2025.12.27 Saturday
週末になりました。定番として土曜日は今週の振り返りを行ないます。今週は毎日工房に通っていましたが、制作時間を短くして映画鑑賞に2回出かけました。新作の制作では壁に掛ける作品の構成要素になる杉板の刳り貫きをやっていました。壁に掛ける作品はレリーフになり、4点の連作を考えています。杉板を炙ることで得られる効果がイメージの中にあり、画面全体を考えながらコツコツ作業を進めていました。炭化した板材を浮かしてみたり、斜めに貼り付けることで、架空都市の痕跡を留める作品になればと思っています。さて、今週は何よりも2本の映画を観て、その表現力に圧倒されていました。初めに観た映画は娯楽を中心に据えたエンターティメントであり、またもう一本は現在の国際情勢を左右している一人の人間の生きざまを描いたドキュメンタリーでした。エンターティメントの映画は「アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ」。3Dを駆使した映像は、滑らかで美しく、また画期的なデザイン性に溢れていました。本作は人が想像した架空の世界ですが、私の作っている彫刻作品も言うなればファンタジーです。そんな幻想世界でも、現代人が抱える問題を垣間見せ、私たちが忘れてはならない本質を描き出していると感じました。こうした世界観は夢を与えてくれるため、私たちの日常に活気を齎せてくれるのです。観終わった後で元気になれると思ったのは私一人ではないはずです。その逆をいくのが、現状を抉り出すドキュメンタリーで、ガザを攻撃しているイスラエルの現時点を捉えた「ネタニアフ調書」でした。映画の前半は首相ネタニヤフの汚職に触れた部分で、警察の尋問を受ける姿が映し出されていました。貢物をした人物たちからのインタビューもあり、逮捕を遅らせるために彼は戦争を長引かせているのではないかと映像は語っていました。一人の汚職隠滅のために数多くの人命が失われていく事実、これは決してファンタジーなどではなく眼前で行われている紛れもない現実なのです。観終わった後で憤りが込み上げてきたのは私一人ではないはずです。両極端な映像表現に直面して、何と印象的な1週間だったのだろうと振り返っています。
2025.12.26 Friday
「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)の「第4章 聖母像の日本への到来」は3つの単元から成っていて、今回は「1日本人と聖画像」について取り上げます。「それまでは宗教画の主流は建造物とくに教会建築に付属した壁画だったが、15世紀の末頃からイタリアでもアルプス以北で発展した小型の板に油彩またはテンペラで描いた、壁から独立した携帯可能な小型祭壇画が普及し、宗教画が携帯用になり、布教師がこれを全世界に携帯することができるようになったと彼(アンリ・ベルナール)は指摘する。したがって、ザビエルが鹿児島で見せたものも、そうした携帯用の祭壇画であっただろうと彼は推測し、『それ以来、ヨーロッパのタブローはポルトガル人の輸入品目となり、日本でもそれを模写制作するようになった』と書いている。」やがて、日本ではキリスト教に対する禁教令が出されます。「日本の信者から熱烈に慕われた聖母像であったが、1614年の禁教令以降、地上から聖母画像は姿を消した。しかしそれは消え去ったのではなかった。それ以降は変装と変容の時代に入る。しかし、信者を摘発し転宗を迫るための検閲の儀式としての『踏絵』には、効果的な画像として聖母像が用いられた。~略~日本の信者にとって聖母像はいかなるものであったかを最もよく語るのは、開国後の1865年3月17日に新たにパリからやって来たプチジャン神父によって建立された長崎の天主堂で起こった、劇的なキリシタン発見の事件である。このとき隠れた信者発見の決めてとなったのが、浦上の老婆がプチジャン神父に尋ねた『サンクタ・マリアの御像はどこ』という言葉だった。老婆はさらに聖母マリアの像を見て『そうだ確かにサンクタ・マリアだ。御子ジェス様を抱いていらっしゃる』と叫んだということである。これは、司祭も教会暦も、教書も一切なかった隠れキリシタンにとって、聖母マリア像が信徒の信仰の自己確認であり、数百年ものあいだ、カトリックの神父を待ち、その確認のキーになったのが聖母像であったことを示す意味深い事件であった。」今回はここまでにします。
2025.12.25 Thursday
映画に限らず、あらゆる表現には純粋に表現そのものを追うものや社会性や大衆性をもつものなど、幅広い表現形式が見受けられます。映画は観客を集めて上映される媒体なので、その個人浸透力は他の表現分野にはない影響を持っていると私は感じます。映画はアクションやファンタジーを描いた癒し系のものと、社会性をもつもの、それは時に事件を摘発し、私たちにその判断を委ねるものがあって、私はそんな映画を雑駁に大きく2つに分けて考えています。また後者は政治権力により規制がかかって上映禁止になるものがあり、なかなか刺激的な一面もあります。そのせいか私は学生時代から社会性をもつ映画をよく観てきました。今日家内を誘って観に行った「ネタニアフ調書」もそのひとつで、今も続いているガザ・イスラエル紛争の中心人物ネタニヤフ首相の公私にわたる行動をレポートしたドキュメンタリーでした。彼には汚職に塗れた事案が数多くあって、そのせいで戦争を止めたくないと言われています。平和になれば彼の犯罪が明るみに出て投獄されることは分かっているからです。図録にこんな文章がありました。「警察の尋問に対して高圧的に接し、自分に対する疑惑を徹頭徹尾『嘘』だと決めつけ、時には余裕たっぷりに映画『ゴッドファーザー』の有名なセリフ『友を近くに置け、敵はもっと近くに置け』を引用する、普段のニュースでは見ることのできない人間ネタニヤフの姿を垣間見ることができる。また、彼の汚職がいかに国家の腐敗を招いていったのかを証言するのは、元イスラエル首相、イスラエルの国内謀報機関シンベトの元長官、ネタニヤフの元広報担当、著名な国内の調査報道ジャーナリストたちだ。本国では上映禁止、親イスラエルの米国でも劇場公開されていないにも関わらず、国際的に注目を集め、昨年度のアカデミー賞ショートリストに選出されるなど大きな話題を呼んだ。」ネタニヤフ首相は20年近くその地位にいて、「イスラエルは完全に麻痺状態に陥っている。」(曽我太一著)と言われ、現在は強硬右派政党とも組んでいます。彼が首相でいる限り平和的解決は望めないでしょう。社会性をもつ映画は観た後もやるせない気分が残ります。私たち日本人から見れば、イスラエルは遠い国のようでいて人間臭さや残酷さを身近に感じることができるのは情報社会の成せる業なのでしょうか。
2025.12.24 Wednesday
「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)の「第3章 イエズス会のアジア布教とその美術政策」は3つの単元から成っていて、今回は「3イエズス会と『聖ルカの聖母』のイコン」について取り上げます。「聖ルカがマリアの肖像を描いたという説には無論歴史的な根拠はない。レオーはこの聖堂のイコンは、科学的検査によってそれが12世紀のものだと証明されたと述べている。しかし、聖性をそれ自体が具有するというイコンの形成にあたって、人の手によって描かれたものではない、聖なる起源をもつイメージの存在が不可欠であったとハンス・ベルティングは考察する。~略~ルカの描いたとされるイコンはテオトコスの神聖な原型と見なされた。教皇シクストゥス三世は公会議を記念して、聖母像への崇敬を示すために、古いバジリカを改築させた。これが現在のサンタ・マリア・マッジョーレである。中世を通じてこの聖母は数々の奇蹟を起こしたと記録は伝える。590年、大グレゴリウス教皇が、疫病を平定するために聖母のイコンをかかげてローマで行列を行なったところ、後にカステル・サンタンジェロ(聖天使城)と呼ばれることになった遺跡の上に大天使ミカエルが血に染まった剣をもって出現し、疫病を平定したということである。」聖イコンの崇敬用祭壇は、教会のもっとも格式の高いところに設置されていて、イタリアを旅した当時の私はそんなことに注意を払っていなかったので、何となく雰囲気を感じているだけでした。時代と共に宗教画を描く芸術家も変遷し、私にも馴染みのある画家が登場してきます。「芸術家の世代はすでに1580年代半ばに交替しており、サンタ・マリア・イン・ヴァッリチェッラ聖堂では、中世のイコンを支える祭壇画はルーベンスが、サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂では、主祭壇脇のチェラージ礼拝堂に、アンニーバレ・カラッチとカラヴァッジョが油彩画を描いている。つまり、この時期には、後代マニエリスムと呼ばれたり、初期バロックと呼ばれたりする画家らが同一のコンセプトで、同じ聖堂でともに働いていた。違いはただその様式であって、前者が観念的で、後者が感覚的な様式で描いたという点にある。」今回はここまでにします。
2025.12.23 Tuesday
今日の午前中は工房で作業をやった後、近隣のスポーツ施設へ水泳をやりに行って、夕方になって家内を誘って映画に行きました。映画は横浜鴨居にあるエンターテイメント系映画館で上映している「アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ」。本作はこのシリーズの3作目になる物語で、惑星パンドラで展開する3D映像を駆使した壮大なファンタジーです。私は本作のデザイン・ポリシーが好きで、過去2作とも家内と映画館に観に行っていました。本作は2作目に続き、海の世界が描かれ、岩山が浮かんだ空中から海の中へ入っていくシーンは、その美しさに溜息が漏れました。しかも自然の美しさだけでなく、人間が造り上げた工場のような人工都市やら未来型の空母、さらに夥しい水中戦闘機が登場し、アバターたちがいる聖地に人間の軍隊が襲いかかる戦闘シーンは圧倒的な迫力をもっていました。空や海、樹木の生い茂る陸地に生息する多様な生物たちと強い絆をもって生活しているアバターたちは、常に自然に対する畏敬の念や命の尊さを忘れずにいて、テクノロジーに頼る人間たちとの対比も描かれていました。図録によると「第1作『アバター』では『森(=木)』、第2作『アバター:ウエイ・オブ・ウォーター』では『海(=水)』、そして本作『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』では『炎と灰(=火)』。~略~キャメロン(監督)はシリーズの世界観をより深く掘り下げる。”森の民”と”海の民”に続いて登場したのは、ヴァラン率いる”灰の民”アッシュ族。火山の噴火によるすさまじい苦難を経験した彼女たちは、オマティカヤ族やメトカイナ族のようにエイワ(神的存在)を信じることができず、目的のためなら手段を選ばない。」(稲垣貴俊著)人間との戦闘だけでなく、部族間での諍いが描かれていた本作は、複雑な絡みがあって、内容もそれなりに膨らんでいました。ともあれ壮大な叙事詩が展開されていたことは間違いなく、さらにシリーズが先々出来上がっていくことを予感させていました。