Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 制作&ボイス鑑賞
    今日は朝のうちに陶彫の成形や彫り込み加飾を行い、午後2時に工房を出て、車で一路横須賀に向かいました。現代美術の巨匠ヨーゼフ・ボイスの展覧会が明日までと知って、急遽カスヤの森現代美術館へと行ったのでした。工房には中国籍のアーティストが来ていたので一緒に行こうと誘って、車の中でヨーゼフ・ボイスに関する簡単な説明をしました。簡単と言っても対象がボイスなので簡単明瞭と言うわけにもいかず、ともかく彼女にボイスの世界を見せることにしました。結果、この世界観に自分は興味があると答えてくれたので、彼女にボイスに関する書籍も貸すことにしました。自分もボイスの世界に浸りつつ、ボイスがかつて行った行為を振り返る機会を持ちました。カスヤの森現代美術館には常設展示として、故宮脇愛子氏の平面作品や保田春彦先生の彫刻の雛型があって、それらも含めてじっくり見ることが出来ました。そのあと横須賀美術館に回り、「おいしいアート」展を見てきました。ボイス展と「おいしいアート」展の詳しい感想は後日改めます。
    「存在と時間 Ⅲ」を読み始める
    「存在と時間 Ⅲ 」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)を読み始めました。「Ⅲ」に収録されている内容を見ると、「時間性と日常性」とか「時間性と歴史性」という章が眼に飛び込んできて、時間を巡る概念が歴史に進展していく状況が見て取れます。時間とは何か、または時間性とは何かという問いに対し、存在論的にどんな分析が待っているのか、とても楽しみにしています。事物が到来する、事物が既在するという時計的で公共的な時間の流れを、存在論の中でどう考えるか、ここにきて漸く自分の興味が現文章の解釈を踏まえつつ、先々の見通しにまで到達していることに嬉しさを感じます。ハイデガーの書いたほんの些細な一文が自分を捉え、その印象が深く刻まれることに我ながら驚いています。とりわけ「死」や「本質」や「良心」といった箇所に自分は関心が強いことに気づき、自己発見にも繋がっています。本書は全編を通して難解な論文であることに変わりなく、読む方もそれなりに覚悟が要りますが、現存在に対する考え方に面白みを感じていることも確かです。また通勤時間帯にじっくり読んでいこうと思っています。
    強大な力に対抗する「よすが」
    「詩を書くということ-日常と宇宙と-」(谷川俊太郎著 PHP研究所)を読み終えました。あっという間に読んでしまいました。文中の印象的な箇所を選んで書き出しました。「詩作品を中心にして考えると、やや衰え気味なんだけど、詩情というふうに考えると、あらゆるところに詩が浸透しつつある時代だと思えるんですね。だから、散文的なきつい現実と、それをどういうふうに対抗させるかみたいなことを、みんな本能的にやっているようなところがあるんです。~略~時代がどんなふうに殺伐としようが、どういう時代になろうが、詩情を求める人間の魂の傾向っていうのは、僕はなくならないと思うんです。~略~非常に過酷な現実に対しての詩情の力ってものが、非常に微少な力だけれども、暴力、財力、権力という強大な力に対抗する、ひとつの『よすが』になると考えているんですけどね。」私が詩に興味を覚えた高校時代は、語彙が組み合わされ、そこに不思議なイメージが表出することに純粋に感動を覚えていました。社会人になって組織に取り込まれて息苦しくなっていた頃は、現実逃避として詩を枕辺に置いていて、週末は夜もすがらイメージと戯れました。現在へ続いている造形のイメージはそんな詩魂が背景にあるのかもしれません。現実に正面から向かい合えるようになった現在でも周囲からの圧迫に対し、心のよりどころを見つけていて、それが週末にやっている彫刻制作なのです。強大な力に対抗する「よすが」は、自分にとって生きる支えになっていると言っても過言ではありません。
    「詩を書くということ」
    「存在と時間 Ⅱ」を読み終えたところで、難解な哲学書から少々離れて休憩を取りたくなりました。サクっと読めて興味関心のある書籍はないものかと書店を探すうちに「詩を書くということ-日常と宇宙と-」(谷川俊太郎著 PHP研究所)を見つけました。これはNHK番組収録によるインタビューをまとめたもので、大変わかりやすいため、これなら哲学書から開放されて、頭をリセットできると思いました。「詩というのは、散文と違って、意味だけを伝えるものではなくて、音の響きとかイメージとか、いろんなもので言葉ってものを伝えていくわけです。だから、無意味であるものを詩に書くことで、逆にその意味以前の世界の触感、手触り…存在そのもののリアリティみたいな、なんか言葉にどうしてもできないものを感じさせる、っていうのが、詩の役目のひとつとしてあるんじゃないかっていうふうに思っています。」というのが詩人谷川俊太郎氏が語るところですが、自分が高校時代から興味を持った詩が、どんなもので、どんな役目があるのかが、この台詞によって確認できました。自分は現代詩が好きで、いろいろ詩集を紐解くうちに自分でも詩作を試みましたが、気に入らないものばかりです。それでも詩のイメージに触発されて、たとえばその世界を造形してみようとか、色彩に置き換えてみようとしたことは今まで結構あります。今はRECORDにして発露し、併せてコトバにしています。そのコトバを詩と称していないところに自分は気恥ずかしさがあって、コトバを介しない造形美術に身を置く所以と思っています。
    「存在と時間 Ⅱ」読後感
    「存在と時間Ⅱ 」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)を読み終えました。第二篇はまだ「Ⅲ」に続きますが、ここでひとまずまとめておきたいと思います。「Ⅱ」の最後は良心に関する存在論としての分析になりました。これは気遣いの呼び声としての良心というもので、呼び声という語彙解釈をまず文中から選び出しました。「呼び声は、じつのところ、われわれ自身によって計画されたり、準備されたり、自発的に遂行されたりするものでは、全然ないのである。『それ』が呼ぶのである、期待に反して、それどころか意志に反してすら呼ぶのである。他方、呼び声は、疑いもなく、私とともに世界の内で存在しているなんらかの他者からやってくるのでもない。呼び声は、私のなかからやってくるのだが、しかもそれでいて私のうえへと襲ってくるのである。」良心はまず呼び声によってもたらされるということです。次に良心に関して気を留めた箇所を3つ選びました。「『公共的良心』これこそは世人の声でなくて何であろうか。『世界良心』という怪しげなものを現存在が捏造しうるにいたるのも、ただ、良心が、その根拠と本質において、そのつど私のものであるがゆえになのである。」「良心は、世界内存在の不気味さのうちから発する気遣いの呼び声であって、この呼び声は、現存在を最も固有な責めあるものでありうることへと呼びさます。呼びかけに応ずる了解として結果したのは、良心をもとうと意志することであった。」「『厳密に事実に依拠する』と自称する分別くさい良心解釈は、良心が沈黙しつつ語るということを利用して、良心は総じて確認できないし事物的に存在してもいないのだと、言いふらす。ひとは、ただ騒々しい空談しか聞かずまた了解しないからこそ、呼び声を『確認する』ことができないのだが、このことが良心のせいにされて、良心は『物言わぬ』から、明らかに事物的に存在してはいないのだという言い抜けがなされるのである。」これをもってまとめとするには余りにも短絡過ぎますが、一応これで「Ⅱ」を閉じたいと思います。