Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 新作は次の段階へ…
    週末になりました。定番として土曜日は今週の振り返りを行ないます。今週も毎日工房に通っていました。気候が良くなったので、今週も通常の朝9時から夕方3時までを作業時間として、新作の完成に向けて制作に励んでいました。陶彫制作の焼成は全部終わっていないにしろ、成形と彫り込み加飾は既に終わっていて、乾燥を待っている状態です。次から次へと窯入れをしたいところですが、一旦窯に入れてしまうと窯以外の電気を使えない状態にするので、窯内の温度が高温に達するまで他の作業が出来ません。そんなこともあって、窯入れは1週間に1回程度にしようかと思っています。今週は美術館等へ鑑賞に出かける予定がなかったので、月曜日の夕方に窯入れをして、火曜日は工房が使えない日にしました。火曜日は近隣のスポーツ施設に水泳をやりに行く日で、運動の後は自宅でゆっくり休息をとることにしました。現在、制作の方は陶彫作品に組み合わせる厚板材の加工をやっています。実はこの造形が新作の主張の方向を表していて、ひとつの見どころになっています。厚板材を刳り貫いて、砂マチエールを全体に貼り、油絵の具を染み込ませる方法は、私が今までにもよくやっている常套手段で、単純な技法ですが、陶彫の素材とよく合うと私は考えています。では厚板材をどのように刳り貫くか、これが日々思索を重ねているところで、欠損して語れない何かをイメージしていこうとしています。廃墟のピクチャレスクを敢えて作ろうとしているのは、以前読んでいた書籍からの受け売りですが、いつまでも完結しない形を作っているのは、私がさらに上方に存在する何かを求めようとしている思考がどこかにあるためかもしれません。新作の制作は愈々佳境を迎えようとしていますが、実は今年の夏にギャラリーで発表した延長として、壁に掛ける作品をもイメージしていて、それにも同時に取りかかる必要を感じているのです。
    「復活、 諸宗教、宗祖」について
    「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)の2つ目のパート「開祖と聖人の生と死」は5つの章から成り立っています。今回はそのうち後半の3つ「第6章 死と復活」と「第7章 諸宗教の開祖と預言者」と「第8章 聖人と宗祖」の気に留めた箇所を拾います。「仏教の物語は対立を生み出す煩悩が消失するところに焦点を置いており、開祖の死をめぐっても社会的対立などは描かれない(釈迦はみなに惜しまれて死ぬ)のに対して、キリスト教の物語は収拾のつかない対立の悲劇に焦点を置いており、神自身が、不条理の中で死ななければならない人間の死を引き受ける形になっている。」諸宗教について触れた箇所がありました。「東アジア生まれの儒教と道教は相互補完的な宗教セットである。儒教は祖先祭祀の儀礼に重きを置き、孔子や孟子の倫理的教えに従って社会の秩序や儀礼を守る。道教は儒教に対するカウンターカルチャーであり、老子と荘子の無為自然を奉じたり、不老長寿を理想とする仙界のファンタジーに遊んだりする。孔孟思想や儒教が人生のパブリックな側面を仕切るとすれば、老荘思想や道教はプライベートな本音に沿う形となっている。」ユダヤ教についても言及しています。「キリスト教とイスラム教を生み出す母胎となった紀元前からの宗教、ユダヤ教には開祖はいない。ユダヤ教の教典であるタナハ(旧約聖書)の冒頭に置かれる『創世記』は天地創造と人類の始祖アダムとエバの物語から始まっているが、アダムとエバを開祖と呼ぶわけにはいかないだろう。」仏教の宗祖を論じた文章に、私の興味がある像が登場してきたので、そこを取り上げました。「仏弟子の姿から発展したものが羅漢像であるが、仏弟子たちの歴史的後継者である学問上の創始者や宗派の宗祖たちもまた、基本的にはリアルな姿で造形されている。その典型が奈良の興福寺にある有名な運慶作の無著像だろう(兄弟の世親の像もやはり名作である)。無著(アサンガ)と世親(ヴァスバンドゥ)は4世紀のインド大乗仏教の哲学者(方相宗の教学家)である。」本書は図像学入門としているので、性質上図版を多く載せています。そこはNOTE(ブログ)で表せないところです。今回はここまでにします。
    「 降誕、 開祖の生涯」について
    「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)の2つ目のパート「開祖と聖人の生と死」は5つの章から成り立っています。今回はそのうち2つ「第4章 降誕」と「第5章 開祖の生涯」を扱います。まず降誕についてです。「インドでは宗教のいかんを問わず、あらゆる生物が延々と生まれ変わりを繰り返すという世界観、すなわち輪廻転生を当たり前としていたので、釈迦の伝記にも前世の神話が付け加えられた。だから釈迦は前世までの無数の過去世において自己犠牲的な善行を重ねてきたので、このたび世界の救済者として誕生することができたことになっている。~略~仏教には輪廻転生があるので、釈迦の過去世を神話化することで釈迦を特別な存在として描くことができたが、輪廻信仰をもたないキリスト伝の場合は『神の子』の誕生という形で神話化している。聖母マリアは処女でイエスを生んだ。マリアの夫ヨセフはイエスにとっては養父であり、実の父は天にまします父である。」次に開祖の生涯について記します。「仏教は修行の宗教である。釈迦の伝記は、修行を決意して完成させた大先輩の物語となっている。キリスト教は神を信仰する宗教である。イエスの伝記は神の子が地上に『神の国』の秘義を開陳していく物語となっている。~略~釈迦の教えの核心は瞑想による自己観察にあり、《快楽》と《苦行》の両極端を避ける《中道》を重んじる。この図式はそのまま伝記を枠づけるものとなっている。つまり、何不自由ない王宮暮らしが快楽を、出家してからが苦行を表し、その後にくる菩提樹の下での瞑想と悟りが中道というわけである。~略~イエスはユダヤ教徒であり、伝道の対象はパレスチナのユダヤ人たちだ。ローマ皇帝の権力が強まっていく中、ユダヤ人たちは救世主が現れて世界の構造を一新するのを待ち望んでいた。地上の権力は倒され、病気は消えてなくなり、死人までが甦る。そんな終末ユートピアの待望だ。」ここでは仏教とキリスト教を扱いましたが、そこには強烈な人格を有する開祖がいたからです。ヒンドゥー教や神道には開祖がいないので、ここでは取り上げませんでした。今回はここまでにします。
    「教えの本質と象徴化」について
    「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)の最初のパート「教えの本質と象徴化」は3つの章から成り立っています。まず「第1章 十字架と法輪」次に「第2章 空と偶像禁止」さらに「第3章 三位一体と三神一体」があり、第1章では信者数の多いキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教のシンボルマークを扱っていました。第2章から次の内容を引用いたします。「人類が発達させた言語なるものは、目の前に存在しないものについても語ることができる。おそらくこれが人類が霊や神々の神話をもつことになった根本的な理由だろう。数十万年も続いた原初の狩猟採集生活は、動物などに範をとった精霊の図像を生み出した。一万年ほど前からの農耕生活がもたらした階級社会や帝王のイメージもまた、天界の王族のような神々や天人の図像を生み出した。~略~イスラエルの民は、さらに、自分たちの神ヤハウェを民族性を超越した普遍の神、唯一絶対神と解釈するようになった(紀元前6世紀ごろ)。かくして生まれた一神教から、1世紀にキリスト教が、7世紀にイスラム教が派生した。いずれも偶像禁止の建前を受け継いだ。~略~キリスト教徒にとってキリストが『神の子』であるように、イスラム教徒にとってコーランは『神の言葉』である。」一方、仏教はどうでしょうか。「一神教とは異なり、多神教世界では一般に神々を図像化することに抵抗はない。とはいえ、真理は偶像的な図像では描けないという思想がなかったわけではない。~略~仏教では、像だろうが現実の事物であろうが、それ自体には執着すべき実体がないという『無我』や『空』の教えを究極の奥義としている。」次に第3章から引用いたします。「三位一体も、仏身論や胎蔵曼荼羅の三層構造も、ヒンドゥー教の三神一体も、歴史的に増殖した神的存在を論理的に一つにまとめようという教理であった。三という数字が繰り返し現れるが、そこに論理的(あるいは神秘的?)必然性があるのか、単にまとまりのよい数というだけなのか、よく分からない。三に意味を認める人は、祭壇における三尊形式(仏像などを主尊と両脇侍の三体並べる形式)や、仏教の三宝(信者が帰依すべき対象としての仏、法、僧)、中国思想の三才(天、地、人)さらには哲学でいう『弁証法』(正・反・合の三段階に図式化されている)、近代政治の三権分立などに参考として言及することがある。」今回はここまでにします。
    「宗教図像学入門」を読み始める
    「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)を今日から読み始めました。自宅の書棚を探していて本書を見つけましたが、いつ頃購入したものか忘れています。私は特定宗教を信仰しているわけではなく、私の家は先祖代々、自宅の近隣にある浄土宗の寺に墓地がある関係で、仏教浄土宗の行事に最低限の関わりを持っています。それも昔からその寺に墓地があったわけではなく、その昔近くの丘の上に小さく区画された先祖の墓があり、その土地を処分するために墓地に眠る先祖の魂抜きを行ない、菩提寺に墓地を移したのでした。私の周囲には、哲学者で既に他界した叔父が、無教会主義を唱える内村鑑三に私淑したキリスト教信者であったり、彫刻の師匠がカソリック系のキリスト教信者で、聖書を題材にした作品を多く作っていて、親類も含め宗教の多様化があります。私自身も20代の頃にヨーロッパにいて、教会建築や装飾に圧倒されていました。私の先祖が関わる仏教より、留学を含めた私の修学時期に出会ったキリスト教の方が身近になっている現状もあります。宗教は人類史上最も古い学問として登場してきました。古代人は狩猟にも他力本願をしたのでしょう。そこに図像が生まれたのは私にも理解できます。本書の「はじめに」として書かれていることから引用いたします。「宗教はドグマや戒律や教典ばかりで成り立っているのではなく、美術のような感性的なものが果たす役割も大きいということを『イメージトリップ』を通じて実感していただくというのが本書の目標である。~略~狭い意味での図像を超えて、寺院や教会、聖地や巡礼地などの空間的な構造にも目配りした。というのは、神話や儀礼からなる宗教の世界観は、霊的象徴を通じて自然空間に広がり、儀礼を通じて身体、祭壇、神殿、環境、世界全体のそれぞれを対応させるからである。西洋でも東洋でも形而上的奥義として小宇宙(人間の身体)と大宇宙(環境世界の全体)の照応関係が説かれる。そういう世界観の一端が垣間見えるように努めた。」今回はここまでにします。