2022.01.28 Friday
自宅の書棚を眺めていると、既読したものかどうか分からなくなっている書籍が結構あります。私は大手書店でまとめて書籍を購入する癖があり、また複数冊を同時に読んだりするので、印象がまちまちになっているのです。ただ救いなのは、既読した書籍の気に入った箇所に、私は鉛筆で線を引く癖もあり、ホームページのNOTE(ブログ)を立ち上げた時に、その箇所を引用文として活用している場合があります。引用の線がなければ未読の書籍ということになり、今回手に取った「仮面ーそのパワーとメッセージ」(佐原真監修 勝又洋子編)は未読であろうと思っています。仮面関連で言えば「火の神・山の神」「豊饒の神・境の神」(2巻とも高見乾司著 海鳥社)、「呪術としてのデザイン」(中嶋斉著 彩流社)が書棚にあり、既読しています。これらの書籍は仮面を一部に掲載した民俗学的な論考が中心で、結構面白かった印象があります。九州の由布院で購入したと思われる「九州の民俗仮面」(高見乾司著 鉱脈社)は未読で、機会があれば読みたいと思っています。あと書棚で目につくのはアフリカの各種美術展で購入した図録の数々で、そこにも仮面が掲載されています。「仮面ーそのパワーとメッセージ」(佐原真監修 勝又洋子編)は、お面の考古学、現代の仮面、日本の先史仮面、中世の能面、韓国や中国のお面、世界各地の仮面にイタリアの仮面祝祭を特化して構成されています。その専門ごとに著者が変わるのがいいなぁと思っています。仮面は私の大好きなモノのひとつで、自ら収集もしていますが、私が集めるモノは骨董価値や民俗学的価値は関係なく、造形美術としての創作意欲が搔き立てられるモノに限られています。アフリカ系のモノが増えてしまうのは私の嗜好によるもので、コレクションの世界的な分布には向きません。素材や制作年代もまちまちで、文化的な背景ですら知る由もなく集めてきました。本書を読もうと思ったのはそんな文化的背景を多少なりとも理解しようと思ったからです。
2022.01.27 Thursday
「バウハウス-歴史と理念」(利光功著 株マイブックサービス)の「ニューバウハウス エピローグもうひとつ」をまとめます。「バウハウスは1933年ベルリンにおいてナチスの弾圧のもとに消滅した。しかしこの消滅は死滅を意味しなかった。バウハウスの理念は世界的規模で拡がるのだが、とりわけ米国には創立者グロピウスを始めとして多くのバウハウス人が移住し、さまざまなかたちでその理念が浸透し展開していった。~略~ニュー・バウハウス設立の準備をしたのは、シカゴの芸術・工業協会であった。」ニュー・バウハウスはモホリ=ナギを学長に据えて開校しました。米国ではどうだったのか、こんな文章がありました。「大部分の者がバウハウスについてよく知っており、すでに大学や美術学校での高等教育を修了した者が大半で、ある学生はニュー・バウハウスに大学院の積りで入ったという。すなわち米国でのいわば旧式の造形教育に飽き足りない連中が、新しい素材・方法・理論による教育を求めて、またヨーロッパの最新の芸術運動の担い手たちと接触できると期待して集まったのである。」ところがニュー・バウハウスも破綻の憂き目に会います。「スポンサーである美術・工業協会が財政難に陥ったため、わずか二学期間続いただけであっけなく閉鎖されてしまうのである。~略~この閉鎖はあやふやな財政的基盤の上に学校を発足させた協会の失敗であって、決してニュー・バウハウス自体の失敗と解されてはならない、どこか他の経済的援助をしてくれるところは無いだろうか、と公に訴えたのであった。」その後はデザイン学校として存続していたようでしたが、バウハウスの名称は使わないことにしたのでした。バウハウスの試みはさまざまな形で現在に受け継がれてると私は感じています。たとえば大学のデザイン科の分野において、その専攻の原型となったのがバウハウスだったように思います。私は美術の専門家になりたいと10代の頃に思っていて、社会貢献が出来るものは何だろうと考え、工業デザインの道を選びました。若いくせに我ながら立派な考えを持ったものですが、そのうち社会貢献などどうでもよくなって彫刻の道に迷い込みました。芸術性の制限が自分なりに厳しいと感じたために、自由な世界に身を投じたのでした。社会貢献は教職に就いて補いましたが、その後数十年間自分がやりたいことと生活のための経済活動を並行し、かなり歪んだ生活を送る破目になりました。私にとってバウハウスはいろいろな課題を提供してくれる刺激的な教育機関なのです。そんな思いがあったので滞欧中に原語による書籍を収集してきましたが、結局今回は日本語による分かり易い書籍を読んだ次第です。
2022.01.26 Wednesday
「バウハウス-歴史と理念」(利光功著 株マイブックサービス)の「ベルリンのバウハウス エピローグ 首都での閃光」をまとめます。この章は番号ではなくエピローグ(終章)になっています。「ベルリンへ大部分の教師と学生がデッサウから移ってきて、開校の準備に忙しく立ち働いた。電話器製造工場の内部を改造して十二教室を作り、デッサウのバウハウスから譲り受けた種々の器具備品類を運び込んだ。~略~こうして1932年10月25日、格別の儀式もなく、しかし希望に満ちてベルリンのバウハウスは冬学期の授業を開始した。」しかしこの希望も束の間で、ナチスによる弾圧が始まったのでした。「4月11日(1933年)、突如、バウハウスはベルリン警察とナチスの突撃隊に家宅捜索を受け、建物を封印されたのであった。強制捜索の表向きの理由はデッサウ検事局の指示による共産主義文書の押収ということであった。~略~ナチスは依然ベルリンのバウハウスもボルシェヴィズムの牙城とする見方を変えていなかったから、事実はそれらしきものが何も発見されなかったにも関らず、非合法文書を没収したとのデマを流して、封鎖を正当化しようとしたのである。」学長のミース・ファン・デル・ローエは教授会で財政困難を理由にバウハウスの解散を決定しました。それを学生にも知らせたのでした。こうして革新的な教育を推進しようとしたバウハウスは完全に閉鎖されました。バウハウスは歴史の記録から消されても、人々の記憶から消されることはなく、現在でもその理念が生きています。私が美大受験生だった頃にバウハウスの存在を知らされ、当時私は工業デザイナー希望だったために、この独特な教育方針を有する学校は、私の夢となり、また記憶に深く刻まれました。どうしてバウハウスの理念は生き残ったのでしょうか。「しかしこれによってバウハウスの理念そのものが消滅したわけではなかった。故郷へ帰った者によって、ドイツから追われてパリへ、ロンドンへ、新大陸へと亡命した者によって、むしろバウハウスの精神は世界的規模において展開継承されることになるのである。」本書にはもうひとつのエピローグがあり、その舞台はアメリカです。それはまた次回にいたします。
2022.01.25 Tuesday
「バウハウス-歴史と理念」(利光功著 株マイブックサービス)の「第七章 デッサウのバウハウス その三 ミース・ファン・デル・ローエの時代」をまとめます。新しい学長として就任したミース・ファン・デル・ローエとはどのような人物だったのでしょうか。「何といってもミースを有名にしたのは、1929年バルセロナで開催された万国博覧会におけるドイツ館の建築である。このパビリオンは流動的空間処理と材料(縞めのう、マッカサル国檀、大理石、ガラス等)の巧みな配合により近代建築の里程標と評価された。こうしてバウハウスの学長に招聘された時、ミースは建築家として最も充実した活動をしていた時であり、いわばその絶頂期にあったのである。」その後、クレーの辞任がありました。「工科大学的な性格が濃厚になるにつれ、絵画教室の位置は相対的に隅に追いやられた。この状態を予見していたパウル・クレーは、まだマイアー在任中の1930年夏、デュッセルドルフ美術学校の絵画教室より招聘の話があったとき、そちらの方が自由が得られると判断し、転任を決意した。~略~1920年以来十年余の間、クレーは生涯の最も実り多き期間を、バウハウスでの教育に注ぎ、それがバウハウスに与えた影響は計り知れないものがあった。」やがてナチスの時代に翻弄されるバウハウスの運命があり、閉鎖を余儀なくされていきます。「重大な理由はナチスがバウハウスを国際主義の根城、そしてユダヤ人の巣窟とみなしたことであった。バウハウスには教師にも学生にも外国人が比較的に多かったのは事実であり、彼らによって不偏不党の自由な雰囲気が保たれていたが、これがナチスの気に入らなかった。~略~いずれにせよ以上の極めて蓋然的な理由から、国家主義・反議会主義・反ユダヤ主義を標榜するナチスにより、バウハウスは目の敵にされたのであった。」バウハウス閉鎖に至る過程でミースが努力したこともありました。「市より給料が支払われ、バウハウスに所属する権利がすべて譲渡されるというこの案は、何といってもミースにとり有利な調停であって、これはひとえにヘッセ市長の尽力によるところ大であった。他の教師たちもそれぞれ当分従来通り市より給料が支払われることになり、市からの補助金八万マルクと校舎こそなくなったが、何とか私立の研究所として継続する最低の保証は確保された。」これよりバウハウスはその名称を維持してベルリンへ移転していきます。
2022.01.24 Monday
「バウハウス-歴史と理念」(利光功著 株マイブックサービス)の「第六章 デッサウのバウハウス その二 ハネス・マイアーの時代」をまとめます。グロピウスの後任として建築家ハネス・マイアーがバウハウス校長に着任します。「マイアーの職務は、言うまでもなくまずグロピウスの理念を継承し、バウハウスの健全な発展を計ることにあった。そして実際に彼は基本的にはグロピウスの精神とその築いた路線を受け継いでいったと言える。」その路線とはどのようなものだったのでしょうか。「もともとバウハウスは機能を軽視するどころか、むしろ基本的には機能主義の立場をとっていた。ところが機能的形態を追求するうちに、あらゆる装飾を排した単純で直線的な形態に到達し、そこで生産されるすべての製品がバウハウス様式と呼称される独特の印象的スタイルを獲得して、これが一つの流行を作り上げるまで世間に喧伝されていた。」マイアーは都市計画の建築に特化した教育体制を作りましたが、グラフィック・デザイン分野でも新しい動きがありました。「すなわち企業が宣伝のために行う展覧会や陳列展は、それまではいわばいい加減に行われていたのであるが、(ヨースト)シュミットは、展示パネルの大きさや配列、タイポグラフィや間仕切りにさまざまな工夫を凝らすことにより、これを新しいデザインの領域として確立したのであった。」室内装飾にも新しい動きがありました。「(アルフレート)アルントの時代の壁画工房の仕事として特記すべきは壁紙のデザインである。これは1929年から壁紙製造のラッシュ兄弟会社の勧誘と委託によって始められたのであるが、現代の住宅にふさわしい壁紙装飾を手軽に行う一手段として人気を呼んだ。」芸術性を排除したバウハウスでしたが、矛盾することもありました。「親方や学生の絵画制作はいわば余技とみなされていたのである。しかるに芸術趣味を認めぬ機能主義者マイアーが芸術教育を公認したのであって、これはマイアーにとって明らかに自己の信条に反する行為であったはずである。何故このような矛盾的行為が行われたのであろうか。恐らく自由な芸術創作を行いたいという学生の要求、さらには芸術教育の必要性を説くクレーやカンディンスキーの意向を取り入れたということであろう。」やがてマイアーの解任がありました。「確かにマイアーは特定の政党に属してはいなかったが、しかしマルクス主義者であることを公言していたし、バウハウスの共同作業の無名性に満足し、バウハウスをプロレタリア化することが時流にかなった改革とみなしていた。このような強い政治的関心の持主であったから、学生たちの政治運動にも寛大であった。」このような姿勢が市会で疎まれたのではないかと思います。