Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 2回目の撮影日
    当初の雨天という予報が変わって、今日は太陽が顔を覗かせる好天になりました。「発掘~環景~」は多少陶彫部品が足りないにも関わらず、何とか撮影が可能な状態になり、創作のコンセプトは伝わるのではないかと判断しました。私は撮影が気になって早朝5時に目覚めました。早朝に工房に出かけ、陶彫部品の確認を行ってきました。昨晩は職場にスマートフォンを忘れていたことに気づき、職場に取りに行って、それから今日来てくれる予定のスタッフたちに連絡を取ったのでした。今日来てくれたスタッフは、後輩の彫刻家、普段工房に通ってきている大学院生、同じ職場の女性職員でした。そのメンバーに家内と私を加えた総勢5人で、撮影準備を進めました。今回は工房内外で撮影するため、工房内の作業台の移動や床掃除を行い、2人のカメラマンを待ちました。10時過ぎに懇意にしている2人のカメラマンが到着し、いよいよ撮影に入りました。初めは野外工房での「発掘~環景~」の撮影になりました。太陽の日差しが作品に陰影を齎せ、空気や風を感じさせる画像を提供してくれました。次に室内に作品を移動しての撮影になりました。これは工房の3分の1の面積を使って、「発掘~環景~」と「発掘~表層~」の2点を並列しての撮影になりました。参加してくれたスタッフたちは、全員がてきぱきと動いてくれて感謝に耐えません。これをすることによって個展搬入時は組み立てに迷いがなく、比較的短時間で展示設営が終わるのです。個展も11回目となれば慣れているはずですが、毎年異なった作品の組み立てになるので、不測の事態も生じます。今回は何とか不測の事態は最小に押さえることができて、作品がどのような形態になっていくのか確認することができました。ずっと気がかりだったせいか今日は完成を見れてホッとしたと同時に心底疲れました。明日は補充作品の制作続行です。
    映画「十戒」の思い出
    現在読んでいる「人間モーセと一神教」(フロイト著 吉田正己訳 日本教文社)が契機になって、黄金時代のハリウッドが制作した大作映画を思い出しました。セシル・B・デミル監督の「十戒」は2つあって、古い1923年版の「十戒」を、当時私が在籍していたミッション系高校の講堂で観た記憶があります。その後、友人と映画館に出かけ、同監督の1956年版「十戒」を何度か観ました。これはチャールトン・ヘストン主演の豪華絢爛たるスペクタクル超大作で、紅海が割れるシーンに圧倒されました。映画は旧約聖書の「出エジプト記」を基に作られていて、たまたま学校の教室に聖書があったので何度も読み返しました。モーセはヘブライ人の家庭に生まれ、ファラオの新生児殺害の命を逃れて、ナイル川に流され、エジプトの王族に拾われて育てられた、というのが物語の発端でした。果たしてこの「出エジプト記」の信憑性をどう扱えばいいのか、映画に特撮で描かれたシーンは何かの比喩ではないのか、そもそもモーセは実在した人物か、ユダヤ教の起源とモーセの関係はどうだったのか、エジプトからの脱出劇はあったのか、多神教で偶像を崇拝していたエジプトの宗教から、厳しい戒律のある一神教がどうして生まれたのか、シナイ山はどこにあるのか、ユダヤ民族に関して勉強不足の私にとって素朴な疑問が次々に湧いてきます。これは「人間モーセと一神教」の影響によるもので、著者のフロイトが心理学的視点から真実に迫ろうとする姿勢に触発されて、昔観た映画「十戒」を思い出したのです。映画「十戒」はまるで西洋絵画を見ているような映像が次々に現れて、その美しさに感動しました。コンピューター処理がなかった時代に、よくぞあの映像が撮れたものだと改めて感心します。
    モーセ出生の見解
    現在読んでいる「人間モーセと一神教」(フロイト著 吉田正己訳 日本教文社)では、著者フロイトが起稿した動機が冒頭に語られています。「ある民族が同胞のうちでもっとも偉大な人物として誇っているような人間の存在を否定することは、やってみたくなることでもなければ、軽々とやれることでもあるまい。とくに自分自身がその民族の一員であるばあいはなおさらのことである。とはいうものの、いかに先例があっても、民族的利害と思われることのために、あえて真実を伏せておく気になるものではない。そのうえ、事態を解明しさえすれば、われわれの洞察にとってプラスを期待することもできるのである。」自民族の源泉を辿り、その真実を暴こうとする精神分析学者フロイトは、批判覚悟で自らの論理を展開しようとしたようです。「モーセという名をエジプト語だと認めた多くの学者のうちのだれかが、エジプト語の名前を帯びている人は、それ自身がエジプト人であったとする結論を出すか、ないしは、すくなくともそのような可能性を考えたかもしれないということは、当然期待してよいであろう。」モーセは実のところエジプト人だったのではないかとする出生の見解が名前から導き出されています。その根拠となる論考がさらに肉付けされていますが、そこは省略します。「モーセにまつわる棄児神話を解釈すると、モーセは本来エジプト人であったが、民族の要求によって故意にユダヤ人にされたという結論にならざるをえない、とつけ加えたのであった。また、その論文の末尾のところで、モーセがエジプト人であったという仮定からは、重大かつ広汎な推論がみちびきだされるが、私にはそれを公然と弁護する用意がない。というのは、その推論がただ心理学的確率にもとづいているだけで、客観的論拠を欠いているからだ、と述べておいた。」学者はまず個人的な推論を述べておいて、その後付けとして旧約聖書を初めとする他学者の参考文献を挙げて、推論の根拠を伝える方法を採りますが、あまりにも古い歴史のため調査が行き届かず、定説とされていたことが覆されることに社会的な反発があることは、当時でも現在でも当然と言えます。私も興味関心が湧いているにも関わらず、今ひとつしっくりきていません。モーセは何者だったのか、謎が謎を呼んでしまうことに胸躍る思いがしています。
    信仰とは何かを考える②
    前回のNOTE(ブログ)の続きです。自分は本当の意味で信仰をもっているのか、信仰がどういうものか理解しているのか、という素朴な疑問があります。神に対する従順と信頼は、自分には怪しいもので、そこを問われると答えに窮します。信仰は自分で意図的に身につけるものなのか、意図せずに生まれてくるものなのか、自分にはわかりません。キリスト教は、とりわけカトリックは、荘厳にして華麗な教会装飾により、自分の感覚とは異なる文化に溢れていて、そうした意味で芸術や学問としてこれを学ぶとしたら、大いに興味関心の尽きぬ世界です。でも、これは信仰とは違います。聖書の中にある諭しにも一定の理解と納得はしていますが、これも信仰とは違うと思っています。極論すれば、日本のような秩序が保たれた先進的な社会にあって、宗教の必要性を問いたくなるのは無理のないことかもしれません。社会全般が不安定で生死の境を彷徨っていれば、何かに縋りたくもなるし、超絶的存在に依存したくもなると思います。ただし、この問題は社会全般として片付けられるものではなく、個人の内面に拠があるので、信仰の自由はあって当然です。自分にも何かしら信仰が宿っていると感じることがあるのです。験を担いでみたり、縁起の良いことをしてみるのも信仰の現れと言えます。人間はどこか脆弱なところがあり、社会を形成するために何かしらストレスを抱えています。フロイトの言う超自我は、外に向けて自分を保ち、内向きで弱い自分を見せないような要求をしてきます。信仰とはそんな自分の中でバランスをとるための欲求かもしれません。前述の導入文の答として、人間を超えた存在が希望を叶えてくれるかもしれないという他者依存の現われが信仰だと私は思っています。それがたとえ宗教でなくても、信仰は思考したり感受したりできる人間に本来備わっているものではないかという解釈をしているのです。
    信仰とは何かを考える①
    民族と宗教との関わりを考えはじめた動機は、現在読んでいる「人間モーセと一神教」(フロイト著 吉田正己訳 日本教文社)によるものです。自分にとって宗教は生活全般の中でも大した影響はなく、冠婚葬祭の時に触れる程度のものなのです。祖父母、両親から受け継いだ寺社に対する感覚は、精神性を伴わず、至って形骸化した儀式であると思っています。生きるための心の支柱としては、宗教ではなく家庭教育や学校教育による道徳観や倫理観にあると言っても差し支えありません。日本の一般家庭に生まれて育ったほとんどの人の場合、親が余程宗教に入れ込んでいなければ、自分と変わらない前述の薄っぺらな宗教観をもつ人が多いのではないかと思っているところです。自分にとって宗教は哲学と同じように学ぶもので、与えられるものではありません。まだ宗教学に一歩踏み込んでいませんが、20代の頃に滞欧生活で経験した西欧の街に点在するカトリック教会の果たす役割や、東欧の木造教会で祈りを捧げる村人たちの真摯な姿勢に胸が打たれ、民族と宗教との関わりが頭を過ぎったことがありました。宗教は彼らの生活と密接で、与えられるものという概念がありました。その時は宗教と言うより人間が心の拠としている信仰について考えていました。キリスト教では神に対する従順と信頼があります。神は絶対的で超絶的な存在で全知全能の創造者とされています。神に従う代わりに救済を求めて、善い行為が死後に報われるという図式があります。契約社会が生んだ信仰の在り方で、西洋的とも言うべき弁証法が感じられて、自分が今ひとつそこに踏み出せない要因がこれではないかと思っています。信仰は特定宗教に入れ込んでいない自分にもあります。何をもって信仰しているのかわからないのですが、人間本来の脆弱さを補う何かかなぁと思っている次第です。曖昧模糊とした自分には西洋的な明晰な宗教観と相容れないものがあると感じます。