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  • 写真集「芸術家たちの肖像」
    表題はロベール・ドアノー写真集「芸術家たちの肖像」(岩波書店)です。自宅の書棚には田沼武能写真集「アトリエの101人」(新潮社)、南川三治郎写真集「アトリエの巨匠・100人」(新潮社)があって、時折頁を捲っています。芸術家の制作現場を撮影した写真集は全部で3冊持っていることになります。同じ創作をやっている者として、他人のアトリエや工房を覗くことは俗っぽいと言われても興味津々です。巨匠と言われる人々はなおさらで、写真に写し出された風貌がその人の作品とよく似ていたり、また裏切られたりして、何とも楽しい限りです。なるほど、この人はこんな場所で制作しているのかと思うことがいいのです。「芸術家たちの肖像」を眺めていると、この普段着の人が、実は○○という芸術家だったのかと改めて思い知り、その人物の様子や周囲の環境から様々なことが想像できます。「芸術家たちの肖像」で、気になった芸術家は何人かいましたが、それはおいおいブログに書かせて頂くとして、ともあれこのモノクロの写真集には、創造する現場がリアルに現れていて、自分は大変な刺激を受けました。
    目黒の「ベルナール・ビュフェ展」
    昨日、目黒区美術館で開催中の「ベルナール・ビュフェ展」に行ってきました。昨日のブログに書いた通り、昨日は親戚の招待を受けたり、池袋に沖縄民謡を聴きに行ったりした一日でしたが、昼の僅かな時間を使って、目黒にも足を運んだのでした。ビュフェは自分にとって御馴染みの画家です。御殿場にあるビュフェ美術館には数回行ってるし、それ以外にもギャラリーで絵画や版画を観ているのです。それほど日本人にとってビュフェは身近な画家なのかもしれません。抑えたグレートーンの画面の中に、ささくれ立った黒い線で細い人物群像を描いた作品が、ビュフェ絵画の定番と言えるほど自分の印象に残っていて、そんな作品にまた出会えると思うとワクワクしてくるのです。果たしてビュフェ絵画の定番はやはり目黒にも来ていました。人物はそれぞれ孤独感を抱え、意思の疎通が無いような雰囲気が漂います。虚無感や不安感が画面を支配しているのです。今回の目玉は「木を植えた男」の著者として知られるジャン・ジオノとビュフェの交流を取り上げていることです。ジャン・ジオノの著書「純粋の探求」にビュフェが挿画を制作していて、2人のコラボレーションがそれぞれの主張するものに説得力を与えているように思えます。文学と美術がお互いを生かしている例は他にもありますが、今回は上質できらりとした光る世界を見せているような感想を持ちました。
    沖縄民謡の夕べ
    週末の制作ノルマを早朝5時半から工房で行い、午後時間を空けました。家内の従兄弟たちが集まるというので、自分も招待を受けたのです。手料理を振舞われて、いい気分になっていたところに、従兄弟の一人が沖縄民謡を聴きに行こうと言うので皆で夕方出かけることになりました。家内も含めて集まった従兄弟たちは奄美大島の血を引く人たちです。沖縄とはあまり関係ないのに、と考えていたら大学の同期に沖縄の伝統音楽を研究している人がいるとか…。それならばサンシンや太鼓の響きをぜひ聴きたいと、池袋の居酒屋「塁」に席を移しました。従兄弟の同期の大城さんは太鼓、島唄はプロのミュージシャンである八重山民謡師範の吉川忠尋さん。今日は沖縄の旧正月にあたるそうで、まず祝い歌から始まり、ノリのいいビギンの歌まで沖縄一色の演奏に、思わず踊りだしてしまいました。自分は踊りながら、じっとサンシンを演奏する吉川さんの手を見つめていました。サンシンがやってみたいと思い始めています。自宅には奄美大島から送ってもらった立派なサンシンがあるのです。もう少し暇ができれば、サンシンの弾き歌いをやってみたいのです。それはいつになることやらわかりませんが…。仕事以外に夢は広がるばかりです。
    「川喜田半泥子のすべて」展
    銀行取締役、そして頭取、財界人として活躍した川喜田半泥子。自分は陶芸家として知っていましたが、実は趣味が高じて、その域を抜き出ていたことを、この展覧会を通じて知りました。本格的な二束の草鞋。自分にとっては先達にあたる人だったわけです。自邸に窯場を設けて、日本各地の陶芸要素を取り入れた自由闊達な作陶ぶりが伺えて、実に楽しい展覧会でした。知人にチケットを頂いた上、会場が地元横浜のデパートとあれば、冬の寒いひと時を過ごすのにこれは絶好の場所と言わざるを得ません。その知人が知ってか知らずか、川喜田半泥子はスケールに違いはあっても自分と同じ境遇で、さぞや多忙だったのかもしれないと思いつつ、その一方で恵まれた環境があったと思っています。食うや食わずの生活をしながら芸術を貫くことが、川喜田半泥子にも自分の人生にも無いと思うからです。だからといって芸術を飾りくらいにしか考えていないわけではなく、趣味と言ってはあまりにも理不尽なくらい精魂傾けていて、ヘタをすれば管理職を擲っても、これをやってしまいたくなる勢いがあるのです。これは霊に憑かれたようなもので、なんでこんなものがいいのか自分にはわからなくなる時があります。「川喜田半泥子のすべて」展を見て回ると、その軽妙洒脱さと好き勝手にやっていく自由さが、自分の心にすっと入ってきて、自分もこんな境地でやればいいのかと、創作にかける思いを新たにした次第です。
    カタチの崩しを考える
    陶芸でも彫刻でも長年やっていると、技巧に走ってしまい、「手なり」でモノを作っていると感じることがあります。陶彫に関しては、自分ではどうなのかわかりませんが、焼成の成功率の高いカタチを選ぶと、あるいはそうなることがあると思います。制作への集中力や緊張感が薄れてくることが原因だと考えます。失敗に悩んでいるうちは、まだそんな心配はいらないのかもしれませんが、慣れは気づかぬうちにあって、自作がつまらないと感じることもあります。意図的にカタチを崩すのは、退屈を打開する方法の一つではありますが、かえって意図が見えて嫌らしさが出てしまうことがあります。作為なき作為、意図するものはあっても自然にカタチが変容するくらいに精魂傾ければ、そこに創作の面白さを感じられるはずですが…。ピカソのように破壊と創造を繰り返していける才能とパワーが欲しいところです。一度スタイルを作り上げてしまうと、その亜流を繰り返すばかりでは進歩が望めません。カタチの崩しは手業ではなく、心の在り様で成せるものと感じています。