Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 白バラは散らず
    少し前の新聞で最近のドイツ映画を取り上げ、ナチズムに対する実像を映像によって捉えるクオリテイの高い表現が出てきたと伝えていました。そこに「白バラの祈り」という新作映画の解説が載り、まてよ、これはひょっとして、と本棚に目をやり、30年前に読んだ「白バラは散らず」という小さい本を再び取り出しました。この本をどうして知ったかといえば、当時デザイン科の先生がドイツにあるウルム造形大学の話をしていて、この海外の大学の関係者が「白バラ」に関わっていたと何気なく言った一言でした。本を読んで知ったことは「白バラは散らず」の著者がウルム造形大学教授の奥さんで、その人の兄弟がナチズムに異を唱えて処刑されたショル兄弟だったのです。物語はウルム造形大学とは直接関わりがないにしろ、この戦争中の事実を20歳になったばかりの自分が読んで、かなり衝撃を受けたことを思い出しました。日本にもドイツと同じ過ちを犯した過去があります。日本の映画も日本軍の侵略を事実に基づいて描くことが今後できるのでしょうか。そんな問いかけをしてみたくなるノンフィクション・ストーリーです。
    北方芸術傾倒癖
    自分が美術を専攻した学生時代から、自分の中に去来した芸術家はいずれも北方ヨーロッパであるのに気づき、自分の趣向が北方に向けられていることを改めて認識しました。A・デューラーの細密な版画、R・クラナッハの硬質な油彩、ファン・エイクの荘厳な宗教画、それと対照的なH・ボスの常軌を逸した幻想世界、その弟子にあたるP・ブリューゲルの人間社会を描いた連作、その他レンブランドやフェルメール等中世から近代にいたるまで列挙すると切りがありません。19世紀から20世紀初頭にかけても印象派よりドイツ表現主義やバウハウスに興味が移り、自分が留学するならフランスよりドイツ・オーストリアに決めていた所以があります。学生時代の一時はドイツ表現派に傾倒し模倣をしていました。彫刻科に籍があったので、ミケランジェロやロダン、ブールデル、マイヨールの圧倒的な表現力を充分承知の上で、それでもなお北方ヨーロッパの風土に魅かれていました。
    警告つきの愉快な仲間たち
    ヒエロニムス・ボスの絵画はどれをとっても愉快でたまりません。妖怪に恐ろしい仕打ちを受けている人間がいて、そこに様々な謎や物語があって、細部を見ていると飽きることがありません。これは画家から発せられる社会に対する警告であり、辛辣な風刺だと思います。ボスはどんな人だったのでしょうか。中野孝次著「悦楽の園を追われて」の中で、ボスは「非常に感じやすい、行動力のない、受動的な人」と推測されています。この推測は自分にもわかるような気がします。そういう寡黙な人だからこそ、こういう絵が描けたんだと思います。ですが、恐ろしい警告とは別に、自分には登場する妖怪たちが愛すべき存在として見えてきます。今風に言えばボスキャラです。最近、美術館でこのボスキャラの立体フイギアを売り出しています。これも現代の風潮かなと思います。何でもマスコット化、アイドル化してしまう傾向はボスにも及んでいると言えます。果たしてボスキャラのグッズは売れているのでしょうか。常々自分は欲しいと思っているのですが。
    ウィーン美術アカデミーのボス
    昨日ボスに纏わるブログを書いていて、ボスの絵との出会いを思い返してみました。1980年に自分はウィーン美術アカデミーに入学しています。でもその頃は、アカデミーから歩いて10分のところにあるウィーン美術史美術館で、ブリューゲルの絵に心を奪われていて、ボスのことはよく知らないでいました。そのうち自分の通っていた学校に付属美術館があるのがわかり、廊下の扉の向こう側に凄い作品がいくつも掛けられているのを知って驚きました。同時にボスの奇怪な作品も目に飛び込んできたのでした。それは「最後の審判」を描いたものでしたが、ミケランジェロとはまるで異なる世界で、妖怪や怪物がウヨウヨまかり出る何とも形容のしがたい絵でした。でも正直言うとワクワクする楽しさがこみ上げてきて、自分のゲテモノ好きの心をくすぐるのでした。これが中世に描かれたとは俄かに信じられず、この絵には現代に生きる自分の心を虜にする魔力が秘められていると思いました。それから頻繁にボスに会いに行きました。何といっても工房をでると、ひとつ屋根の下にボスがいるのです。こんな幸せは二度とありません。そのうちボスが、我が愛するブリューゲルの師匠であったことを知り、この時代のフランドル地方の絵画に対する自分の無知を恥じてしまいました。日本人の趣向として印象派やイタリアルネサンスに偏りすぎて、北方の優れた芸術家を今まで蔑ろにしてきたのだとこの時感じました。
    「悦楽の園」を追われて
    表題は中野孝次著作のヒエロニムス・ボスについてのエッセイです。この本を購入してから何度となく読み返し、今再び気になる箇所を目で追いつつ読んだところです。ボスの難解な絵画を平易な文書で謎解きしてくれているのが有難いと思います。この本を持って、もう一度ボスの絵画が見たいという気持ちにさせてくれます。ともかくボスは不思議な画家で、中世にあってよくぞこんな幻想絵画が生まれたものかと目を疑ったほどです。決まりきった構図の宗教画が多い中で、ボスは本当に変わっています。現代人の目で見ると新しい絵画、つまり現代においても古さを感じさせない普遍性をもっているのです。キリスト礼賛においては当時巨匠といわれた画家が揃って、中央にキリストを配置しているのに対し、ボスは民衆の中に埋もれた存在としてキリストを描いたりしています。文盲が多かった当時はキリスト教を分かり易く布教するためにイエスやマリアを他と違う存在として絵にしましたが、ボスはキリストを蔑ろにする民衆を描くことによって、逆説的な宗教観を描いたと言えます。この本によく登場するスペインのプラド美術館にある「悦楽の園」は、昔自分も見ていることは間違いありませんが、記憶が薄れてしまっています。ここに登場する人物や妖怪が何を意味するのか、もう一度この目で見たいと願ってやみません。本物を見るべきと考えるのは、絵の部分にこそボスの面目躍如たる表現があるからです。