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  • 西洋の没落「経済生活の形式界」そのⅡ
    「西洋の没落」(O.シュペングラー著 村松正俊訳 五月書房)の第二巻を読んでいます。第5章「経済生活の形式界」に入り、そのⅡとした副題は「機械」です。ついに最終章を迎えました。5月11日から読み始め、今日10月24日で「西洋の没落」第一巻と第二巻を終えることができました。何度か難解な箇所で立ち往生する場面がありましたが、とつおいつ読み続け、時に別の資料を参照することもありました。最終章「機械」では全体を総括する部分もありますが、機械の発達におけるシュペングラー独特な論調が気に入って次の文章を選びました。「蒸気機関の幼年時代にゲーテのファウストの独白によって表現されたように生命感情であって、その生命感情は押し出し、押し上げ、そのためにゴシックにふかく近親関係のあるものである。陶酔した魂は空間と時間とを飛び越えようと意欲する。名づけようもないあこがれは限界のない遠さに招きよせる。地球から離れたければ離れてもいい。無限のなかに上りたければ、あがってもいい。体躯の一団を見棄てたければ、見棄てればいい。そうして星のなかの宇宙で回転したければ、すればいい。最初に聖ベルナールの燃え盛るような、天上に浮動する熱情の求めたもの、グリュネヴァルトとレンブラントとがその背景のうちに、そうしてベートーヴェンがその晩年の四重奏のこの世ならぬ響きのうちに創作したもの、このことはこの密集した発明の連続の精神の籠った無我夢中のなかにまたもや戻ってくるのである。それ故に次のような幻想的な交通が生ずる。それは諸大陸を数日で渡り、浮かんでいる諸都市で大洋を渡り、山々を貫通し、地下の迷宮のなかで怒号し、すでに可能性を使い果たした古い蒸気機関からガス機関に移って行き、そうして街路と軌道とから空中飛行に高まっていく。」2012年の現代を見ると、その幻想されたものがある程度具現化されている現状があり、「没落その後」があれば、シュペングラーはどんな発想で次なる理論を展開したのでしょうか。自分の読後感の総括は機会を改めます。
    西洋の没落「経済生活の形式界」そのⅠ
    「西洋の没落」(O.シュペングラー著 村松正俊訳 五月書房)の第二巻を読んでいます。第5章「経済生活の形式界」に入り、そのⅠとした副題は「貨幣」です。いよいよ大作「西洋の没落」の最終章になりました。「経済的にいえば、第一の、そうして本源的にほとんど唯一の生活は農民態、すなわちすべて他の生活方法を初めて可能にさせる単なる生産的生活方法である。原始階級もまた初期の時代にはその生活基準を全然、狩猟、牧畜、田畑所有においていた。そうして後期時代の貴族階級においてさえも『不動産がある』ということは、唯一の上流である可能性である。これと対立するものは商業という仲介的な、獲得的な生活方法であって、これはその数の少ないのに比して強大な力があり、そうして早くからでさえ欠くべからざるものである。それは洗練された寄生生活で、完全に非生産的で、したがって土地から離れ、流浪し、『自由』で、精神的にも土地の道義と慣例とに煩わされないものである。他の生活に養われる生活である。」「初期の人間が財を比較し、そうして理性だけで比較するのではないのに反し、後期の人間は商品の価値を計算し、しかも固定した質のない尺度で計算する。今や貨幣は牛で評価されないで、牛が貨幣で評価される。そうしてその結果は抽象的な数、すなわち価格で表される。書かれ、口で述べられ、表象された数記号が数の種の表号であるように、この価値基準が価値記号が表されるかどうか、どうして表されるか、これはそれぞれ異なった種の貨幣を生み出す個々の文化の経済様式に依拠する。」複式簿記が1494年に発明され、手形、小切手、紙幣、さらに証券の発明とともに経済または資本は大きく世界を包括していくようになるようです。
    西洋の没落「国家」そのⅢ
    「西洋の没落」(O.シュペングラー著 村松正俊訳 五月書房)の第二巻を読んでいます。第4章「国家」そのⅢとした副題は「政治の哲学」です。「政治とは何であるか。-可能なことの技術である。これは古い言葉である。そうしてそれでほとんどすべてをいいつくしている。植木屋は植物を種子から育てあげることもできれば、その茎を接木することもできる。植物中に隠れている胚を、その成長と姿とを、その花と果実とを発展させることもできれば、萎縮させることもできる。植物の完成、その力、その全運命は可能なこと、したがって必然的なことに対するかれの眼識に依存している。しかしその現存在の根本的形態と方向、その段階と速度と寿命、これを動かす法則はかれの力のおよばないところである。それらは実現されなければならない。そうでなければそれらは滅亡する。そのことは『文化』と称する巨大な植物についてもその政治的形式具のなかに封じこまれた人間種族の現存在の流れについても同様である。大政治家は民族の植木屋である。」「大都市とともに非階級、すなわち市民階級が指導権をにぎるや否や、転換が生じた。今やこれと反対に政治的形式が戦いの対象に、問題にまで高められる。そのときまでは政治的形式は成熟したが、今は創造されなければならない。政治は覚醒存在し、理解されるばかりではなく、概念化される。血と伝統に逆って知性と貨幣との力がたちあがる。有機的なものにかわって組織されたものが登場し、身分にかわって政党が登場する。政党とは人種の産物ではなく、頭脳の集積であり、したがって知性において古い階級にまさっているとともに、本能においてそれよりも貧弱である。」「新聞は今日では、注意深く組織された兵種を有し、記者を士官とし、読者を兵とする軍隊である。しかしこの軍隊においても、他のすべての軍隊と同じように兵は盲目的に服するものである。そうしてその知らない間に戦争目的と作戦計画とが変わっている。読者は自分がどうされるかについて何も知らない。また知ってはならない。そうしてまたどんな役割を演ずるかさえも知ってはならないのである。思想の自由に対して、これより恐ろしい風刺はない。かつて人は自由に考えることをあえてする必要がなかった。今やそうすべきである。しかももはやそうできない。人は欲すべしとされたことを考えようと思うだけである。そうしてそれこそ自由と感ぜられるものである。」選抜した文章引用が長くなりました。
    週末 工房という環境の中で…
    今日は日曜日ですが休日出勤がありました。出勤は午後の数時間でしたが、陶彫制作で昨日から始まった大きな部品の再制作を止めるわけにもいかず、午前中の時間と職場から帰った夕方の時間を充てて制作をしました。その後夕飯をしてテレビを見ていると、身体は休息モードになり、普段ならこれでRECORDを描き、NOTE(ブログ)を書いて終了となります。ソファでくつろいでいた自分は夜の工房に行くかどうするかボンヤリ考えていました。よし、もう一度気力を振り絞って夜の工房に行こうと決め、懐中電灯で足元を照らして夜道を歩きました。工房に着くと不思議なことに制作モードに心が変わりました。そこで密度の濃い時間を過ごし、大きな再制作の陶彫部品は大まかな加飾彫り込みを終えることができました。時計を見ると既に午後10時をまわっていました。明日の出勤のことを考え、制作はここまでにしました。工房という環境は、自分に気分の高揚と集中力を与えてくれます。工房の扉を開けた途端に、陶土や絵の具の匂いがして、その空間には作りかけの作品がいくつも置いてあります。それは生々しい自分自身でもあるのです。思わず作品に近づいて無意識にうちに道具を手にとっています。そこに迷いはありません。こうしたことが出来るのも工房のおかげです。工房で過ごす時間で憩うことができません。休むことも許されません。敢えてリラックスできないような空間を作っているので、そこではひたすら制作あるのみです。でも、その空間が自分には必要です。工房という環境は、自分が自分のために演出した創造をする場で、また自分自身と闘う場なのだと思っています。
    週末 再制作を始める
    先日、大きな陶彫部品をひとつ潰しました。今日からその陶彫部品の再制作に入ります。陶土を土練機にかけ、その後で菊練りを充分に行いました。失敗から学ぶと言っても、陶の場合は今回が上手くいくとは限らない不安定な要素を含みます。ともかくもう一度作ってみないとわからないのです。サイズは制作メモによってわかりますが、加飾彫り込みに関しては、新しい作品を作るつもりでやっていきます。同じものを作ることはしません。大きな成形に取り組む時は一日では終わらないので、どこまで今日のうちにやっておくか考えなければなりません。タタラは用意しました。紐作りによる補強も必要になるので、その分の陶土は残しておきます。明日成形に取り組みます。ただし、明日の午後は休日出勤があって、職場に顔を出さなければなりません。週末2日間のうち休日出勤が一日あったりして、なかなか思うように時間が取れない現状がありますが、時間を有効に使っていきたいと思います。今日は貴重な時間をフルに活用して朝から夕方まで工房にいました。新作屏風「発掘~地殻~」の一枚目の陶彫部品の焼成が終わって厚板の上に並べてみました。それが今日の進展です。明日も頑張ります。