2012.10.14 Sunday
新作のイメージは制作の途中で突如湧くことが多く、今回は何かが天上から降りてくるような錯覚を持ちました。「発掘~地殻~」は既に2012年5月から制作が始まっていますが、題名は先日思いついたばかりです。当初のイメージとしては、大地に張った樹木の根が表面に現れ、奔放にうねって増殖を繰り返す世界がありました。その内部に佇む生命体のような構築物。甲冑に覆われた都市。都市は大地に抱かれつつ幾星霜に亘って繁栄を極め、やがて没落していく運命を生きているように思えます。そこに萌芽する文化や宗教等の魂の目指す方向が民族によって示され、あたかも都市に命が宿るが如く興亡を繰り返してきた歴史を鑑みて造形イメージをまとめました。それは20代の頃に旅したエーゲ海沿岸の遺跡から得た造形イメージを発展させて、都市そのもののこれからの運命を推察しながら制作していく方向に他なりません。「発掘~地殻~」は従来の陶彫に加えて木彫による表現を併せます。樹木の根は木彫で表し、内在する陶彫の都市を覆います。展示方法として屏風に仕立てます。今回の彫刻制作にあたって、O.シュペングラー著「西洋の没落」から多くの示唆を受けていることをつけ加えておきます。
2012.10.13 Saturday
明日が休日出勤のために今日は貴重な制作日になりました。今日は朝9時から夜10時まで工房にいました。制作続行13時間です。その間、工房スタッフを駅まで送り迎えしたり、近隣のスポーツ施設に1時間水泳に行ったりしましたが、工房の窓から朝日が差し込んでいる時間帯から昼間の日光が降り注ぐ時間帯があり、そして気づけば窓の外は真っ暗になっていました。ずっと手元を見続けて陶彫の成形をやったり、彫り込み加飾をやって過ごしました。気候が涼しくなったおかげです。それでも若干汗をかいてシャツを3枚替えました。覚醒気分が身体に勝っていて、不思議と疲れを感じませんでした。さすがに夜10時には陶土のせいで手のひらがガサガサになってきたので、今日はここまでで終わりにしました。工房から懐中電灯で足元を照らしながら帰宅しました。このくらいの制作が日々出来るといいのですが、なかなかそうはいきません。自宅に帰って暫し佇んでいると、だんだん疲れが出てきて動けなくなりました。このNOTE(ブログ)を書くのもつらくなってきました。今日はこれで終了です。
2012.10.12 Friday
ベルギーの画家と言えば自分はルネ・マグリットを思い浮かべます。中世で言えばフランドル地方の画家ペーター・ブリューゲルが有名です。20代の頃、自分はウィーンに住んでいてベルギーを訪れたことがあります。行った先は首都ブリュッセルと古都ブリュージュで、とくに当地の美術館を見ることはなく通り過ぎてしまったのが残念でなりません。ベルギーは幻想傾向にある芸術家が有名で、東京新宿にある損保ジャパン東郷青児美術館で開催している「ジェームス・アンソール展」も仮面や骸骨が登場する幻想絵画です。先日同展を見に行って、その独特な世界に魅了されました。アンソールは美術史に残る名作の模写をたくさんやっていて、古典絵画の手法を身につけたようです。習作時期のデッサンも展示されていました。当時の風潮もあろうかと思いますが、骸骨が人に成り代わって何かを演じている場面は、社会風刺ともとれる表現です。アンソールが揶揄したかった社会はどんなものだったのか、仮面は相貌を隠し、人格を変え、他者になりきる愉快犯的要素があります。現代も本音だけではやっていけない体裁社会であることを考えると、アンソールが表現したかった何かが伝わってくるようです。同展を見て、当時の世相と現代が大きく変わっていないことを感じました。
2012.10.11 Thursday
現在読んでいる「西洋の没落」(O.シュペングラー著 村松正俊訳 五月書房)は20歳の頃に購入した書籍です。どこか大きな書店の専門書棚で見つけ、タイトルに刺激されて買ったように記憶しています。当時、自分は難解な書籍ばかり集めていて、本書も読み始めてすぐ挫折してしまい、実家の押入れに仕舞い込むのが習慣になっていました。20歳の若者が親に内緒で持っていた定番なる風俗本と一緒に、第一級の専門書が押入れに入っているのは、今になって思えば何だか愉快です。卑猥な雑誌と本書のような専門書がごちゃまぜになっている空間は、まさに自分そのもので、心と身体のアンバランスが、綺麗事を言えば自分の青春だったわけです。「西洋の没落」はそのタイトルにどんな意味があるのか、真意を紐解いてみたいと思っていました。加えて大学で西洋彫刻を作っていた自分は、いずれ彼の地に行ってみたいと考えていて、没落していく西洋がどんなものか知りたいと思っていたのでした。ところが読み始めたら一筋縄ではいかない論理、圧倒的な語彙の洪水、目で追うだけでは意味が伝わらない展開に辟易して、あっという間に扉を閉じてしまいました。あれから30数年を経て、やっと最後まで辿りつけそうな按配です。まだ読み終えていないくせに感慨一入です。シュペングラー独特の形態比較に慣れてきて、自分が書く文章に影響が出ています。この分厚い書籍にどっぷり浸かっていれば仕方ないかなぁと思いつつ今日も少しずつ読んでいます。
2012.10.10 Wednesday
「殉教者・聖ドミンゴ・エルキシア像」は自分の師匠である彫刻家池田宗弘先生の作品です。先日、東京六本木にある国立新美術館で開催されている「自由美術展」に行って野外展示されている同作品を見てきました。長崎県のキリスト教団体から依頼されて制作している聖人群像の一体だそうで、粘土でしっかり作りこまれた聖人像が鋳造されていました。依頼された仕事のせいか池田先生の特徴である真鍮直付けの軽妙洒脱な空間はなく、逆に重厚で記念碑的な具象作品に仕上がっていました。差し出された両手の力強い表現に聖人が伝えたかった何かがあるような気がしました。それは決して強く言い放つのではなく、確固たる信念のもとで静かに主張する意志を、聖人の差し出した両手に感じました。池田先生の初期の作品は、サーカスや労働する者の憩う姿をテーマに、出来うる限り量感を排除したものでした。ジャコメッティの針金のように細くなった人物像を彷彿とさせるものがありましたが、真鍮直付けという技法が成せる業が飄々とした雰囲気を出し、それがジャコメッティとは一味違ったものになっていました。自分はこの頃の池田先生の作品が好きで、とりわけ猫が皿にある魚の骨をねらって四方八方から集まってくる作品が、自分に強い印象を与えました。あれから池田先生はスペインに旅立ち、キリスト教美術を自己の中に取り入れて現在の聖人像に繋がったと考えます。一人の芸術家が表現を深化拡充していく過程で、何に出会うかは大変重要な意味を持つと考えます。そんなことを思いながら「殉教者・聖ドミンゴ・エルキシア像」を見ていました。