2014.09.20 Saturday
「発掘~群塔~」は陶彫と木彫を併用するので、陶彫部品を早めに作らなければなりません。展示に壁と床を使うため、その土台となる木彫部分の範囲は大きくなります。時間があれば雛型を作りたいところですが、分かっているのは木彫の手間が相当かかりそうで、そのためにも陶彫部品を急がなければならないことです。今はイメージが茫洋としていて、まだ全体を掴みにくいのですが、陶彫が進めば、全体像ははっきりしてくるだろうと思います。今月に課した陶彫制作ノルマは10個の陶彫部品にあります。それは「発掘~群塔~」の中で最も背の高い10体の塔になるのです。10体の塔は窯入れの関係で上下に分けて制作しています。そのうちの下部に当たる部分の10体を今月中に終わらせようとしています。タタラによる石膏型と紐作りの併用で成形を試みています。今日までに成形が終わっているのが9体、そのうち彫り込み加飾が終わっているのが5体です。今週末と来週末で10体全ての彫り込み加飾を終わらせる予定です。今日は中国籍の若いアーティストが朝から工房に来て、大きな平面作品に取り組んでいました。制作工程をどのように組み立てていくのかを彼女に伝授しながら、自分も制作に没頭していました。お互いが促進しあって制作に励むのがいいと思っています。中国にも日本の音楽シーンは伝わっているようで、時折FMヨコハマから流れてくる最新のJポップに彼女は歓声を上げていました。この人はまだ20代だっけと思いながら、最近の音楽についていけない自分の方が外国籍のような気分にさせられていました。自分の好きな和製フォークソングや演歌は、ほとんどラジオから流れてこないのです。明日も制作続行です。
2014.09.19 Friday
現在読んでいる「存在と時間」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)は途方もない難解さがあって、語彙ひとつひとつに思いを込めるハイデガーにゲルマン民族特有の理路整然とした構築性を見てとれます。そんな哲学者ハイデガーですが、人間臭い一面を垣間見て、何とも妙な気持ちになっています。発端は「存在と時間」に関する平易な解説はないものかとネットを調べた時に、松岡正剛氏による「千夜千冊」を再び紐解きました。以前にもニーチェでお世話になったので、これは2度目になりますが、ハイデガーの頁では導入からして突飛な話題が掲載されていました。大学教授の地位にあったハイデガーは、入学したばかりの女子大生と情熱的な恋に落ちて情愛を深めたというのです。これは不倫です。そんな馬鹿なことがあるか、何しろ「存在と時間」には恋愛沙汰など寄せつけない堅牢な理論体系があって、それを著している人は大哲学者にして聖人に違いないと自分は信じていたからです。でも真相は奇なるかな、師匠と愛弟子の関係が人間臭い関係になるなんて、そんなことは…と思ってはみたものの、それも分からないではないと思い返しました。ハイデガーも人間なんだ、優秀で魅惑的なユダヤ人女性が突如現れてしまったんだ、年齢は関係ないんだ、それは築いてきた自身の家庭とは別の問題なんだ、と自分に言い聞かせながら「存在と時間」をちょっと横に置いて、真相を確かめるべく「アーレントとハイデガー」(エルジビェータ・エティンガー著 大島かおり訳 みすず書房)を読んでみることにしました。亡くなった量義治叔父もカント哲学者で、愛とは何かを説くことがありました。叔母を生涯愛した叔父でしたが、ハイデガーのような本質の分析を試みていたはずで、叔父の中で愛がどんな位置を占めていたのか、叔父は敬虔なキリスト教信者でしたので、あるいはハイデガーのそれとは違い、魂レベルでの愛の存在だったのかもしれません。故人になれば全て謎ですが、ハイデガーくらいの大哲学者になれば、浮き名を流したことで脚光を浴びるのも仕方なしと思ってしまいます。
2014.09.18 Thursday
ドイツ人監督フィリップ・グレーニングがたった一人で挑まざるを得なかった「大いなる沈黙へ」はその独自性、異色性で際立つ映画です。フランスの山奥に今も存在するグランド・シャルトルーズ修道院。まるで中世にタイムスリップしたかのような佇まいで、厳粛で神聖な空間に導かれ、現代社会の過多な情報を全て削ぎ落とし、神のために生涯を捧げた修道士たちの端正な生活を描いています。撮影許可が下りるまで16年待ち、さらに準備に2年かけて、漸く映画を撮る運びになったら、ナレーションなし、照明なし、劇伴音楽なしで、修道院に入れるのは監督一人だけという条件が提示されました。これで映画になるのかと監督は自問自答し、映画を修道院そのものにしてしまう以外にどんな方法があるのだろうと結論を出したようです。監督は修道士と同じ生活をして、スーパー8と35ミリ双方を使って隅々まで丁寧に撮影し、さらに編集に1年をかける入念さで「大いなる沈黙へ」は完成しました。自然光だけの映像、鐘の音、修道士たちの廊下を歩く足音や朗々たる聖歌、畑を耕す音、食器の音、秘めたる祈りの声、鳥のさえずり、日曜日だけ許されたハイキングでの仲間との会話と家族の面会、映画のラストに老修道士による死を迎える喜悦の語り等々が、映画全編に漲り、静かで確かな説得力を持って自分を魅了しました。2時間49分という長い静寂に満ちたこの映画に、自分は創作への思いを重ね合わせ、映画の中で瞑想し、心を研ぎ澄ませることを目的のひとつにしました。監督がインタビューに答えている記事に「こちらの世界でも芸術家が似たような暮らしをしているのを見たし、映画製作者としての私自身の生活もそうだ。私は、人が自分がしたいことのために多くのことを犠牲にし、それをどのようにしてかたくなに遠ざけるのか、ということに興味を持っている。こちらでも修道院でも、人は集中や感じ方や、行動の意味などの概念と向きあっているのだ。」という箇所があります。まさに自分の鑑賞のねらいはそこにありました。
2014.09.17 Wednesday
東京両国にある江戸東京博物館に到着した時は、正午を回っていて、朝早くから展覧会を見て歩いていた私は些か疲れもありましたが、表記の展覧会に何とか辿り着きました。江戸東京博物館は国技館の隣にある敷地面積の広い博物館です。江戸の街が雛型で再現されている楽しい展示で知られていますが、その日の私は他に目もくれず、古代出土品のあれこれを真剣な眼差しで見ていました。東日本大震災の復興事業に伴う発掘調査の成果や、埋蔵文化財の保護を図りながらの調査から見えてきた豊かな歴史に、そこに携わった調査団の努力が窺い知れました。自分が留意するのは深鉢や土偶で、とくに火焔土器の内面に炭化物が付着していたことで鍋として煮炊きに使われていた事実に興味津々でした。焼町土器と称された土器に見られる渦巻き文様は、まさに造形美に溢れた表現で、自分の陶彫制作の参考になっています。これは欧米諸国でもJOMONとして有名になり、世界に類を見ないユニークな文化だったことが分かります。謎の多い縄文土器だからこそ現代人が想像を働かせてみたり、学術的な考察が続いていることも注目に値します。土偶は安産・多産を願う女性の偶像という定説がありますが、土偶によっては着飾った女性を表現したものがあり、これは当時の社会が女性を尊重していた証かもしれません。女性を卑下した封建社会の前に、こんな豊かな社会が存在していたことが、日本人として誇りと思うのは私だけではないでしょう。
2014.09.16 Tuesday
先日、東京の西高島平にある板橋区立美術館に行き、表記の展覧会を見てきました。故人である種村季弘は、私が滞欧中に親しんだウィーン幻想絵画を取り挙げた文学者で、深層心理に働きかけをするドイツ・オーストリアの芸術家を日本に数多く紹介した評論家としても知られています。当時ウィーンの有名画廊のウインドウを飾っていたE・フックスやK・コーラップの版画を見て、その摩訶不思議な世界に惹かれた私は、帰国後に種村の評論に触れて、さらに多くの奇想作品を知りました。今回の展覧会は、種村の鑑識眼による作品の数々が若い頃の自分に取り憑いていたことや、今も脳裏を過ぎる作品世界に再度浸る機会を与えてくれました。図録にあった文章を引用します。「多くの著作が、文学・美術・映画等の批評、伝記文学の体裁をとりながら、その下層に自身の心情、ときには折々の世界の事象と人間の在り方に対しての考えを忍ばせている」(柿沼裕朋著)という種村の著述姿勢が評され、また種村自身による生い立ちが掲載されていました。戦後の焼け跡で口にした食糧で急性盲腸炎を起こして入院した独白の場面で「身動きのできない私はといえば、私は極度の不自由さのなかでかえってある種の透明な漂遊感にひたされていた。部屋全体が水底に沈み、曳光弾が閃めくたびに深海の光景が一瞬明るむ、そんな環境のなかを漂っているという感じである。~略~私はカフカの『変身』を読んで同じようなシテュエーションに遭遇した。『変身』の主人公は甲虫になって鍵のかかった部屋のなかでしだいに衰弱していく。部屋の外には彼が脱けたために混乱してドタバタ喜劇のようにドアにぶつかり怒号を発しながら解体していく外界。そのなかで怖ろしい甲虫に変身してのろのろと這い回るザムザは、あるくつろいだ安らぎにさえ達している。」とあって、その種村流と言うべきユニークな世界観が早くから形成されていたことが分かりました。