Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

  • Tag cloud

  • Archives

  • 「ドイツ表現主義の誕生」から
    20数年前にドイツやオーストリアで生活し、表現主義の枠に括られる多くの画家や音楽家の遺産をこの目で見ておきながら、表現主義の何たるかを知らず、キルヒナーやノルデの絵画世界がもつ漠然としたイメージだけで表現主義が解っている気がしていました。実際はダダやシュールリアリズムのような「宣言」があったわけではないので、表現主義を限定するのは難しく、後期印象派のあたりから表現主義と呼ばれるようになったと思っています。早崎守俊著「ドイツ表現主義の誕生」を読んで、あらためて表現主義の初期の動きがわかりました。ヴォリンガー著「抽象と感情移入」を引用し、このゴシック芸術解明を書いたものが、表現主義というコトバのさきがけをなったと「ドイツ表現主義の誕生」では述べられています。さらにヴォリンガーが原始的な美に遡って論じていることも表現主義に通じることを示しています。恥ずかしいことに自分は20代で中途半端な知識しか持たずに渡欧し、実際の作品に接し、帰国してから文献を漁って、ようやく表現主義の何たるかに辿りついたようです。
    ドイツ表現主義への第一歩
    20数年前に初めてヨーロッパに渡り、最初に降り立った都市が旧西ドイツのミュンヘンでした。東京〜パリ間をフライトし、パリを見ずにそこからすぐミュンヘンまで飛んでしまいました。日本の大学に通っていた当時からドイツ表現派に思いを寄せていたので、パリのルーブル美術館より先にミュンヘンのレンバッハギャラリーやハウス デア クンストに行ってみたかったのです。ドイツ表現派に関わる情報は、日本で得られるものが大変少なく、それでも芸術集団「デア ブリュッケ(橋)」や「デア ブラウエ ライター(青騎士)」を調べて、ミュンヘンの美術館で実際の絵画を見たのでした。僅かの知識で見た作品の数々はプリミテイブな力を感じたものの、それ以上に心を揺さぶられることはありませんでした。その後ヨーロッパ滞在中にゴシックやバロック等の古典から印象派に至る全ての作品をこの眼で見てから、もう一度ミュンヘンに立ち寄った時に見た表現派は、あきらかに違って見えました。分厚い西洋美術史を、知識というより感覚で取り入れてから、改めて表現派に接すると、内なる声に耳を傾けながら真摯に取り組む作家の姿が見えて、日本で初めて表現派に接した時の新鮮さを思い出していました。
    「構築〜解放〜」に向けて
    いよいよ明日から新作の本格的な制作に入ります。昨年は「構築〜包囲〜」。今年は昨年の作品と対になる「構築〜解放〜」。また鑿を研ぎながらモチベーションを上げていこうと考えています。木材との対話が始まると思うと嬉しくて仕方ありません。作品は出来上がってしまうと自分の手を離れていき、ただの結果でしかありません。最後にギャラリーに作品を設置して空間演出をするという大切な創作行為が残っているのですが、それも既に考えたイメージの具体化であって、それもただの結果に他ならないと思います。未だ頭の中に燻り続けている最初のイメージ、それを作り始める第一歩が楽しいのです。作品は現在未知数です。あれこれ考え、イメージを膨らませている今の状態にしばらく酔っていたいと思っています。
    「歩き」を取り戻す
    職場へ自動車で通勤するようになって歩くことが少なくなりました。時々スポーツクラブへ行っていますが、車で乗りつけることが多いこの頃です。エンジントラブルで車を修理にだして以来、通勤も夜のスポーツクラブへも公共交通機関を使ったり、歩いていくことが増えました。自分は学生時代より歩くのが大好きで、とくにヨーロッパ滞在中の5年間はどこへでも歩いていくのがあたりまえになっていました。ウィーンの市電やバスの乗車券を生活費から捻出できなかったのが大きな理由ですが、それでも歩くことが楽しいと感じていました。あれから随分時が経って、歩行が退化したなと感じつつ、楽な車通勤に流されてきました。今はよく歩いています。昔の歩きを取り戻した気分です。スポーツクラブで泳いだ後、歩いて帰るという爽快感を味わっています。 Yutaka Aihara.com
    「魔法の国の建築家」を読んで
    ホルスト・ヤンセンと同じように、カール・コーラップもウィーンで初めて知った画家です。種村季弘著「断片からの世界」にコーラップに関する評論が掲載されていたので、これを契機にコーラップの絵を知った時の昔の思い出を昨日のブログに書いてみました。著作ではコーラップは「ほとんど解剖学的なサデイズムにしたがって切開された廃物オブジェが散在していながら、透明で静謐な神秘的一体感が眼に見えない雪のように沈々と降り込めている」世界を描いていると書かれています。その後、批評家の見解がふたつに分かれてるとの指摘があります。「一人がむしろ自足した田園詩人のひそやかなオプテイミズムを見ているところに、もう一人は工業化社会におけるペシミストの顔を見ている」。相反するコーラップの世界。いづれの画家も表現豊かな世界があれば別の解釈が成り立つものと思います。コーラップも現代美術界では優れた画家の一人だと私も思います。