Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 「魔法の国の建築家」を読んで
    ホルスト・ヤンセンと同じように、カール・コーラップもウィーンで初めて知った画家です。種村季弘著「断片からの世界」にコーラップに関する評論が掲載されていたので、これを契機にコーラップの絵を知った時の昔の思い出を昨日のブログに書いてみました。著作ではコーラップは「ほとんど解剖学的なサデイズムにしたがって切開された廃物オブジェが散在していながら、透明で静謐な神秘的一体感が眼に見えない雪のように沈々と降り込めている」世界を描いていると書かれています。その後、批評家の見解がふたつに分かれてるとの指摘があります。「一人がむしろ自足した田園詩人のひそやかなオプテイミズムを見ているところに、もう一人は工業化社会におけるペシミストの顔を見ている」。相反するコーラップの世界。いづれの画家も表現豊かな世界があれば別の解釈が成り立つものと思います。コーラップも現代美術界では優れた画家の一人だと私も思います。
    カール・コーラップの世界
    ウィーン幻想派画家やフンデルトワッサーほど国際的な名声を得ていないので、カール・コーラップを日本で知ることはありませんでした。20数年前にウィーンにいた頃、コーラップのタブローや版画を多くの画廊が扱っていて、ウィーン市民の間でコーラップがそれなりの評価を受けていることを知りました。コーラップの絵画は旧知のウィーン幻想派よりも馴染みやすく感じました。一言で言えば、不思議なグッズで成り立っている静物画です。描かれたものがオモチャのように散在し、ひとつひとつに意味があるようにも思えます。前時代的な金属製のものであったり、人の顔型の抽象化であったり、中には意味不明のグッズもあって謎解きのような世界です。馴染みやすかったのは、今思えば自分の作品に近いと感じたからかもしれません。自分も陶彫や木彫で造形要素を寄せ集めた世界を作っています。コーラップも広義では幻想派と言えると思いますが、独特の世界をもった画家であることには違いありません。
    コラージュと箔貼り
    365点の連作が160点をこえ、日々習慣化していますが、内容は展開に乏しくなっています。前日の作品を少し手を変えて今日のノルマをこなし、また翌日に繋げていく、という制作方法は好ましくありません。最近はレリーフした板材を貼ったり、さらに和紙や新聞をコラージュして、今までのペン画一辺倒を変えようとしています。今日は銀箔や銅箔(金箔は今の自分の作品に合わないと思ったので)を貼りました。小さい画面なので、箔の余り材を小分けにしたものを使いました。この箔を貼る作業がなかなかどうして難行いたしました。箔の余り材はクチャクチャになったものが小さな箱に入っていて、それらをピンセットで一枚ずつ剥がして接着面に置きます。布で軽くたたいて接着させますが、初めは上手くいきません。もともとクチャクチャなので皺になるのは仕方ないことですが(むしろそこが面白いマチエールになります)ところどころ穴が開いてしまうのです。今日は箔貼り作業を学んだ一日となりました。                      Yutaka Aihara.com
    軽妙洒脱な手紙から
    故ドイツ文学者の重厚な評論を読んで、20数年前暮らしていたウィーンに思いを馳せている時に、やはりウィーンで知り合ったエッセイストのみやこうせいさんから軽妙洒脱な手紙が届きました。太めのペンで書かれた手紙はパソコン全盛の時代にあって新鮮な感じがします。「(ルーマニアに)インド人が目下たくさん移住しています。インド人は乾いた牛糞の燃料をジャンボ機や貨物船で運び、これを燃やしてカレーをつくり、カレー屋がオラデアだけで5軒。インド人はカレーが好き。つまりカレーのルウを毎日つくる、ありゃ、ルーマニア。こりゃ、ルーマニア。となりの国に匂うカレーの香り。ハンガリーはハングリーとなり、二つの国はムンカチョスとなる。大食漢ですね。〜」といった具合の手紙です。いったいどこまで本当なのか、2ヶ月ほどルーマニア滞在して帰ってくると、みやさんの頭は飛んでしまっているのかなと察します。また、みやさんのコトバが聞きたいと思うこの頃です。
    「描かれた空想美術館」を読んで
    昨日は何故ホルスト・ヤンセン展の回想を書いたかと言えば、今読んでいる種村季弘著「断片からの世界」にヤンセンの評論が掲載されていて、20数年前にウィーンで知った卓越した素描画家の様々な面を知ることができたからです。著書にはヤンセンが好んで古今東西の巨匠を模写して自作を作り上げていることが論じられています。「先師から弟子へと伝承されてゆく模写の過程にあって重要なのは、巨匠たちのお手本を通じておこなわれる師との対話である。この対話の緊張が模写された作品のリアリテイーを支えており、もしもその緊張が一瞬たりとも弛緩すれば、模写はたちどころにたんなる機械的再製、石膏鋳型鋳出へと堕してしまう。」と述べられた後、ヤンセンの模写が「当意即妙の機智に導かれた模写」であり、「彼一人がコレクターであるところの独力の空想美術館を描き上げてしまう。」と結んでいます。どこかで見たことのある情景、でもどこにもないヤンセン独特な画風という印象を20数年前に持ったことは、こんなところに所以があったのかと改めて思い知った次第です。