Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • あれこれあって久しぶりに中華街散策
    先日の朝日新聞の記事でライシテという概念を知ったことで、宇都宮美術館で開催している「ライシテからみるフランス美術」展に行こうと思い立ち、早速家内を誘って宇都宮まで車を飛ばす予定でした。東名高速から首都高速へ抜け、東北自動車道へ向かう途中で、とんでもない渋滞に遭遇しました。場所は首都高速中央環状線「山手トンネル」で、長いトンネルの中で車は動かなくなりました。そのうちラジオから「トンネルで火災が発生しました。」というアナウンスが流れてきて、家内は窓を開け、臭いや煙を確認しましたが、そんな気配はなく、きっと渋滞の後ろの方で発生しているのかもしれないと思っていました。聞き慣れないアナウンスに心の動揺がありましたが、ネットで何度か状況を確認したけれど、どうやら大変な事態は避けられたようでした。しかし、このままだと美術館の営業時間に間に合わなくなりそうで、仕方なく板橋本町で高速を降りました。遅めの昼食を取ってから、一般道で帰ることにしました。横浜に到着する頃に、彫刻の師匠である池田宗弘先生から、中華街に行くようなことがあったら、腐乳を買って送ってくれないかと頼まれたことを思い出し、帰りがけに中華街に立ち寄りました。コインパーキングに車を停め、久しぶりの中華街を散策しました。腐乳は白腐乳を2瓶、紅腐乳を1瓶購入しました。池田先生は粥に腐乳を入れて食べるらしく、腐乳のことを知らなかった私たちは店の人から詳しい説明を聞きました。中華街は暫く来ないうちに新しい店が出来ていて、昔の情緒はなくなっていました。その代わり食堂や土産物店は綺麗になって入店しやすい雰囲気が現れていました。観光地によくあるように、ここでも食べ歩く人が多く、私たちは夕食に肉まんを買って帰ることにしました。私が幼いころ両親に連れられてやってきた中華街は、現代日本で一般化したおもてなしの精神はなく、それでも異国情緒に溢れ、やや子供心に怖さもあった中華街が今でも印象に残っています。大通りの上には龍を模った照明が浮かんでいて、街の今昔の移り変わりを感じていました。
    「イエズス会とアジア布教」について
    「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)の「第3章 イエズス会のアジア布教とその美術政策」は3つの単元から成っていて、今回は「1イエズス会とアジア布教」について取り上げます。「(イグナティウス・デ・ロヨラは)エルサレムに巡礼したあと、スペイン各地の大学で勉学し、熱烈な信仰心のゆえの審問や投獄を経験したあと、1528年パリ大学に向かい、ここで1533年に学士号、翌年修士号をとった。この大学で彼は後のイエズス会の同志を得た。フランシスコ・ザビエルもそのひとりである。1538年かれらは修道会を結成することとし、その会の『基本精神要綱』を作成、パウルス三世に提出して許可を得ることとした。~略~海外布教はイエズス会の重要な仕事であった。ロヨラが没したときには、すでに東インド、日本、中国などのアジア、ブラジル、コンゴ、エチオピアでイエズス会士が宣教を行なっていた。海外布教の事業に先鞭をつけたのは、フランシスコ・ザビエルである。~略~『(ザビエルがイエズス会員に宛てた書簡では)日本についてこの地で私たちが経験によって知り得たことをお知らせします。第一に(…)この国の人びとは今までに発見された人びとのなかで最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のなかでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。おどろくほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。』このほかザビエルは、日本人の大部分が読み書きができるので教理を教えるのに適していること、道理にかなったことを聞くのを喜ぶことをあげてその知性を賞賛している。~略~この楽観的な予想は、1550年の冬、ザビエルとフェルナンデスが訪れたミヤコ、すなわち京都で無惨な夢に終わった。天皇に会いたいという希望は、高位の紹介者と高価な贈りものを持たないものには不可能であった上に、戦乱の状況にあった京都に天皇は不在であり、わずか11日間の滞在であっても、天皇が日本を安定統治しているのではないこと、この国が戦乱状態にあって、総括者は不在であることがわかった。」今回はここまでにします。
    ライシテという概念について
    今日の朝日新聞の天声人語を読むまで、私はライシテという概念を知りませんでした。「宇都宮美術館で開催中の『ライシテからみるフランス美術』は、国家と宗教、政治と信仰の複雑な関係性を読み解いた。『ライシテ』はフランスの歴史と結びついた独特の政教分離のあり方で、非常に厳格に分ける。その概念は、18世紀のフランス革命に由来する。この時、王朝が倒れ、王制を支えていたカトリック教会も解体された。王室や教会から美術品を没収して、市民に公開したのがルーブル美術館の始まりだ。日本ではなじみの薄い概念だが、展覧会では美術という補助線が理解を助けてくれた。ミレー、ルオー、ユトリロー。有名画家たちの作品が、政治や信仰、愛国主義といった背景を知ることで異なる光を放つ。精神的な覇権を巡って宗教と世俗が激しく争い、議論してきたのが、現在に至るライシテの歴史なのだ。世俗化した社会で、作品を選び展示する美術館の役割は大きい。企画した学芸員の藤原啓さんは『宗教的に中立な場所だからこそ、私たちは美術史を問い直し、批評的に考えていかなければ』と話す。」改めてライシテとは何かを調べてみました。「フランスにおける教会と国家の分離の原則(政教分離原則)、すなわち、(国家の)宗教的中立性・無宗教性および(個人の)信教の自由の保障を表わす。 説明的に「非宗教性」という訳語が当てられることがある。」というのがAIによる解答です。芸術作品の中には宗教性であったり、社会性であったり、またそうした要素を持たない純粋な造形も見受けられます。フランス美術の歩みの中でライシテの概念から作品を読み解くのは、私にとっては新しい視点であり、こうした概念が存在することも美術を理解する上で、大切なことだろうと思います。宗教性で言えば、現在私は「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)を読んでいて、16・17世紀のカトリックとプロテスタントの鬩ぎ合いの中で、カトリックの聖母像が日本に齎された経緯を学んでいるところですが、宗教と政治、ないしは美術の関係についてひとつの考え方を本書からいただいていると感じています。私の中で今まで考えてこなかった分野で、新聞にも「日本ではなじみの薄い概念」とありましたが、全くその通りだなと思っています。
    「キリスト教美術が被った影響」について
    「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)の「第2章 16世紀における近代世界システムの形成と『世界文化市場』の成立」は2つの単元から成っていて、今回は後半の「トレント公会議が美術に与えた影響」を取り上げます。題名は逆に捉えた言葉にしました。「トレント公会議と芸術の関係については、20世紀半ばまでは、エミール・マールの古典的著作が解釈の方向を決定していた。要約すれば、それはプロテスタントとカトリックを明確に二分し、プロテスタントを聖画像否定、カトリック美術をそのディフェンス(反ルター)運動として定義する二項対立の図式である。~略~定説となっているこれらの理論は、対抗宗教改革は規制と審問の時期であって、芸術的創造は意図しなかったという解釈に立っている。いっぽうパオロ・ブローディはこれを強く批判し、『カトリック復興』は新しい芸術を産み出そうとしまた産み出したと主張する。~略~最終的にわれわれの目的は、宣教師が日本に携行した美術がどのような起源をもっていたかを知ることにある。そしてそれは、基本的に、トレント時代の作品であるから、この時代の絵画のなかに原典を求めなければならない。そこには世界市場に流布した聖像画の図像や様式が刻印されており、それはきわめて重要な、また広範な影響力をもったのである。さらに言えば、この時期の美術が教会によって統制され、画一化されていたからこそ、世界の異なった地域に同型の聖像が伝播したのであった。芸術を作家の個性にのみ価値をおいて評価するならば、定型性を特徴とする中世、ビザンティンのイコンはその価値をもたない。しかしながら、そこにある同一の、そして強力な意味があるゆえにその形式が画一化されるとすれば、画一化にこそそれら絵画の真の意義がある。広大な世界に同一の教義を伝えるにあたって、教義上の同一性をあくまでも追求した教会は、聖像においても、同形性を重視したのである。~略~トレント終結後の教会の美術政策は、第一に、ルネサンスおよびマニエリスムの美術における世俗的な要素を検閲し、それらを聖堂から除去することにあったことが明白になる。これは否定的、異端審問的政策である。またこの時期の第二の方針は、教会が望む新しい宗教画を提案し、それを指導し、奨励することであった。検閲と奨励、この二つの動きは、この時期のすべての画論に共通している。」今回はここまでにします。
    週末 色彩について
    日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。今日取り扱う予定の色彩については、以前のNOTE(ブログ)に書いたことがあると記憶していますが、改めて考えてみることにしました。美術の重要な要素は何と言っても色彩と形態です。私は彫刻を専門としているので、形態に対してはその立体把握や空間の在り方を常に考えてきました。と言っても私は最初から彫刻をやろうと思っていたわけではなく、高校時代は工業デザイナーを志望していました。美大の工業デザイン科にはデッサンの他に平面構成という受験科目があり、その平面構成で色彩を扱うことになっていました。その受験科目によって、私は色彩に対する劣等感を持つようになり、色彩の組み合わせの妙など、私にとって苦渋としか言えないものでした。だからと言って立体把握に優れていたわけではなく、正直なところ消去法によって私は彫刻を選びました。当時の私には粘土で塑造をする方が楽しかったのでした。さて色彩ですが、初めから色彩感覚に溢れている人がいることは確かです。私は受験仲間の友人の作品を見て羨ましかった記憶があります。どの色彩と色彩を隣り合わせにすると感覚に刺さるものになるのか、私はヨーロッパに住んでその色彩の組み合わせの面白さを知ったのでした。ヨーロッパの街並みにあるウィンドゥ・ディスプレイを飾る豊かな色彩に、私の心は踊りました。こんな色彩を使ってみたい、煌めくのは原色に限ったことではなく、微妙な色合いを組み合わせることで、その効果が得られることも分かりました。私には小さな平面作品を毎晩作っているRECORDと称する一連の作品があり、そこで色彩の組み合わせを試行しています。学生時代、色彩感覚が乏しいと感じていた私は、色彩に対する興味と学習で、乏しかった能力を補っているのかもしれません。