2016.12.17 Saturday
昨年は12月5日に栃木県益子町にある明智鉱業から陶土600kgが届いていました。今年は今日の昼ごろ陶土600kgが届きました。実はまだ使い切れていない陶土がありますが、念のため早めの措置を取ったのでした。以前大雪が降って運送会社から陶土を届けられないと連絡を受けたことがありました。材料を使い切ってしまった後だったので、大いに困りました。私の陶彫作品は陶土がなければ何も始まりません。まずは材料があることが基本なのです。陶土はどこにでも売っている代物ではありません。画材店さえ置いていない所が多いのです。横浜から比較的近いのは栃木県益子町で、昔から馴染みの明智鉱業に注文をしています。今日は陶土が届いただけでなく、職場関係の人の奥様が亡くなられ、私は午前中に告別式に行ってきました。工房に帰ってから早速制作に取りかかり、土錬機を回したり、タタラを準備しました。今日はいつものように大学院生が来て修了制作をやっていたり、職場の人が来て水彩画を描いていました。週末の工房は活発な創作活動があって、それぞれが充実した時間を過ごしています。土曜日はいつもウィークディの疲労で身体が動きづらいのですが、陶土が届いたことが嬉しくてパワーが出ました。明日も継続です。
2016.12.16 Friday
現在、国立西洋美術館で開催中の「クラーナハ展」に展示されている絵画「洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ」の前で私は足を止めました。同じようなポーズを持つ作品に「ホロフェルネスの首を持つユディト」という絵画があって、こちらの方はポスターにもなっていて、多くの鑑賞者が群がり、大変盛況でした。ユディトの方は悪魔を打ち負かせたマリアとも称されて美徳を表しているそうですが、一方で女の企みと解釈されていて、描かれた内容を議論する楽しさがあります。「洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ」は、ユディトのように美徳を賛美するヒロインのイメージはなく、女性の残忍さの化身を表しています。サロメの物語は有名で、私もウィーン滞在中に何度も国立歌劇場で上演されたR・シュトラウス作曲による歌劇「サロメ」を観ました。実はウィーンに到着して間もない頃、人に勧められて初めて観たのが「サロメ」でした。暗い舞台に展開する過激な物語に、オペラとは何とキツいものだろうと辟易したのを覚えています。そのうち楽しいオペレッタを知って気分はいくぶん回復傾向にありましたが、R・ヴァーグナーの「リング」連作を観て、再び奈落の底に落ちていきました。そうした当時の鬱蒼とした気分がクラーナハの絵画と重なり、「洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ」を見つけた時に、憂鬱な想い出が甦ってきたのでした。でも今回は東京でサロメに遭遇したので、ダークな気分にはなりませんでした。聖書にある西欧民族の血生臭さを、防御ガラス越しに観るような感覚でした。アウエーで観る絵画は、触れてくる皮膚感が違うものだなぁと感じられた一場面でした。それにしても聖書にはさまざまな寓話が盛り込まれていて、異教徒である自分には憧れにも似たエキゾティズムを感じます。「洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ」には男の生首が描かれていて、ゾッとすると同時に、肉体に関しての文化の相違を感じてしまいます。「クラーナハ展」に出かけた日は、円山応挙や葛飾北斎を見た後だったので、なおさら西洋の絵画空間の捉えや構図の用い方が浮き彫りになったように思えます。ただし、秀逸な作品は洋の東西を問わず心に残るものだと思いました。
2016.12.15 Thursday
東京上野にある国立西洋美術館は、金曜日に開館時間を延長していて、仕事帰りに立ち寄れるので有り難いと思っています。先日は職場で午後年休をもらって幾つかの美術館を回り、最後に国立西洋美術館に辿り着いたのでした。夜になっても「クラーナハ展」には大勢の人がいました。日本でルカス・クラーナハは知名度がないと思っていたので、鑑賞者は疎らではないかと想像していました。クラーナハ絵画の独特な表情や肢体をもつ裸婦像に魅了されている人が、日本でも増えているのは嬉しい限りです。私は30年前、ウィーン国立美術アカデミーに学んでいました。同校付属美術館にクラーナハの絵画がありましたが、そこから環状道路(リング)を歩いて数分のところにウィーン美術史美術館があって、クラーナハのコレクションが充実していました。今回来日していたクラーナハの絵画は、その特徴を余すところなく表出していて、北方ルネサンスの中核を担った巨匠の世界を堪能できました。クラーナハの工房で請け負った絵画は数多く「もっとも素早い画家」と称えられていたようです。図録には生産力向上の工夫が書かれていて興味をそそられました。「この高い生産力は、ヴィッテンベルグの工房内で制作作業の合理的な経済化と規格化がはかられたことによって可能となったものである。顧客の需要をほかと比べて速く充たすため、規格化された絵の寸法や構図、ならびに定型化された人物像や風景モティーフからなる、とても狭く限定された表現のレパートリーが導入された。これらのレパートリーは積み木のようにもちいられ、簡単に変化をつけることができた。絵画の仕上げはしかし、もっぱら効率化された作画技術の導入によってのみなされたのではなかった。そうした手法とならんで、クラーナハは宮廷画家の任務を引き受けてからわずか数年にして早くも、さまざまな協働制作者たちが容易に適用できる、なかば拘束力のあるひとつの工房様式を確立したのである。」(グイド・メスリング著)職業画家だったクラーナハは、同時代に版画を頒布して名声を得ていたA・デューラーに匹敵するほど広域にわたって絵画を提供していたのでした。
2016.12.14 Wednesday
現在読んでいる「シュルレアリスト精神分析」(藤元登四郎著 中央公論事業出版)の3人目に登場する画家はベルギー生まれのルネ・マグリットです。マグリットの生い立ちの中で彼自身が語る次の文章に、その後の創作活動を示唆するものがあります。「私が体験し、記憶に留めている最初の感情は、神秘の感情である。ある日、私は自分が眠っている揺りかごのそばにあった箱をみていて、その感情を覚えた。その箱は私が目にした最初のものであった。私にとっては、それは、視覚世界の最初の現れである」というものです。文中に文筆家渋澤龍彦によるマグリット評があり、マグリット絵画は熱狂的なものが取り除かれていて、一種の哲学的絵画であることを指摘しています。「たとえ女の裸体が描かれていても、それは肉の官能性の輝きを賛美するために描かれたのでもなければ、また作者の欲望や感情や、潜在意識やコンプレックスの投入されたものでもあり得ないから、この冷たい裸体は要するに、ただのオブジェにしかすぎないのである」と渋澤は語っています。冷静に事物を捉えつつ、またイメージを裏切っていくマグリット絵画は「一般に、眼は物の表面や形にだまされて、その裏側にある神秘を忘れさせてしまう。マグリットにとって、絵は現実をコピーするのではなく、哲学者のように思索し、『神秘を呼び出す』ものであった。」と著者も綴っているように、マグリット絵画のユニークな特徴が今までの引用で浮き彫りになっています。さらに引用を続けます。「マグリットが、ある異様な天性の感覚を持っていることは確かである。すでに述べたように、彼の最初の記憶は、揺りかごのそばにあった箱であり、母親の顔ではなかった。また、隠された物をみることができるともいっている。彼が、この異様に研ぎ澄まされた感覚で、意識が眠りに隠されようとする瞬間に、その向こう側を感じ取ることができたこともあり得ることである。」
2016.12.13 Tuesday
今月のRECORDのテーマを「つながる」に決めました。今年はひらがな4文字による年間テーマを設定して、日々RECORDを作っています。年間の締め括りとして「つながる」というテーマにした訳ですが、職場でも人と人の連携、コミュニケーションを最も大切にしています。私たちの職種では、連携や協働がなければ仕事が進められないのです。そうした人との関係性を視覚表現にするのは難しく、数多の現代美術家がさまざまな試みをしてきたと言っても過言ではないでしょう。たかだか小さなRECORDですが、人と人、人とモノ、モノとモノが繋がっていく状態を象徴的に描ければいいなぁと思っています。10年近くもやってきたRECORDなので、似たテーマは過去にもありました。テーマが似ていれば、絵柄も似てくるのは当然ですが、何度繰り返してもいいのではないかと最近は思うようになりました。今月は忘年会や納会などの夜のコミュニケーションも多く、その日のうちにRECORD制作時間の確保が出来るのか、微妙な1ヶ月になります。それでも頑張って継続したいと思っています。