2014.08.01 Friday
8月になりました。先月の個展も無事に終わって、いよいよ新作に邁進する時がきました。新作の作業は既に始まっていますが、全体イメージの細部は朧気なままです。自分は20代終わりに数ヶ月旅したギリシャやトルコに残るヘレニズム時代の遺跡が、創作イメージの原点になっています。そこから30年以上歳月が流れて、作品は独自な展開をしてきました。廃墟が発想の土台になっている方向は変わらず、昨年も長崎県の軍艦島に行ってイメージ力を高めてきました。今月はカンボジアのアンコール遺跡群を訪ねます。廃墟好きにとっては格好な場所と思っています。直接的な印象はRECORDにして表し、間接的には彫刻に反映されるものと願っています。定年になれば再び世界に繰り出し、イメージ力をつけてこようと考えていますが、現在は夏季休暇を利用するしかありません。陶彫による塔が群になって点在する新作においては、公務員としての勤務時間と彫刻家としての制作時間の鬩ぎ合いで、例年通り厳しい状況になることが予想されます。夏季休暇も制作していたい気分ですが、イメージ力をつけるために外部刺激は有効で、この際思い切って海外の遺跡群を眼に焼きつけてこようと決めました。今月も充実した1ヶ月にしていきたいと思います。
2014.07.31 Thursday
先日、自分の個展開催中に東京六本木まで行って、国立新美術館で開催している「オルセー美術館展」を見てきました。同展は連日賑わっているようで、館内は多くの人たちが名作の前で熱心に鑑賞していました。思えば自分が渡欧した時には、オルセー美術館はまだ出来ていなくて、オルセー駅の解体工事が進められていました。現在来日している作品はほとんどが印象派美術館にあり、マネの「笛を吹く少年」も自分は印象派美術館で見た記憶があります。30年ぶりに対面した絵画群は、思い出に浸ると言うより新しい印象を自分に残してくれました。20代の自分と50代の自分の認識の差異を感じることが出来ました。20代の頃、印象派は自分の中で退屈に感じられて、それでもオリジナルを見て、その筆致の勢いに打たれた記憶が残っています。50代の今は印象派の歴史的役割を理解した上で、リアルな表現追求の格闘を見る思いが頭を過ぎります。当時のサロンに出品されていた多くの絵画が、表面的美しさを技巧的にまとめあげることに終始して、耽美に流れた緩慢な傾向があったことは否めません。そこに現れた印象派の生き生きした表現は、粗雑に見えた故に、または現実性のあるテーマ故に非難され、無視されたであろうことは当時に詳しくなくても容易に理解できます。そんな当時の革新的絵画が今目の前にあります。歴史が価値を認め、印象派絵画としての美しさを堪能する大勢の鑑賞者に恵まれている現状を見るにつけ、現代美術も新しい価値を与え続けているところですが、同展のような賑わいはありません。自分も表現者の端くれとして、そんな思いを抱きました。
2014.07.30 Wednesday
また哲学書読破に臨みます。今までニーチェやショーペンハウワーの代表作を読んできましたが、マルティン・ハイデガー著「存在と時間」を今夏から読み始めます。他界した叔父量義治はカント哲学者でした。自分はそのうちカントに辿り着きたいと思っています。哲学はモノの本質を突き詰めて、そこから世界はどう成り立っているのかを、あれこれ論考する学問です。叔父が生涯付き合ったカントはその最たる哲学者で、自分がカント哲学の扉に立ったとき、その語彙の難解さ、理論体系の膨大さに腰が砕け、数行読んだだけで諦めてしまった経緯があります。哲学書を読むには覚悟が必要と感じた瞬間でした。ハイデガーの「存在と時間」はよく美術評論に引用されていて、自分が彫刻を極めようとするとモノの存在の存在たる所以を突き止めていく必要があり、そこでハイデガーに注目したと言っても過言ではありません。よし、今夏はハイデガーでいこう、ハイデガーの存在論理解とそれから導き出す自己考察に目標を定めました。夏から読み始めてもきっと読み終わるのは秋から冬になると思います。諦めずに齧りついていこうと思います。
2014.07.29 Tuesday
「表象の多面体」(多木浩二著 青土社)の中で取り上げられている4人の芸術家に纏わる印象的な文章を掲載します。「この危うくも建っている七つの塔は、たしかにその危うさのなかに視覚的な秘密の言葉をもっている。廃墟とは、ここに起こったことではない。われわれはかつて起こったことを忘却して、未来をつくることしか考えてこなかったのである。だがそうはいかない。ほとんどナンセンスにしか見えかねない力業を行使して何に到達しようとしているのか。これは芸術にしかありえない表象なのだ。一方には現実の破綻、他方にははじまりとしての神話、この両方のパラドックスとしての歴史の物質的エネルギーを目に見えるものにしようとするとき、未来はこうした廃墟の姿を身に纏うものではなかろうか。」芸術家キーファーの「天の王宮」という作品に関する評論の抜粋です。次に写真家ジャコメッリに関する評論の抜粋を引用します。「若いときに初めて老人ホスピスを撮ったときに感じた『老い』の孤独と、自分自身がそこで眺めた老人たちの齢になったときに感じている『老い』への怖れとは、当然、異なる。『死』はもはや『他人の死』ではなくなりつつある。ジャコメッリの傑出した点は、死すべき人間の生きようとする努力について考えることが生涯の主題だったことである。」続いて写真家アヴェドンに関するものです。「アヴェドンは、人間はどのようにして人間性を保つのかという問いを早くから抱いていたようである。彼の社会性をうんぬんするよりも、彼の肖像写真を成り立たせたのは、こうした人間への関心である。」最後に建築家コールハース自身が語った言葉を引用します。「私にとって興味深いのはモダニズムとモダニゼーションという二つの言葉の違いです。モダニズムは芸術運動で、芸術に教条化しがちです。モダニゼーションは、ある地域が近代の新しい状況に適応する過程です。ニューヨークの近代化は知的な制御なしに生じました。ヨーロッパには理念としてのモダニズムがありました。私がニューヨークで夢中になったのは起こっていることの背後に、本当になにがあるのかを分析することでした。近代主義は近代化を抑圧したといえます。」以上が自分の印象に残った言葉ですが、取り上げられている4人に共通する要素は見つけにくく、多面体という表題が示すとおり表現の拡散を、敢えて著者が選んだといえ、表象の異なる批評の幅広さに驚かされました。
2014.07.28 Monday
家電製品に関しては我が家はかなり遅れています。パソコンもXPをずっと使っていて、数年前に動かなくなり、仕事に差し支えるので新製品に替えました。洗濯機も冷蔵庫も長く使っていて、いつ壊れてもおかしくない代物です。電話も子機が壊れたまま放置している状態です。とくに不便を感じなければ、そのままにしてしまうのです。先日テレビが映らなくなって、大手家電量販店に行って相談したところ、今どきブラウン管テレビを使っている家はないと言われました。家電に関しては流行を追うことはないのですが、テレビは新しい薄型を購入することにしました。今日、その58V型テレビがやってきました。大きな画面に暫し見惚れました。とくに最近はBSでやっている国内外の旅番組を見ることが多いので、これからは結構楽しめると思います。映像技術の進化は凄いなぁと思いつつ、視覚情報の多さに慣れてしまっている自分に気づきました。テレビが壊れている間は、新聞を隅々まで読んだり、家内と会話をしたり、じっくり音楽を聴く時間がありました。RECORDも進みました。パソコンやスマホを含めた情報機器は自分の生活にとって良いのか悪いのか、改めて高画質のテレビを前にして、ちょっと考える場面もありました。