Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 記録の蓄積癖
    自分はこのNOTE(ブログ)の他に、小さな手帳に毎日の記録や予定を書き込んでいます。小さな手帳は公務員としての仕事内容に関するもので、出張や提出書類の期限、職員の動き等々も自分なりに書いています。管理職になる前から記録は続けていて、手帳は既に10冊以上が手元にあります。ある部署の長を仰せつかった時から始めたので、もう10年以上の記録を残しているのです。NOTE(ブログ)も日々綴っていて、これには彫刻の制作状況や美術館での鑑賞、読書の感想等々を書いています。RECORDもそうですが、記録の蓄積は自分にとって大切なもので、定年退職後もNOTE(ブログ)だけではなく、アナログな記録をしていくように思えます。母も日記をつけるのが好きなので、そこが似たのかもしれませんが、母は日記によってボケ防止にも繋がっているように思います。彫刻に関して言えば、自分の彫刻は労働の蓄積で成り立っています。日々蓄積すること、これはもう自分の癖と言うより他ありません。
    ヒトラーの都市
    都市に纏わる論考が続きますが、「視線とテクスト」(多木浩二著 青土社)の中に次々と自分の興味を掻き立てる箇所が出てくるのでご容赦願います。ヒトラーと言えば20世紀の独裁者として最大の禍根を残したことで有名です。そのヒトラーが政権の担い手として登場してくる背景は「言語都市・ベルリン」(和田博文・真銅正宏・西村将洋・宮内淳子・和田佳子共著 藤原書店)に掲載されていて、当時の情景を想像しながら私は興味深く読みました。当時ヒトラーが政治的威力をモニュメンタルな建造物を通じて表示したいと願っても不思議ではありません。「ナチズムは男性原理だけから成っていた。以前に指摘したように『原都市』とはもともと女性的なものを原基に成り立っていたのである。そこにさまざまな時間的、空間的象徴をうみだすことで『都市』は姿を現してきた。この女性的なるものは、大まかに無意識と言い換えてもいい。とすれば『ヒトラーの都市』は、ある瞬間、もっとも『都市』から遠い虚構になるわけである。巨大性症候群とよんだものは、むしろこの無意識から、都市をできるだけ引き離す虚構化の仕掛けであったかもしれない。~略~ニューヨーク・タイムズの記者は『筆舌につくしがたい美しさ』を讃えたが、この恍惚は抑圧された衝動の現われという、ある意味ではグロテスクなものにほかならない。~略~ほんとうにグロテスクなのは、大衆とヒトラーとのあいだに成立する関係であろう。~略~ヒトラーは救世主のように現われ、イエスかノーかという単純な答えでしか応じられないような問いを投げかける。それにイエスかノーで応答するにつれて大衆はひとつになる。~略~ヒトラーが聖書のレトリックを巧みに使ったとしても、救世主というより、むしろ、殺された原父の記憶によびかけているようには見えないだろうか。~略~ヒトラーがいかにおぞましかろうと、それは伝統を一歩も出ていないのであり、その父性原理を内部からもっともグロテスクに戯画化したとは言えないだろうか。ヒトラーの都市はある意味で西洋の都市に潜んでいたものではないか。」
    都市について Ⅱ
    昨日のNOTE(ブログ)の続きです。現在読んでいる「視線とテクスト」(多木浩二著 青土社)に「原・都市」というコトバが出てきます。都市誕生の契機が述べられていて注目しました。「まだ定住地をもたない人間が大地の上にひとつの領域を描きはじめたときにすでにこの原・都市はうまれていたのである。『原・都市』は自然と文化との対立をうみだすというより、自然を経験する人間の生の形式化であったように思われる。移動する生活の中心に神話的なしるしが立って空間をうみだすようになり、またマンフォードが指摘しているように、生きた人間の定住に先立って『死者の都市』(埋葬地)が生じ、墓は移動する人間にとって、時をおいて帰ってくる動かぬ目印になることもありえたかもしれない。自然と死は、いまの都市の観点からみると都市の反対物のように見えるが、その経験によって、はじめて、原・都市の空間はかたちをとりはじめたのである。自然と死、そして性が都市を成り立たせたマトリックスである。女性の性的な力、女性による農業の発明などは、狩猟者のとがった武器に象徴される男性的なものよりも根深いということもできよう。『原・都市』は死や性的欲動の空間を、神話的な知のなかに組みこみ、それを大地に象徴的空間として描きだすエクリチュールから生じていたのである。」
    都市について
    自作が発掘された都市景観をイメージしていることから、とりわけ都市についての論考が気になるところです。私は西欧都市の廃墟を見て、その外観だけではなく人々が住まうコスモロジーとしての原風景にも思いを寄せています。現在読んでいる「視線とテクスト」(多木浩二著 青土社)に興味を持った箇所があったので引用します。「現在のとりとめもなく拡散した都市に比較して、かたちをもち、閉じた空間であった時代の都市を解読する面白さも、たんに廃墟の懐かしい安心感に誘われるからではない。それは都市の記憶を思考によってよびさますことが、比較的容易に行なえるからである。都市の原風景、母型、場所などを回復することである。~略~都市の解読を通じて私たちが理解するのは、それが古代都市であっても19世紀の都市であっても、その空間を構成している道路や建物の配置、祭りの日の出来事、日々の生活の細部ばかりではない。~略~街路が子供たちを追い払うまでは、都市はざわめいた血が循環する生きた宇宙の混沌と別の秩序ではなかった。それをとりこんで形象化していたものである。細部が明らかになればなるほど、脈絡なく渦まくさまざまな事象が、ある象徴的な体系によって全体として調節され、統合されていることが見えてくる。具象のヴェールを透かし、都市というかたちをとってはじめて見えてくる無形の知がある。」
    週末 工房の片付け Ⅱ
    今日も朝から工房に行き、来週に迫った個展搬入のための片付けを行いました。倉庫部分はかなり整理が進みました。工房に時々来ている若いスタッフの絵の具やら薬品が結構大量に見つかって、それもダンボールに入れて整理しておこうと思っています。おそらく若い子たちも自宅の部屋では手狭になるので、制作用具を全て工房に運んできたのでしょう。搬入業者が昼ごろ工房を訪ねてきました。下見をしていきましたが、ガレージの外側にある大きな樹木の枝がトラックの邪魔になると言っていました。午後は梯子と鋸を持って樹木の枝払いを行いました。何とか今回の搬入搬出の準備は整いましたが、倉庫が一杯になるのは時間の問題かなぁと思います。彫刻家は誰でも作品の保管場所に頭を悩ましていると思います。池田宗弘先生は真鍮の作品なので自宅兼工房エルミタの周囲の森の中に置いてあります。自分も陶彫は野外に置けるかなぁと思っていますが、今のところ何とかなっています。野外工房に作品を点在させる日はそう遠くはないように思えます。次の週末は最終確認を行って日曜はいよいよ搬入です。