2014.11.29 Saturday
表題にしたコトバは今日出かけた3つの展覧会によるものです。鑑賞のために東京に出かけましたが、週末の今日は制作をしないわけにいかず、朝7時から工房で1時間程度の彫り込み加飾をやりました。それから家内と自宅を出て、まず新橋にあるパナソニック汐留ミュージアムで開催している「ジョルジョ・デ・キリコ展」に行きました。形而上絵画の巨匠として知られるデ・キリコですが、まとまった作品を見るのは初めてでした。詳しい感想は機会を改めたいと思います。次に新橋からJR総武線に乗って千葉まで足を伸ばし、千葉市立美術館で開催中の「赤瀬川原平の芸術原論展」に行きました。先日惜しくも他界した前衛芸術家赤瀬川原平氏ですが、展覧会開催中にご本人が亡くなったので、結果的には遺作展になりましたが、元来は回顧展でした。創作活動の幅の大きさ、社会と表現との関わり等を多くの資料や作品を使って見せていただきました。これも詳しい感想は別の機会にします。3つ目の展覧会は相原工房に出入りしている若手画家が原宿のデザインフェスタギャラリーで2人展をやっているので見て来ました。彼女は絵画とイラストを展示していました。遊び心いっぱいの作品でしたが、まだまだ若いので全力をかけた作品が望まれるところです。デ・キリコや赤瀬川原平を見て来たところなので、つい厳しい眼を向けてしまいますが、安易な方向に流れないようにしたいものです。現在はひと昔前と違って発表する施設や機会がたくさんあります。それだけに気に留めておかなければならないこともあります。簡単に出来ることは簡単に止められるということで、そんな中で夢を持った多くの作家が自然淘汰されていくのではないでしょうか。表現の修得や思索には、個人差はあるにしても多くの労力と時間が必要だと思います。自己表現の核が出来なければ発表は控えるべきというのが自論です。3つの展覧会を回っていろいろな考えが頭を過ぎった一日でした。
2014.11.28 Friday
昨日午後に橫浜駅周辺で2つの会議が組まれていました。職場を出て1つめの会議を終えたところで少し時間が出来ました。2つめの会議は管理職組合の集会だったので勤務時間が終わってからの開始時間になっていました。時間的に職場に戻ることは出来ず、どこかで時間を潰そうと橫浜駅を歩いていたら、美術展のポスターが目に留まりました。ムーミンで知られる「トーベ・ヤンソン展」で、ちょっと面白そうな展覧会だったので立ち寄ってみることにしました。これは意外に楽しく有意義な時間を過ごせました。詳しい感想は後日にします。その後、書店に立ち寄り、ムーミンを見て遊び心が擽られたところで、「詩的思考のめざめ」(阿部公彦著 東京大学出版会)を思わず購入してしまいました。同書をパラパラと捲ったら、詩のことがまるで遊びのように楽しく、また分かり易く書かれていて、北欧の寓話をムーミンという楽しいキャラクターに託したヤンソンに似て、難解な詩を気楽に語る著者の現代風な言い回しに思わず引き込まれてしまいました。大哲学書を読破した後なので、楽しい書籍でちょっと一息入れてみようと思います。この書籍は遊べると思っていますが、案外文学の深いところまで連れて行ってくれるのではないかとも思っています。楽しみながら味わっていくつもりです。
2014.11.27 Thursday
「存在と時間 Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ 」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)を読み終えました。夏から読み始めた大作でしたが、読書が通勤時間に限られていたこともあって、読破に数ヶ月もかかってしまいました。おまけに初めの頃は数行読んでまた戻り、また数行読むという繰り返しで、語彙の理解咀嚼に多くの時間を費やしました。読み終わっても簡単にまとめることは到底出来ず、存在と時間に関する哲学的な学術解釈を認識できた程度に留まっています。最終章に触れておくと「これまでの諸考察の課題は、現事実的現存在の根源的全体を本来的に実存すること、および非本来的に実存することの可能性に関して、根源的全体の根拠から、実存論的・存在論的に学的に解釈することであった。こうした根拠として、したがって気遣いの存在意味として、時間性があらわになった。」とあります。ただし、最後の一文は「根源的時間から存在の意味へと一つの方途が通じているであろうか。時間自身が存在の地平としてあらわになるのであろうか。」という次へのステップとも言うべき問いかけで終わっています。「存在と時間」は以前のNOTE(ブログ)で示した通り、未完の大作であって、全三巻で述べられた第一部に続く、次なるステージとして第二部が待たれるところでした。著者ハイデガーは既に他界し、この問いかけは宙に浮いたままの状態になっているのが、大作「存在と時間」の特徴とも言えます。たとえ未完であっても本書は20世紀を代表する哲学書であることに変わりありません。
2014.11.26 Wednesday
現在読んでいる「存在と時間 Ⅲ 」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)に運命を存在論として捉える箇所があって興味を持ちました。2つの箇所を引用いたします。「決意性のうちにひそんでいて、先駆しつつ、瞬視の現へとおのれを伝承することを、われわれは運命と名づける。」「運命的な現存在は、世界内存在として、本質上他者たちと共なる共存在において実存するかぎり、そうした現存在の生起は、共生起であって、全共同運命として規定される。」さらに運命や歴史性を総括する箇所がありましたので、これも引用しておきます。「本質上おのれの存在において到来的であり、したがって、おのれの死に向かって自由でありつつ、死に突きあたって打ち砕けておのれの現事実的な現へと投げ返されうる存在者のみが、言いかえれば、到来的なものとして等根源的に既在しつつ存在している存在者のみが、相続された可能性をおのれ自身に伝承しつつ、おのれの固有な被投性を引き受けて、『おのれの時代』に向かって瞬視的に存在することができる。本来的であって、同時に有限的な時間性のみが、運命といったようなものを、すなわち本来的な歴史性を可能にするのである。」難解と感じた哲学書も終盤に差し掛かり、その難解さにも慣れてきました。時間を論じる上で登場してくる運命や歴史性を考察することの自分なりの意義を感じ取っているところです。
2014.11.25 Tuesday
上野の東京国立博物館で開催中の「日本国宝展」では印象に残った作品が多く、まず何を取上げようか迷いましたが、最後の部屋に展示されていた快慶による仏像を取上げることにしました。善財童子立像と仏陀波利立像の彩色木彫の2点です。そのうち振り向きながら合掌する善財童子立像が、何とも愛らしくて好きになりました。平成25年に国宝に指定されたようで、彫刻分野では最も新しい国宝です。奈良県の安部文殊院が蔵している仏像ですが、特徴的なフォルムであるためポスターに採用されています。快慶と言えば鎌倉時代を代表する彫刻家で、その具象表現は西欧彫刻にも通じ、自分が仏像彫刻理解の第一歩として崇めた一人です。仏像の表情や筋肉のつき方が彫塑を学ぶ学生に分かり易かったし、鎌倉時代の仏像はバロックにも似た要素があって親しみを感じていました。日本人でありながら大学での彫刻実習は西欧の具象表現を学ぶことにあって、仏像は西欧彫刻の後にやってきた自主研究のようなモノなのです。だから善財童子立像や仏陀波利立像の内に西欧を見取って親しみを感じるというわけです。善財童子立像の愛らしさが印象に残ったのも、或いは自分の造形キャリアから由来すると言っても過言ではないと思います。