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  • 7月 個展開催に向けて
    7月になりました。今月の海の日(18日)から11回目の個展を、ギャラリーせいほうで開催させていただきます。そろそろ案内状を送付しなければならず、準備を進めようと思いますが、如何せん今回は作品がまだ完成していないことが胸に引っかかっています。陶彫成形は終わっていますが、陶彫には焼成という最後の工程があって、その窯入れが個展搬入日までかかりそうなのです。これは由々しき事態です。そもそも焼成は人の手が及ぶものではなく、窯内の炎神に任せているので、天命を待つに等しい工程です。そこが陶彫の醍醐味であるわけですが、今はそんな悠長なことを言っている場合ではありません。炎神よ、頼む!とばかりに神仏に縋りたい気分です。何はさておき足元を見据えて2週間後に始まる個展に向けて精一杯力を尽くすのが最善と考えています。追い打ちをかけるように今月は出張や夜の懇親会が多く、昼間の仕事もなかなか思うようになりません。今月は個展が始まる18日になったら一気に疲れが出てくるような気がしてなりません。今月の鑑賞は個展が終わってから考えようと思います。RECORDは当然継続です。気持ちが仕事や個展準備から解放されたいと思っているので、RECORDはそんなテーマになるでしょう。まだ梅雨は明けませんが、夏が到来したら心が弾けたいと願うのは私だけではないでしょう。読書はフロイトの宗教論にまだ関わり続けます。こんなに面白い学識爺さんを知ったことは幸いでした。私もフロイトの如く生涯現役でいたいと思うところです。今月も頑張っていきます。
    6月を振り返って…
    今日で6月が終わります。来月はいよいよ11回目の個展があります。そのため今月の制作工程は厳しさを増しました。ウィークディの夜にも工房に通ったので、工房稼働時間は今までにない最多時間だったのではないかと思います。ウィークディの夜に工房に行って作業するのが習慣化してしまいました。来月も搬入日までは工房に通います。「発掘~環景~」は、制作の仕事量の多さで現在でも大変な思いをしています。今月の11日(土)には、その「発掘~環景~」の図録用の写真撮影もしました。関西出張で3日間工房に行けませんでしたが、それを補うため多少の無理をしました。絵画コンクールの審査員の仕事がイレギュラーで入ってきたこともありました。「発掘~環景~」の綱渡り状態が今も続いていますが、楽天的に考えるようにしています。日々1点ずつ制作しているRECORDは、陶彫制作が苦しい中で、曲がりなりにも何とか追いついてやっていました。ただし、先月のような調子の良さはありませんでした。鑑賞は京都で見た「ポール・スミス展」(京都国立近代美術館)と「杉本博司展」(細見美術館)、地元の橫浜で見た「国吉康雄展」(そごう美術館)がありました。関西での寺院鑑賞を含めると充実していたように思えます。読書は相変わらずフロイトに関わっていますが、宗教論が刺激的で面白くて仕方ありません。知的財産における人類史の中で不動の地位にある精神分析学者フロイト。この巨匠にして真意を問いかけたくなる謎めいた生涯最後の論文。う~ん、世の中は面白いことで溢れているなぁと熟々思います。もうひとつあるとすれば、工房に通ってくる可憐で逞しいスタッフたちに背中を押されて頑張れた1ヶ月だったことを付け加えておきます。
    「今日はマスクをつけよう」
    表題は国吉康雄の絵画につけられた題名です。マスク(仮面)の魅力は、私も昔から憑かれていて、マスクが画題になる画家には一目置いているのです。たとえばベルギーの画家ジェームス・アンソール。アンソールは両親が観光客用土産店を営んでいて、そこで仮面を売っていたため身近にモチーフがあったようです。仮面や骸骨を描いた個性的な絵画は、20世紀当初の表現主義やシュルレアリスムに影響を与えました。国吉康雄も仮面を描いていますが、仮面をつけた人物はサーカスの道化師で、曖昧な表情を醸し出しています。これらを見て私は決して己を晒すことのない心理状態を感じます。仮面そのものも人の表情とは別モノで、何かを語っているように思えます。もともと魂がないところに魂を与える演出が人に摩訶不思議な雰囲気を与えるのかもしれません。橫浜のそごう美術館で開催されている「国吉康雄展」には表題の作品の他に「逆さのテーブルとマスク」「クラウン」「舞踏会へ」「ミスター・エース」(模写)がありました。大きな「クラウン」の修復作業の写真も展示されていましたが、私は小さめの「今日はマスクをつけよう」が気に入りました。「ミスター・エース」は仮面を外しかけた男の肖像ですが、「今日はマスクをつけよう」ではこれから仮面をつけていこうとする肖像です。仮面人生の導入とも言えます。社会的立場があって素顔を出せない自分をそこに投影するのは、些か短絡的かも知れませんが、私にとって妙に印象に残る作品であることに違いありません。
    橫浜の「国吉康雄展」
    橫浜のそごう美術館で「国吉康雄展」を開催しています。国吉康雄は戦中戦後を通してアメリカで活躍した日本人画家で、独特な作風で知られています。私は高校時代に国吉康雄のリトグラフと出会いました。描かれていたのは哀愁を帯びた女性像で、その原因が陰影にあると知って、当初はその陰鬱とも思える暗い画面に反発を覚えました。あまり好きではないと思っていたのが、大学時代に一転し、「クニヨシズム」と言われた作風が好きになっていました。初めはモノクロで接した国吉ワールドでしたが、そのうち油彩やグワッシュの色彩画を見て、独特な色彩の組み合わせが印象に残るようになりました。今回、そごう美術館で開催されている「国吉康雄展」の作風変遷を通した時代背景を探っていくと、アメリカ社会が直面している問題や、日系移民として国吉がアメリカ政府の反発を受け、アジア人種の脅威が席巻する中で、労働移民としてではなく、曲がりなりにも留学生としてアメリカに滞在しようとした意図も見え隠れしています。それでも奮闘の末、国吉はアメリカ美術界で地位を獲得しました。アメリカ人女性と結婚し、同地に骨を埋め、異文化の中で存在を示した画家は、今後日本ではどう扱われていくのか、私には興味の尽きぬところです。国際派の画家と言えば藤田嗣治がいますが、藤田が第二次大戦時に軍部と協力し、戦意高揚を図った戦争画を描いたことは、国吉には否認すべき出来事だったらしく、それを巡って二人が揉めたことがあったようです。「国吉は器が小さい」と藤田が自著に書いたようですが、国吉からすれば妻の国籍剥奪やら自身の個展におけるアメリカ人画商の国籍を超えた援助を考えれば、大きな問題だったと考えざるを得ません。ともあれ時代に翻弄され、異国の軋轢の中で辛酸を嘗めた画家は、今橫浜に舞い降りて、画風を余すところなく披露しています。
    「人間モーセと一神教」終結部Cまとめ
    「人間モーセと一神教」(フロイト著 吉田正己訳 日本教文社)終結部の「C類似」のまとめを行います。ここから宗教におけるフロイトたる独自論法が展開し、私はさらに興味関心を深めていくことになりました。最初の文を引用すると「われわれがユダヤ宗教史のなかに認めた奇妙な出来事に対する、ただ一つの満足すべき類似は、見たところはるか遠くにある領域において見出される。」とあって、具体的には潜伏という現象、説明を要する不可解な徵候の出現、かつての経験の条件、論理的思考を克服して精神にのしかかる強迫の性格が、ユダヤ宗教史に見られると結んでいます。これはまさに精神病理学をもって解明できるのではないかとフロイトは考えたようです。「この類似は、精神病理学において人間の神経症の発生を問題とするときにあてはまるもので、もちろん個人心理学に属する領域においてであるが、一方宗教的現象はいうまでもなく集団心理学に数えられなければならない。」これは宗教学から見れば、はるか遠くにある精神分析学を利用して民族が歩んだ精神史を解き明かそうと試みた論考というわけです。論文後半には追録が2つあって、フロイト特有の心理学説が述べられています。ここでひとつずつ取り上げることは出来ませんが、局所的ではあるけれども説得力のある論考だと感じました。ただ、読み進んでいくうちに発掘や発見が考古学や歴史学を左右するのであれば、フロイトの理論はあくまでも仮説の域を出ないのであって、神経症を民族全体が経験したならば、きっとこんなふうに精神史が築かれたのであろうと推論するものであり、事実とは異なった見解になっているのかもしれません。私たちが面白いと感じるのは、歴史的な実証ではなく、フロイト流の精神分析を歴史にあてはめた発想だろうと思うところです。