2023.06.28 Wednesday
「仮面の解釈学」(坂部恵著 東京大学出版会)の「Ⅳ しるし・うつし身・ことだま」のうちの「2 うつし身」について気に留めた箇所を取り上げます。「〈うつつ〉は、たんなる〈現前〉ではなく、そのうちにすでに、死と生、不在と存在の〈移り〉行きをはらんでおり、目に見えぬもの、かたちなきものが、目に見え、かたちあるものに〈映る〉という幽明あいわたる境をその成立の場所としている。そこに、〈移る〉という契機がはらまれている以上、〈うつつ〉は、また、時間的にみれば、たんなる〈現在〉ではなく、すでにないものたちと、いまだないものたち、来し方と行く末との関係の設定と、時間の諸構成契機の分割・文節をそのうちに含むものでもある。~略~うつせみの身とうつせみの世、うつし身とうつし世とは、目に見えないものたちの世界を背景としそれと境を接しながら、たがいに〈うつし〉〈うつり〉あいながら、いわばたがいの自己同一性を保証する〈うつつ〉の境位において、ひとつのおもてとして構成され、立ちあらわれてくる。」日本語の独自性の中にフロイトが登場する文章がありました。「夢も、また、フロイトが示したように、〈うつつごころ〉の眠りこんだ夜中に各個人の心の深層の劇場で演じられるドラマなのであり、うつつの世とうつつの身の同一性の存在をおびやかす深みの異形の神々ー蛍火のごとく、また蠅声なしてたちさわぐ、〈もののけ〉や〈あらたま〉たちの想起と統合の祭式にほかならないのである。」章の後半に現代のことに触れた箇所がありました。「話を一気に今日のわたしたちの世界に移すことにして、今日のわたしたちのもとで、〈うつつ〉の語がどのような形で生きているか、考えてみよう。〈うつつ〉の語は、たとえば、『うつつをぬかす』といった、かなり後の時代(近世以後?)に由来する合成語の形で、元来〈うつつ〉という語のもっていた〈ゆめ〉とあいわたる微妙な境位を示す意味あいとはほど遠い粗雑な変質をこうむって、わたしたちの語彙の片隅に生き残っている。かろうじて、今日でもときにつかわれる『ゆめうつつ』という語だけに、単層の意味づけの体系だけに領されて、平板化し、やせ細り、しらけがちなわたしたちの現実感覚の片隅に残された、かつての多元的に分散して多義性をはらみ、豊かにひびき合いうつり合う〈うつつ〉の境位のかすかなこだまが聞き取られるようにおもわれる。」今回はここまでにします。
2023.06.27 Tuesday
「仮面の解釈学」(坂部恵著 東京大学出版会)の「Ⅳ しるし・うつし身・ことだま」のうちの「1 しるし」について気に留めた箇所を取り上げます。本章は最終章になりますが、日本語独自となる論理を展開しています。冒頭には詩人萩原朔太郎の詩集「月に吠える」の中にある「冬」を取り上げており、そこに掲載されている「しるし」について解説と解釈を試みています。ここでは紙面の都合で詩そのものは取り上げませんが、最後の短いまとめだけ引用いたします。「わたしたちの生死往来の場は、しるし(兆・徴・標・験・記・印)と著きあらわれのことなり(差異、事成り)の境位である。」 またこんな文書にも気が留まりました。「しるしは、領り領られる他者と他者との関係を、しるされるものを媒介として、しるしづけ、ひとを、一定のしるしを負った、世界と社会との文節体系の一つの結節点として立ちあらわさせる。うまれながらにして、ひとを(たとえば、だれそれの子、神祖の家柄の血を引く子、といったように)しるしづけ、差異化の体系の分節のうちへと登録するそのしるし、そのしるしづけの体系あるいは差異化のシステムこそが、究極のところで、(親族体系、神話、宗教、倫理などというものとして)、たがいに領り領られるひととひと、あるいはひととものとの関係の総体を無言のうちに領り、ことならしめるものなのではあるまいか。~略~各人固有の人格といわれるものも、けっして、独立し完結した実体といったものではない。人格は、〈人間化〉されても、依然として、ひとつの〈ペルソナ〉なのであり、他者たちとの関係の網の目において、差異づけの体系の網の目においてしるしづけられることによって、はじめてそれとしてあらわれてくるものにほかならない、というわけだろう。」本書も後半に差し掛かり、相変わらず難解な論理を孕んでいますが、私は日本人哲学者によるものを今まで読む機会が少なかったなぁと思い返しています。ましてや本章のような日本語のもつ詩的語彙と広範囲な意味合いを改めて考えてみる機会は、もっとあっても良かったのではないかと思っています。今回はここまでにしますが、日本人哲学者によるものを他で何か探してみようと思うようになりました。
2023.06.26 Monday
「仮面の解釈学」(坂部恵著 東京大学出版会)の「Ⅲ 日本語の思考の未来のために」について気に留めた箇所を取り上げます。この章では欧米語と日本語の比較検討から日本語のもつ独自性を浮き彫りにしています。「日本語による思考が、概念化的・客観的な方向よりも、むしろ、いわゆる〈余情〉や〈言外の意味〉を生命とする詩的あるいは美的な方向に向う強い傾きが出てくることは見やすい道理であろう(たとえば、『東洋人の思惟方法』で中村元が示すように、日本人は、仏教の教理やさらにはインド伝来の論理学である〈因明〉さえも、あるいは和歌のなかにうたいこめ、また美的儀式の対象に解消してしまった)。沈黙のうちに没し去る、隠喩の無限の多様性の空間に、あるいはどこまでいっても素顔に達することのない世界という仮面の無限の重なり合いの空間に向ってひらかれた、このような日本語のすぐれて詩的な思考は、日本人の時間体験と密接なつながりをもち、たとえば、西田幾多郎、柳田国男、川端康成といったひとびとにその典型がみられるような、一種の〈日本流の生の哲学〉、すなわち、はじめもおわりもない悠久の時間の流れの中に、生死すらも連続とたわむれの相の下にとらえてしまうような思考を生むことにもなろう。」一方、西欧についての考察も述べられていました。「西欧の合理主義的形而上学の世界から詩的言語さらには隠喩を典型とする原初的な多義性の思考の復権によって脱出しようとするハイデッガーをはじめとするひとびとのくわだては、詩的思考をむしろその本領とする日本語の思考の伝統からいえば、ある意味で、なじみやすいものをもつ。」さて、ここで検討されるべき論考がありました。「日本語による思考とまたそれへの反省的自覚の歴史をふまえながら形成された言語についての一般理論が、ある意味で、西欧の今日の思考の展開の先端とふれ合い、またそれを先取りするものをもつことは、日本語の思考が欧米語の思考よりもすぐれているとか、あるいは、西欧の思考の行きづまりからの脱出の方向にただちに合流し協力することができるといったことをただちに意味するものではないことはいうまでもない。西欧の思考が行きづまりの様相をみせてきたから、今度はこちらの出番だ、というように簡単な具合にはとてもいかないのである。」今回はここまでにします。
2023.06.25 Sunday
日曜日になり、いつも来ている後輩の彫刻家が工房にやって来ていました。今日は久しぶりに染織を学ぶ美大生も来ていて、工房は活気がありました。私がいつもやっている個展用の梱包作業は、工房の床を広く使うので、今日は2人の制作者がいるため、梱包作業は休んで、作業台ひとつで済む新作の陶彫立方体を先に進めることにしました。板材を使う梱包用の木箱作りに比べると、陶土は乾燥が進むために長く放置することができず、その分考慮して、梱包作業と新作の制作をうまく組み合わせて行っています。工房を使う人が複数いる場合を考えて、今日が新作の制作が出来るようなスケジュールを当てているとも言えます。創作活動になると私は忽ち嬉しくなって、時間が経つのを忘れます。陶彫立方体は既存の作品から見れば、規制の多い形態を持つ作品ですが、それでも新しい文様を考案して彫り込み加飾を行うので、気分は上がります。私は可塑性のある素材を20代の学生時代から使ってきました。勿論木彫のカーヴィングもやっていますが、私にしてみればモデリングの比率の方がよほど多いのです。私は形態把握をプラスとマイナス両方で考える傾向があって、そういう意味でも可塑性のある素材は自分に合っていると思っています。カーヴィングは彫り込む形態をどうするかという迷いより、決定と決断に重きをおいていることがあり、逆にモデリングは最後まで迷うことに身を捧げられます。可塑性があるということは決断に緩みを生じさせますが、その中で自己を発見することもあります。学生の頃に習作していた人体塑造は、私にとって恥ずかしいものばかりでしたが、立体把握に長けていたわけではなかった私にとっては、本当に厳しい修行でした。ロダンやブールデルの構築された塑造を見て、自分はそこまで到達できるのかどうか、その頃から自分の資質を疑っていたことも事実です。それでも芯がブレずに継続してきたのは何だったのか、自分でも分かりません。好きという思いだけで続けられるほど彫刻は甘くはないと思っているからです。
2023.06.24 Saturday
週末になりました。今週は来年に向けた陶彫制作と今夏開催の個展のための梱包作業を毎日行っていました。平日も週末もなく、ずっと継続している仕事にちょっと疲れ気味になってしまったので、木曜日は家内を誘って東京上野の東京都美術館に「マティス展」を見に出かけました。最近は平日と言えども展覧会は混雑していることが多く、美術館での鑑賞が美術専門以外の人たちにも定着しているのを嬉しく思います。これは美術館や画廊が身近になっている証拠で、しかも現代美術にも理解を示している人も増えてきました。同日に立ち寄った横浜のそごう美術館は、現代彫刻をやっている日本人作家による展覧会で、ここにも見に来ている人がいました。ただ、「マティス展」に比べると鑑賞者が少ないのは、美術史の中での有名無名もありますが、広報の影響も少なからずあると思いました。私も含めて個展にかける広報費はほとんどなくて、結局画廊のもつ顧客や私個人が出す案内状が唯一の広報になるのかなぁと思っています。知り合いがわざわざ個展会場に来ていただけるのは嬉しい限りで、私としては旧交を温めるだけで満足を覚えます。私にとって美術鑑賞は制作や梱包作業の合間に出かけることで、良い気分転換になるのと同時に、自己表現を見つめる機会にもなるのです。これは持論ですが、実技と鑑賞が両輪として原動力となって、創作活動に働きかけていると実感しています。梱包作業は創作に比べれば退屈な仕事です。やらなくてはならないので毎日やっていますが、早く梱包を片付けて、来年の創作への一歩を踏み出したいと考えているため、今や同時進行でやっているのです。週に1回の鑑賞はホッとするので、来週にも鑑賞に出かけたいと考えています。