イメージとの一体化を図る意志があります。私はタイトルのもつ思索的意味に拘りません。私にとってタイトルとは造形そのものを分かり易く伝えるためのアイテムです。そのため簡潔なコトバを選んでいるつもりです。現在作っている背の高いテーブル彫刻は、天板の下に陶彫部品を吊り下げているので「宙」というコトバが頭にありました。背の低いテーブル彫刻は、机上に広がる世界を表そうとしているので「座」というコトバが頭にありました。それぞれに景観の「景」をつけて、宙吊りの世界と机上の世界を「宙景」と「座景」にしようと考えました。作家によっては謎めいたタイトルをつけて、造形作品の深遠なる哲学に導入していく人もいますが、私の場合は極めて単純です。「発掘シリーズ」として出土品のような効果を狙った陶彫を作り続けているので、「発掘~宙景~」「発掘~座景~」というタイトルにしようと決めました。さらに「発掘~宙景~」は2点あるので、どういうふうにタイトルを分けようか悩んでいます。これも単純にA・Bとして表記しようかとも思っています。タイトルを考えるのは楽しみのひとつで、いくら簡潔なものでも詩的要素があると考えています。ましてや造語ならば尚更で、ホームページのGALLERYにアップする際にタイトルをイメージしたコトバを紡ぎだすことをしています。それは造形以上に頭を悩ませる世界でもあります。
2016.12.19 Monday
先日見に行った「クラーナハ展」が、NHK番組で取り上げられて、クラーナハが得意としたヌード絵画の分析を行っていました。肢体がリアルではないのは自分も理解していましたが、カタチの象徴化や色彩の艶めかしさを日本の写実画家が実証していて興味津々でした。クラーナハのきわどい妖しさは自分も感じていました。M・ルターによる宗教改革によって宗教画が排除され、ルターと親しい仲であっても、カトリックの宗教画の注文を受けていたクラーナハが考えた手段が、それまで踏み込んだことがないヌード画だったという時代の流れもよくわかりました。顧客の秘めたる楽しみに若い娘のヌードがあったというのも、現代の性風俗に通じるものがあって、男性の所有欲に成程と思った次第です。クラーナハは北方ルネサンスの旗手として存在を示していましたが、自分がオーストリア在住時代に度々ドイツを旅した時に感じた現代画家の画風が、クラーナハと通じるものがあるような気がしていました。北ドイツを中心に活躍しているP・ヴンダーリッヒやH・ヤンセン、J・シュマイサー、作家として実績があるG・グラス等は、まさにヌードや他のモティーフを描いても象徴的で自省的な思索が感じられて、クラーナハが蒔いた種が現代に継承されているような感覚を持ちます。彼らには個人的な秘技として表現された世界観があって、それ故デッサンや版画に特化した表現活動が盛んなのではないかと思うところです。「クラーナハ展」には現代作家の作品も併せて展示されていましたが、自分は北ドイツで出会ったそれら芸術家の表現に、クラーナハの精神性が脈々と受け継がれているように思えてなりません。
2016.12.18 Sunday
今日も朝から工房に篭って制作三昧でした。12月末まで何日間工房で制作できるのか、休庁期間も含めて試算し、大晦日までの制作計画を立てました。現在は背の高いテーブル彫刻の天板に吊り下がる大きな陶彫部品を作っています。背の高いテーブル彫刻は2つあって、それぞれ一段目に吊るす陶彫部品は6個あります。2つあるので合計12個です。そのうち焼成まで終わっている陶彫部品は4個あるので、残り8個です。それらを大晦日までに全て作れないかと考えました。昨日、栃木県益子町から陶土600kgが届いたので、材料はたっぷりあります。連続して制作する時には窯入れは出来ません。窯に入れてしまうと3日間くらいは放置しなければならず、工房の電気も使えなくなるからです。そのため焼成を除く制作を可能な限りやっていこうと思っています。成形や彫り込み加飾した後、乾燥のための時間確保も必要なので、制作をどんどん進めるのがいいと思っています。私にとってクリスマスも晦日もその気分になれず、毎年工房で制作に追われて過ごしています。街のイルミネーションを楽しむ余裕もありません。そこに今回は大学院生が付き合ってくれます。彼女の修了制作も次第に表現的な凄みを増してきました。作品が自己イメージの具現化に向かって産声を上げていく瞬間は、気分は意気揚々としてきて他に目移りがすることはありません。これが創作の醍醐味です。この根源的で生命の証に匹敵する魅力に比べれば、何をやってもうわべだけの楽しさは感じなくなり、創作の魔力に心身ともに憑かれてしまうのです。大晦日まで身体が動く限り頑張っていきたいと思います。次は天皇誕生日から始まる三連休です。土練りと成形・加飾を繰り返す計画を遂行したいものです。