2016.06.01 Wednesday
6月になりました。今月11日(土)が2回目の図録用撮影日、7月17日(日)が個展搬入日、翌日18日の海の日から個展オープニングという先々の予定を考えると、いよいよ制作が切羽詰まってきたなぁという感じです。今月は何が何でも「発掘~環景~」の完成を目指します。撮影が終わったら、個展搬入のため陶彫部品をそれぞれ梱包しなければなりません。今月は新作の完成と梱包が大きな仕事です。ウィークディの公務員としての仕事では関西方面への出張が控えていたり、絵画コンクールの審査員にも抜擢されていて、先月に続いて今月も多忙感がありますが、何とか乗り切っていこうと思っています。RECORDも継続します。RECORDは先月調子が良かったのですが、今月はどうなるのかわかりません。調子がどうあれ一所懸命やっていきます。鑑賞の面でも、美術展や映画等の情報を得て、可能な限り足を運びたいと思います。読書は引き続きフロイトの著作を読んでいきます。そろそろ梅雨に入り、湿っぽい季節になりますが、体調に気遣いながら、今月も頑張っていきたいと思います。
2016.05.31 Tuesday
新作「発掘~環景~」が、6月11日の撮影までに間に合うかどうかという綱渡り状態が続いていますが、今月を振り返ってみると、そんな精神状態が緊張を孕み、制作一辺倒の1ヶ月だったように思えます。連休を含む週末は、時間が許す限り工房に籠もって制作をしていました。橫浜市公務員と彫刻家という二足の草鞋生活で、双方とも一日も休んでいない現状があって、倒れそうになる時もありました。頑張った自分を評価したいと自負していますが、今もって余裕のない制作工程であることに変わりはなく、来月も厳しい状況が続きます。凌ぎやすい気候になったおかげで、ウィークディの夜の工房通いも定着しました。焼成中で電気が使えない日以外は、よくぞ工房に通ったなぁと思っています。今月は管理職としての各種総会出席とそれに続く夜の懇親会も数多くありました。歯の夜間診療にも通っていて、昨日治療がやっと終了しました。自家用車の車検もあって、勤務時間終了の夕方になってディーラーに車を持って行ったこともありました。その夜も工房に行っています。鑑賞では横浜美術館の「複製技術と美術家たち」展と国立西洋美術館の「カラヴァッジョ展」に出かけました。映画は「Spotlight 世紀のスクープ」を観ました。RECORDはこの多忙な中で唯一順調にやれていたのが不思議に思いますが、勢いがついて何がなんだかわからなくなっていたのかもしれません。読書ではフロイトの「夢解釈」と「幻想の未来」の読破、それに続く「人間モーセと一神教」を読んでいます。フロイトは面白いとつくづく思います。フロイトは来月も関わっていきます。こうして今月の行動を羅列して書いてきましたが、あれこれやっていたにも関わらず、あっという間に過ぎた感覚が残ります。5月は短かったなぁと思っています。
2016.05.30 Monday
「宗教論ー人間モーセと一神教」(フロイト著 吉田正己訳 日本教文社)を読み始めました。これはフロイトの生涯最期の論文のため、偉大な精神分析学者の遺書とも言えます。それにしてもフロイトは何という論文を書いたものでしょうか。フロイトはユダヤ人です。自ら出生の源泉を辿り、その宗教を問いただすとは自分には考えられない発想です。多神教の日本に育った自分には、日本でも影響を持つキリスト教にさえ馴染めず、20代の頃の滞欧時代は、西欧人の精神的風土についていけないと感じていました。当時、自分の周囲にいた美大生には敬虔な信者が少なかったので、気楽な付き合いが出来ましたが、下宿先の老夫婦の宗教感には辟易していました。西欧人にとって、神は理路整然とした哲学をもっていて、人間本能と対峙するような構図が見られます。しかも自己存在や心の情緒に至るまで神のコトバが浸透している社会において、自分は西欧全体は疎かユダヤ民族に関する知識さえ足りないと感じつつ、本書を読み始めています。これを契機にしてユダヤ民族を筆頭にした異文化理解を深めたいと考えています。かつて読破したシュペングラーの「西欧の没落」やショーペンハウワーの「意思と表象としての世界」、ニーチェの「ツァラトストラかく語りき」、ハイデガーの「存在と時間」等々、西欧文明や文化に関する書籍を思い出すと、自分のイメージとして西欧の精神世界を捉えることが可能です。20代の頃の5年間の滞欧生活も経験値としても何らか役に立ちそうですが、やはりこれは日本人の私にとって難しい問題であることに変わりはありません。今回の通勤の友は、自らの由来を求める旅に出た科学者の、魂の在り処を掘り下げる衝撃を含んだ外来の友と言えそうです。
2016.05.29 Sunday
陶彫部品を組み合わせて作る集合彫刻が、私の長年関わっている表現方法です。一気呵成に作ることができないのがこの表現方法の特徴で、坦々とした労働の蓄積が素晴らしい成果を生むと、私は信じて疑わないのです。一気呵成に作ることが出来ない表現方法を選んだのは、橫浜市公務員との二足の草鞋生活をしている私の制作に対する姿勢によるもので、この計画的に進めていかなければならない制作方法が、ウィークディの仕事と創作活動を両輪で回す私にとって都合が良いのです。ところが、今の気持は複雑です。一気呵成に出来るものであれば6月11日の撮影に間に合わないことはないでしょう。昼夜を問わず制作すれば必ず完成するからです。陶彫には乾燥と焼成という待ち時間があります。制作だけ進めてみたところで自然乾燥と窯変する時間は短縮できるものではありません。そこが歯痒く感じるのです。焦りは常にありますが、今回ばかりは厳しいものがあります。現行の新作を作り始めた昨年の夏頃、自分は定年退職をするはずでした。4月からフリーになって時間が確保できると予想していましたが、まさかの再任用で予定が狂いました。いい訳を言っても始まらないので、完成を目指して制作していくしかありません。今日は2人のスタッフが来ていました。お互い社会的促進を図って頑張りました。ウィークディの夜も工房に通います。
2016.05.28 Saturday
今日の午前中は休日出勤になりました。職場の地域行事に私は関わっているため、数時間制作を休みました。その間、工房には朝早くから大学院生がいて、自らの修了制作に励んでいました。私も午後は制作三昧になりました。「発掘~環景~」の撮影日時が迫る中、焦りがあって胸中穏やかではないのです。そんな中で若いスタッフと昼食をとっていた折、輪状の形態に関する話になりました。彼女の漠然としたイメージに私が思索を加えるカタチになりましたが、偶然にも興味深い話題になったのでした。輪状の形態、つまり「環」はまさに私が今制作中の新作に関係するもので、自分にも関心のあるテーマです。「環」が円と異なるところは中心が見えないところで、外側の輪郭だけが存在する世界と言えます。中心点のある円は収まりのいい落ち着いた形態です。まとまり過ぎて退屈さえ感じられる形態ですが、中心点をなくし、そこにぽっかり穴を空けると、形態は忽ち空虚になります。空虚は見ている者の不安を煽ります。帰結する点がないので、視点が定まらず、「環」をぐるぐる回るように視界が誘導されてしまいます。「環」は出発もなければ終結もない状態です。まとまることのない永遠回帰はニーチェが提唱した哲学にありますが、人間の内面に潜む広漠とした不安に通じます。私たちは終わりのない旅をしていると言えるでしょう。死は肉体的な滅亡であって、終わりを意味するものではないと、誰かが言っていたように記憶しています。「発掘~環景~」にはそんな意味も含まれているのです。制作の合間のちょっとした話題でしたが、単なる作業だけではなく、こんなことを話し合えるのも創作活動の成せる業かもしれません。