2023.06.18 Sunday
日曜日には後輩の彫刻家が工房にやってきて、自らの制作に取り組んでいます。彼は木彫、私は陶彫をやっていて、お互い集中しながら同じ時間帯を過ごしています。私は今日は梱包作業は休んで、新作の陶彫立方体を作っていました。この作品は1年間365点の立方体を使い、全体で空間演出をして、場としての世界観を描いていくものです。そのイメージは陶という素材を媒体として成り立つのです。私の場合は常に素材ありきで考えていて、とりわけ陶があってイメージされるものだけが頭にあります。陶は扱いにくい素材だなぁとつくづく実感していますが、高温によって石化していく過程が、私にとって魅力的なのです。陶は焼成される過程で、微妙に歪んだり、時に罅割れが生じます。これを防ぐために成形や彫り込み加飾で工夫をしていきますが、正確な立方体を作るのには少々無理があります。もっとも正確な幾何形体を作るなら金属か石材を選びます。陶彫は微妙な歪みを受け入れていくことと、それを差っ引いても陶という素材に拘るだけの魅力があると、私は思っております。発掘現場から発見された土器や土偶には、土臭い造形だけがもつ素朴で始源的なパワーを感じるのは私だけではないはずです。土は私たちに最も馴染のある素材だからです。文明の曙期に人類は、土に呪術的な魂を感じ取り、宗教性のある造形物を生みだしました。同時に器を作り日常品として愛用してきました。現代は発達した工業生産により新たな素材開発が進んできました。実材を離れてバーチャルな世界も手に入れてきましたが、私は文明の曙期に、人類が最初に手に取ったであろう土に、相変わらず魅せられているのです。制作方法は土偶と同じです。電動ロクロは使わず、手びねりで現代の造形に挑んでいるとも言えます。そうしていると私は妙に元気になれるのです。またこれから1週間、土に親しんだ創作活動をやっていきます。
2023.06.17 Saturday
週末になりました。今週は相変わらず毎日工房に通い、寸時を惜しんで慌ただしく作業をしていました。今週は2つの作業を交互にやっていて、気が緩む暇がありませんでした。ひとつは来年に向けての制作で、陶彫立方体から気持ちが離れることはありません。制作方法は従来通りですが、彫り込み加飾の新しいバリエーションを考えなければならず、毎日苦し紛れになりながら、私としては結構楽しい時間を過ごしています。もうひとつは今夏、個展で発表する作品の梱包作業です。材木店から板材や垂木を大量に購入してきて、木箱作りを始めています。木箱に陶彫立方体をエアキャップに包んで収納してみると、ひとつの木箱に8点入ることが分かりました。その分、木箱は相当重くなりますが、当初ひと箱6点収納と考えて板材の量を割り出していた私は、箱数が少なくて済みそうなのでホッとしました。木箱作りは昨年の木箱を見ながら、板と垂木にタッカーをどのように打ち込んだか、木工ボンドをどこで使ったか、板を立ち上げる際にクギをどのくらい使ったか、いろいろ思い出しながら今週は6個の木箱を作りました。そのうち4個に陶彫立方体を収納しました。これは1月分に当たります。明日は新作の陶彫制作をやるつもりで、畳状のタタラを数枚用意しました。私は大工仕事が嫌いではありません。祖父やその先代たちも大工だったので、その血統があるのかもしれず、運搬業者に教わった垂木補強の木箱作りは、何の苦労もなくこなしています。ただし、工房内の暑さが半端なく、シャツや頭に巻いた手ぬぐいを汗で濡らしています。今日は30度に近い気温だったようで、時々熱中症を心配しました。自宅から水筒を持参してきていますが、水分はすぐなくなります。それでも身体が暑さに慣れてきたせいか、動きやすくなっていることも事実です。夏の暑さの中での制作活動は、教職に就いていた頃からずっと継続してやってきたことなので、自分の身体に関することはよくわかっているつもりです。でも年齢もあると自覚しているので、無理をしないように早めに自宅に戻って休もうと思っています。
2023.06.16 Friday
「仮面の解釈学」(坂部恵著 東京大学出版会)の「Ⅰ〈おもて〉の解釈学試論」のうちの「3 あらわれとCopula」について気に留めた箇所を取り上げます。本章は主題の導入部で「円空・木喰展」に著者が訪れた時の感想があり、一木彫りを日本独自の「樹木の精霊」としている論考に、私は感じ入ってしまいました。そこから導かれて和辻哲郎の倫理学からの引用箇所があって、私は和辻著による「風土」が40年以上前に中途半端なまま書棚に残されていることを思い出しました。近いうちに再読をしなければと思っています。今回の題名になっているCopulaとは繋辞の意味で、文章の主語と述語を結ぶための補助的な品詞のことを言います。そんなことを念頭に気に留めた箇所を拾います。「〈存在〉とは、間柄としての主体の自己把持、即ち〈人間〉が己れ自身を有つころ、いいかえれば『人間の行為的連関』であり、したがって、存在とは、厳密な意味においてはただ『人間存在』である、と和辻はいう。~略~個々の人という意味とともに、とくに〈間〉という語によって、人と人との間柄、共同存在、社会、つまり〈よのなか〉〈世間〉の意味をあわせもっており、個体的でありうるとともにまた社会的であるという具体的な人間のあり方としての二重性格を的確に指し示しているからである。」人間についてさらに考察が続きます。「『人間が己れ自身を有つこと』、〈ひと〉としてあることは、『われ自身が他者にとってまた他者であることの理解』『われにとって他者がまたそれ自身”われ”であることの理解』をまって、いいかえれば、〈われ〉と〈ひと〉との間の反転可能ないわばあわせ鏡の構造としての場所に首尾よく位置をしめることによって、はじめて可能になる。」また別の言い方でこのように表しています。「〈ある〉の語は、元来の用法においては、神霊の出現あるいは神霊の意志の顕現を意味することが多い、という。『あらたま』などの『あら』(荒)、『あら』(新)、『あら』(現)、『生る』、『あらわる』、『あらわす』などは、すべて相互に関連をもつ一連の語であり、『勃然として発生してきたものの、ナマのままのエネルギーをいうものであろう』と、〖日本国語大辞典〗の『あら』の項には記されている。『がある』『である』という形をとって、〈間柄〉あるいは『人間存在』を表現し、またその〈わけ〉の総体にサンクション(制裁措置)をあたえる〈ある〉は、反面、また、形あるものと形なきもののはざまに存立の場をもち、このもっとも根源的な〈わけ〉〈あいだ〉〈ことなり〉をあらわすことばでもあるのだ。」今回はここまでにします。
2023.06.15 Thursday
「仮面の解釈学」(坂部恵著 東京大学出版会)の「Ⅰ〈おもて〉の解釈学試論」のうちの「2〈かげ〉についての素描」について気に留めた箇所を取り上げます。「洞窟の比喩というおそらく西欧の想像力あるいは文学の史上でも第一級の位置をしめるイメージを描きえたプラトンが、また同時に、ジルベール・デュランの『象徴の想像力』のなかのことばを借りていえば想像力を不当におとしめる〈イコン破壊的〉な西欧形而上学の創始者となり、あるいはハイデッガー流にいえば、〈真理〉を現前存在者つまり〈イデア〉として規定する西欧的な〈ヒューマニズム〉の形而上学あるいは神学の創始者となったということは、考えてみれば、皮肉なことであった。」章の冒頭で洞窟の中において炎に揺れるかげから、地上の眩い陽光のもとに出た人々に着眼した箇所があって、前述の論考はそこが発端になっています。「いわゆる実在の世界から目を転じて、実在の反映あるいは〈かげ〉に没入することが、なぜ主体に現実との疎隔の感覚をもたらさず、かえって自己自身との親密さの意識をもたらすのか。いうまでもなく、それは、わたしたちの日常の実在あるいは現実の感覚が、差異性の諸体系によって重層的に構造化されたわたしたちの存在の場のほんの一部のみを抽象的に切りとり、それに対応していわゆるデカルト的な〈自我〉や〈意識〉といわれる構成体も、けっしてすべての〈真理〉認識の原点でも規準でもありえず、かえって人間の存在の場の総体への感覚をおし殺してしまうものにほかならないからである。」〈かげ〉についてこんな論考もありました。「無意識の世界とは意識の世界の〈かげ〉にすぎないのか。それとも、反対に、わたしたちが日頃これこそ現実だとおもいなす意識の世界こそが、かえって、その背後にひろがる広大な無意識の世界の〈かげ〉にすぎないのではないか。このような問いにたいして一義的な答えをあたええないことはいうまでもないだろう。たしかなことは、ただ、みずからがみずからにたいして残りなく現前し、〈かげ〉の部分を残さぬような意識、真理と現実性との超越的・絶対的な基準となり照合の中心となるような明証的な意識といったようなものが、人類の文化史上に一つのエピソードとしてあらわれた虚構にすぎないということだけだ。」今回はここまでにします。
2023.06.14 Wednesday
「仮面の解釈学」(坂部恵著 東京大学出版会)の「Ⅰ〈おもて〉の解釈学試論」のうちの「1〈おもて〉の優位」について気に留めた箇所を取り上げます。著者が紡ぎ出す論考は、哲学者だけあって卓識が散見されるもので、じっくり腰を据えて臨まないと主張する論点が見え辛いことがあります。私は久しぶりに硬質な書籍と格闘している感覚になりました。「〈おもて〉とは、自我と世界、自己と他者との一切の意味づけの失われるわたしたちの存在の場の根源的な不安のただなかから、はじめて同一性と差異性とが、意味と方向づけとが、〈かたどり〉を得、〈かたり〉出されてくる、まさにそのはざまの別名にほかならない。〈おも-て〉の『て』は、〈うしろ-で〉〈うら-て〉の『で』『て』とおなじく、〈おもつへ〉=面つ方、〈うしろつへ〉=後つ方の語尾のちぢまった形であり、こうしてみればあきらかなように、方向を示す。〈おも-て〉は、原初の混沌と不安のカオスの中からはじめて意味づけをえたコスモスがたちあらわれてくる始源の方向づけをかたどり出すのだ。~略~〈おも-て〉の『おも』は重に通じるとともに、また、〈おもふ〉=思ふの思にも通じる。〈おも-て〉によって方向づけられかたどられるコスモスは、同時に、はじめて、ひとの〈思ひ〉をかたどり定着する。〈おも-て〉=面=顔とは、まさに、〈思ひ〉のかたどられる場所にほかならない。」さらに文章で重複する箇所があるのは著者が重点として扱っているものだろうと思っています。「〈おもて〉とは、〈主語とならない述語〉であり、また、〈意味されるもののない意味するもの〉である。〈おもて〉とは、また、カオスの根源的な不安から意味をもったコスモスがたちあらわれ、〈おもみ〉と〈おもひ〉として〈かたどら〉れ、〈かたり〉出るはざまそのもの、対象化されえない述語面が〈声〉を根として〈かたどら〉れ、〈かたり〉出る、〈おもて〉あるいはペルソナのその〈声〉は、一体誰の声なのか。いいかえれば、〈おもて〉のペルソナは、一体いかなる〈人称〉をもつのか。」そうした考え方に日本語の独自性が介在していることを語った箇所もありました。「〈わ〉(我)、〈な〉(汝)、〈か〉(彼)あるいは〈た〉(誰)といった人称代名詞の基礎的な体系の圏外に属する全然系統をことにする人称代名詞を、すくなくともわたしたちの日本語はもっているようにおもわれる。それは、しかも、〈おもて〉と最初の音韻を共有するのだ。〈おのれ〉ということばが、我と汝の意味を二つながらもつことは、今日のわたしたちの言語感覚からしても、何とか生きた使い方としての命脈をたもっている。」今回はここまでにします。