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  • 「存在と時間」第一篇の読後感
    「存在と時間 」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)は、おそらく出版編集上の都合で「Ⅰ」「Ⅱ」「Ⅲ」という3冊になっていると察しますが、内容は序論と全体を通して第1部しかありません。第1部に続く第2部がないので、以前のNOTE(ブログ)に既述した通り、これは未完の大作なのではないかと推察する所以です。第1部は第一篇と第二篇に分かれていて、第一篇は「現存在の予備的な基礎的分析」になっています。今日この第一篇を読み終えました。簡単に言えば「存在と時間」の「存在」にあたる考察が第一篇に書かれていました。第一篇の最後に真理概念の存在論的分析があって、ここまでで漸く現存在に関わるあらゆる分析を一応終えたことになります。一応としたのは今後も既論に対し、さらに深い洞察を伴った肉付けがされる場合があるからです。注目した箇所を引用します。「公共性の居心地のよさのうちへと頽落しつつ逃避することは、居心地のわるさ、言いかえれば、不気味さに直面してそこから逃避すること~以下略~」というのは、私たちは周囲に気遣い、好奇心や噂話に左右されがちで、日常的に自己喪失していると言えます。それは現存在が不安に直面した世界内存在の赤裸々な存在からの逃避だと言うのです。「現存在の存在は、『世界内部的に出会われる存在者』のもとでの存在として、おのれに先んじて『世界』の内ですでに存在している、ということを意味する。」これは存在の了解的企投、被投的現事実性、非本来的頽落からなる現存在の存在は気遣いという構造にあり、現存在は等根源的に真理と非真理との内で存在している、というこんな意味です。この解説に本文中に頻出している語彙を、難解であることは百も承知で使わせていただきました。まとめにはなりませんが、「存在」を多方面から漏れなく論じ上げた粘り強い分析に驚嘆を隠せません。
    彫刻家としての羨望と共感
    「保田龍門・保田春彦 往復書簡1958ー1965」(武蔵野美術大学出版局)を職場の休憩時間に読んでいて、自分の学生時代に教壇に立っていられた保田春彦先生になかなか近づけなかった理由が自分なりに分かってきました。御父上である龍門氏は明治以降の近代彫刻史に荻原守衛や中原悌二郎とともに登場し、当時の東京美校(現東京芸大)で教壇に立っていた石井鶴三氏と知己であり(春彦先生は石井鶴三門下生)、さらにフランスからザッキンが来日した折に、お世話をする立場であったことが本書に描かれています。まさに自分にとっては雲上の人。彫刻家を目指す学生にとって、父が同業者でしかも自分が習った師匠と意見を交わし、また留学先の師匠とも父が交流するとなれば、その環境たるや自分の想像が及びません。春彦先生には父を乗り超えたいという意志もあるのでしょうが、やはり彫刻界とは縁遠い自分が、その端くれで根も葉もない世界に対して意志一つでやっていくには、あまりにも環境が違いすぎることを、当時の自分は感覚として分かっていたのではないかと述懐しています。まさに彫刻界のサラブレッドである保田先生と草競馬にもならない自分。ただ、日本彫刻界を俯瞰できる親子に羨望はありますが、本書を読んでいると共感する部分もあります。海外での慎ましい生活を自分も送っていたこと、また自分には彫刻に無知であってもそれを盲目的に許してくれた親がいたことが、自分に彫刻家としての道を歩かせてくれているのだと改めて思い返しています。自分が本書に惹き付けられる理由は、たとえ生育歴の違いはあっても、彫刻という大きな世界に没頭する姿勢に違いはないこと、保田先生と自分は同じ人間であって意志一つで芸術を極め続けることが出来ること、そこに血縁関係など微塵も存在しないことを自分は認識しつつ、気持ちをしっかり持ちながら本書を読んでいるところです。
    ミニシアターに行く理由
    先月は3本の映画をミニシアターで観てきました。学生時代に幾度か足を運んでいたものの、最近は映画館から遠のいていました。公務員と彫刻家の二足の草鞋生活がずっと続き、美術館へは行っても映画館には行く気が起こらないという多忙感が影響しているものだと思います。劇場や音楽会にも最近は行っていません。叔父のコンサートや従兄弟のライヴには行っているのに、時間のやり繰りが上手くいかなくて、自ら進んでいくということはありませんでした。学生時代はアングラ演劇から商業演劇に至るまで演劇ばかり観ていました。ここにきてミニシアターに多少無理をして出かけましたが、映画を単なる娯楽としてではなく、個々の心理表現やその国その土地における特異性を描くことで、造形美術にない表現があることを改めて認識しました。採算の取れない映画の中には真に優れたものもあって、深く心に刻まれることも例外ではありません。時間が出来れば映画や演劇に出かけられるのでしょうか。その気があれば今だって行けるはずと思って、先日から映画を見始めています。観れば何か得るものがあって満足感を覚えます。今後もいろいろな場面で情報を得て、じっくり味わえる映画を観ていきたいと思っています。
    「存在と時間 Ⅱ」に再び挑む
    「アーレントとハイデガー」(エルジビェータ・エティンガー著 大島かおり訳 みすず書房)を読み終えた翌日から「存在と時間 Ⅱ」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)に再び挑んでいます。「存在と時間 Ⅱ」を読んでいると著者本人の私生活と、思索を深めた学問は別と考えた方がよさそうだという考えが私には浮かびます。原稿下書きやメモに立ち向かう著者の心境は、すっかり形而上的な思索にはまっているのではないかと察するからです。ただ、精神バランスを崩すと、その程度にも拠りますが、常軌を逸した集中力が生まれ、結果として素晴らしい作品が誕生するということもあります。蓮っ葉な考えですが、とくに恋愛に溺れているときは自分の経験で言えば大いにあると思っています。ハイデガーがどうだったのかはよくわかりませんが、「存在と時間 Ⅱ」を再び読みはじめてみて、相変わらず理論の難解さが続き、それを読み解く力が試されているような気がします。何故こんな難しい言い回しをしなければならないのか、ドイツ語の厳密さをそのまま受け取れば納得もいきますが、やはり恋愛で常軌を逸していたのかなぁと思ってしまいます。単なる想像に過ぎませんが…。
    HPのLandscapeに陶紋をアップ
    ホームページのLandscape(風景)に昨年発表した陶紋をアップしました。Landscapeは野外撮影した作品を見せる頁です。アップしてあるのは「球体都市」8点と「陶紋」2点ですが、今回新たに1点を加えました。野外撮影は今後増やしたい意向があります。Landscapeはカメラマンの企画力に任せていて、不思議な空間をいかに創出するかに存在意義があります。それはもはや自分の作品ではなく、カメラマンの作品と呼ぶに相応しい仕上がりになっています。自分はこうした仕事に対して大変嬉しく感じているだけでなく、カメラマンから創造的な刺激をいただいているのです。自分の作品世界を解釈し、その作品が置かれる場所を探し出し、効果を引き出す行為は、それだけでも創作活動と言えます。近い将来自分もギャラリーから飛び出して、野外に設置する作品を作りたいと思っているので、Landscapeはその前提になると考えています。ホームページへは左上にある本サイトをクリックしていただければ入れます。ご高覧いただけたら幸いです。