2014.08.31 Sunday
ちょうど日曜日が8月の最終日になりました。今月を振り返ると、大きかったのはアンコール遺跡を訪ねてカンボジアに行ったことでした。遺跡を見に外国へ行く楽しさを満喫しました。元気なうちにまたどこかの遺跡を見に行きたいと思いました。新作は今月になって漸くカタチになってきました。新作は5月から準備をしていたのですが、カタチになってやっと具体的な世界が掴めるようになった感じがします。「発掘~層塔~」は陶彫部品が多くて大変でしたが、手間のかかることでは新作の方が大変かなぁと思っています。毎年ハードルを少しずつ上げているので、致し方なしと思っていますが…。今日も制作サイクルに則って陶彫部品の成形や彫り込み加飾をやっていました。今日は7時間の集中で、陶彫部品は4つ目が出来ました。涼しくなったとはいえ、制作は神経を使うため身体の芯から汗が噴出してきます。シャツを何枚も替え、水分補給を欠かせませんでした。今月のRECORDはいつものように順序良くいかず、アンコール遺跡をテーマにしたものは、後日まとめて作りました。RECORD用紙を持参しても、当地で描くことが出来ず、帰国後の制作が大変でした。今月は読書も捗らず、「存在と時間」はまだ一巻も読み終わっていません。職場で仕事の合間に読んでいる保田先生の「往復書簡」もまだまだです。今月はアンコール遺跡鑑賞という楽しみがあっただけで、創作活動は低迷していたように思います。来月から今一歩頑張らなければならないと自分に言い聞かせています。
2014.08.30 Saturday
今夏、個展で発表した「発掘~層塔~」の陶彫部品を作るときに、制作サイクルを考えました。週末ごとに土練り、タタラ、成形、彫り込み加飾、化粧仕上げ、焼成の流れを時間的に上手く組み込んでいくのが制作サイクルです。現段階では化粧仕上げと焼成は後回しにして、タタラから彫り込み加飾までを制作サイクルに組み込んでいこうと思っています。陶彫部品を順序良く作っていく方法としてシステマチックな制作工程は有効です。まだ全体を見る必要はないと考えて、部分に関わって制作サイクルを遂行していきたいと思います。今日は朝から工房にいて、タタラ、成形、彫り込み加飾を順番立ててやっていきました。土練りはまだ小分け保存してある陶土が十分あるので、まずタタラを作るところから入りました。今日は3個目の陶彫部品の成形が出来ました。第1号は彫り込み加飾まで終わらせました。新作は5月頃に石膏型作りから始まりましたが、実際に陶彫部品がカタチになっているのは先週くらいからで、これから制作サイクルに則って、順次作っていきたいと思います。工房内は漸く涼しくなってきました。季節は確実な足取りで移り変わり、凌ぎ易い気温になりました。週末だけではなくウィークディの夜も制作が出来そうです。ただ、夏の疲れが出て身体が動けなくなることも想定しておかなければなりません。心身ともに疲れ果てるのは、制作者がロボットではなく生身の人間である証拠です。無理をしないようにしたいものです。
2014.08.29 Friday
「小さい自己中心的の主観で軽々と批判し去ることは十分謹んで、兎に角すばらしいものがワンサとあるのだから、それにかぶりついて行く事が一番大事だと思ふ。」(保田龍門・保田春彦 往復書簡1958ー1965 武蔵野美術大学出版局)は保田龍門氏からご子息の春彦氏に宛てた手紙の一文です。本書を読んでいて、実父からの助言を羨ましく思いましたが、自分も同じような助言を手紙にしていただいたことがあります。自分の留学の手続きをしていただいた海外駐在員の方からの指摘でした。彼は商社マンでありながら音楽や美術に造詣が深く、私の若く拙い言動を丁寧に正してくれました。私が留学したばかりの頃、南独で見た古城の豪奢過ぎる装飾を批判した手紙を日本に送ったところ、まだ欧州の何たるかが分からないうちに軽々とした意見を言うものではないと諭してくれました。それが有り難かったと気付いたのは何年も経った後で、自分の感覚が徐々にリセットされて、異なる文化を受け入れる態勢が出来た頃でした。「往復書簡」を読んで、そんなことを思い出しました。
2014.08.28 Thursday
「世界内存在の日常性には配慮的な気遣いの諸様態が属しているのであって、それらの諸様態は、世界内部的なものの世界適合性がそのさい現れ出てくるように、配慮的に気遣われた存在者を出会わせるのである。たとえば、まず最も身近に道具的に存在している存在者は、利用不可能なものとして、その特定の利用にはあつらえむきでないものとして、配慮的な気遣いのうちで遭遇されることがある。仕事の道具が損傷していることがわかったり、原料が不適当であったりすることがわかるような場合が、それである。そのさい道具はいずれにしても道具的に存在してはいる。しかし、利用不可能だと暴露されるのは、あれこれの固有性を眺めやりつつ確証するからではなく、使用しつつある交渉の配視によるのである。利用不可能だとそのように暴露されるときに、道具は目立ってくる。道具的に存在している道具が目立つようになるのは、或る種の非道具的存在性においてなのである。~略~この使用不可能なものは道具でありながら事物としておのれを示すのであって…~以下略~」些か長い引用になりましたが、「存在と時間Ⅰ」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)の中にあった文章です。道具が壊れて使い物にならない時にこそ道具の存在が明確に示されることが述べられていますが、自分はこれを読んでいるうちに突飛な発想が頭を過ぎりました。もちろんハイデガーの論考とは異なることは承知の上でシュルレアリスム的発想が芽生えたのです。道具の用途を転換し、道具の存在性だけを示した一連の作品、たとえばM・デュシャンのレディメイドやその他諸々の作品がそれです。存在論から発想するモノとして突飛なことが出てくるのは、それはそれで楽しいのかなぁとも思っています。
2014.08.27 Wednesday
ギャラリーせいほうでの個展が今年で9回目になりました。例年7月の海の日から個展を企画していただいていますが、個展終了とともにその会場の様子をホームページにアップしています。今回は個展初日に懇意にしているカメラマンに撮影していただきました。画像で見るとギャラリーせいほうの白い空間がとても美しいと思います。1階に広い床面積をもち、道路に面した面はガラス張りになっている画廊は、他に類を見ないと言っていいほど素晴らしい環境です。工房で見る自分の作品とはまるで違って見えるほど作品が良く映えます。ホームページのExhibitionのページをクリックすると、第1回目から今回の9回目までの個展が一覧になっています。左にある案内状画像をクリックしていただくと、動画として楽しめるようになっています。ぜひ、ご高覧いただければ幸いです。なお、ホームページにはこのNOTE(ブログ)の左上にある本サイトをクリックすれば入れます。よろしくお願いいたします。