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  • 週末 「発掘~地殻~」全体構成
    昨日、「発掘~地殻~」の陶彫部品が全て完成し、今日はそれを6つのグループに振り分けました。「発掘~地殻~」は三双屏風として発表するので、それぞれ屏風となる畳大のパネルに陶彫部品をボルトナットで接合していくのです。畳大のパネルは、陶彫の他に木彫を配する計画です。6つに振り分けた陶彫部品全部を床において脚立の上から見渡してみると、全体構成はこれでいけそうな気がしました。ひょっとすると追加制作もあるかもしれないと昨日は思っていましたが、現在ある部品で何とかなりそうです。ひとまずホッとしました。今日の午前中は全体を見ながら、あれこれ思案していて作業は出来ませんでしたが、午後から木彫制作に取り組みました。木彫は鋸や鑿の他に電動工具も使用し、その発する音が尋常ではないため夕方までしか作業できません。工房のある場所は植木畑とはいえ、近隣には家が密集しているので、夜になって音を出すわけにはいかないのです。彫刻制作は近所迷惑な工程が多く騒音や悪臭に気を使います。まだ自分は金属や石材を使わないだけマシかもしれません。そういった理由で彫刻界の先輩達は地方の人里離れた工房で制作をやっている人が多いのです。自分の工房は横浜のど真ん中にあって便利とは思いますが、何かと近所付き合いをしておかないと駄目なのです。それは常日頃の家内の役目で、それによって自分は随分助けられています。木彫はまた来週末、日中のみの作業になります。
    週末 「発掘~地殻~」陶彫部分の完成
    「発掘~地殻~」陶彫部分の窯出しが全て終わりました。「発掘~地殻~」は今年の夏に東京銀座のギャラリーせいほうで発表予定の新作です。陶彫部品は昨年と同様に6点の屏風仕立てにして、その1点ずつに接合します。陶彫部品予定数が完成したと言っても、全体構成をしてみないと当初のイメージ通りになっているかどうかわかりません。今日は窯出しをして工房の床に並べただけで、全体構成は明日やってみるつもりです。場合によっては追加制作をしなければならなくなります。今日は陶彫ではなく制作工程に遅れが生じている木彫をやっていました。朝のうちに幅の広い丸鑿を研ぎ、荒彫りを進めました。木彫はなかなか思うように作業が捗ってくれません。時間がある時には、ひたすら彫り続けることに専念したいと思います。明日も彫ります。 
    「マチスの肖像」を読み始める
    「マチスの肖像」(ハイデン・ヘラー著 天野知香訳 青土社)を読み始めました。画家アンリ・マチスはピカソとともに20世紀を代表する巨匠です。先日、鎌倉の美術館でマチス晩年の画集「ジャズ」を見てきたばかりで、光り輝く色彩による世界を堪能しました。マチスは自分の鑑賞遍歴とともに評価が変わっていった画家で、そういう意味では先日のNOTE(ブログ)に書いたエル・グレコと同じです。マチスはその強烈な色彩で野獣派と言われています。色彩が写実から離れ、物質的な色彩に移行していく過程で、カタチも象徴化・抽象化の一途を辿っていくようです。大作「ダンス」は大胆な構図と色彩で印象深く自分の脳裏に焼きついています。晩年の切り絵に至っては抽象そのものになり、単純にして豊かな表現を手に入れています。南仏ヴァンスの礼拝堂はマチス芸術の頂点をなすものと自分は思っているので、いずれ見に行きたいと願っています。マチスが線や面を単純化・本質化していく過程で、どのような思索をもち、深化発展していったのでしょうか。本書が楽しみになっています。
    「一銭五厘の旗」読後感
    暮しの手帖社から出版されている「一銭五厘の旗」は同誌編集長であり、表紙や挿絵も描いた故花森安治の、人柄を偲ばせる文章が満載された書籍でした。歯に衣着せぬとはこのことを言うのでしょう。滑舌のいい喋り口調で、当時の社会問題をバッサリやっていく独自のスタイルは、今読んでいても古さを感じさせないばかりか、現在でも通用する箇所がいたるところに見られます。身近な問題で言えば「8分間の空白」にあった消防車が到着するまでの時間が8分から10分、その間に発見者が初期消火をしなければならない、街が複雑さを呈している今は消防車の到着を待っていられない、という趣旨の文章でしたが、現在でもこれはそのまま通用する重大な危機管理だと思いました。その他にも数え上げればキリがないくらいの問題提起がされていました。大衆雑誌であるには違いない「暮しの手帖」ですが、人々に豊かな暮らしを提供するために商品テストや優れた論評を掲載した類稀なる雑誌であったことが窺える一面がありました。編集部の努力も垣間見える「一銭五厘の旗」でした。
    ヨーロッパの記憶は遠くなり…
    今年初めのNOTE(ブログ)に書いたことですが、ヨーロッパに昔住んだ記憶をもとに今日は書いてみます。1980年から85年までの5年間、自分はオーストリアの首都ウィーンにいました。1980年の夏、初めてヨーロッパに一人で降りたったのが旧西ドイツのミュンヘンでした。最初に訪れた美術館がアルテ・ピナコテーク。1週間後には南独の小さな町ムルナウで2ヶ月の語学研修を行い、オーストリアのウィーンに移りました。そこからの5年間はずっとウィーンにいました。一度フランスやスペイン、ポルトガル、イタリア等の南西欧に出かけ、ルーマニア、ハンガリー、旧チェコスロバキア、旧ユーゴスラビア等の東欧は幾度か足を運びました。引き上げる時に旅したギリシャとトルコ。ウィーンの旧市街とエーゲ海沿岸の遺跡が、自分の造形における発想の原点になりました。あれから30年が経とうとしています。ヨーロッパの記憶は次第に遠くなってきました。ただ、自分が5年間暮らしていたおかげで、その空気感だけはしっかり覚えているのです。観光した名所旧跡はあまり胸に刻まれていませんが、自分が仮住まいをしていた周辺の市場や銀行が時折夢に出てきます。もう一度ヨーロッパに行ける機会が訪れたなら、5年間とは言わないまでも暫らく彼の地に留まり、自分の原点とした風景を再度探りたいと思います。帰国前に見たウィーン美術史美術館。アルテ・ピナコテークのデューラーに始まり、ウィーン美術史美術館のブリューゲルで幕を閉じた5年間は不安と期待の入り混じった滞在期間だったと述懐しています。