2021.11.11 Thursday
昨日、神奈川県立近代美術館葉山で開催されている「香月泰男」展に行きました。そこに展示されていた「シベリア・シリーズ」全57点は、圧倒的な迫力を持って私の心を捉えました。画家は大戦中にシベリア抑留生活を体験して、これを連作にまとめたものが「シベリア・シリーズ」です。ところが初めから連作にする意識がなかったことが図録の文章より分かりました。心に刻んだ印象をその都度画題にして描き溜めたものを、その後になって体系化を図ったようです。「(美術評論家の)針生一郎は、今日『シベリア・シリーズ』として括られる57点の絵画作品が生まれる過程を『追憶の底に悪夢のように凍結された映像を、ピアノの鍵盤をあちらこちら叩くように掘りおこしながら、同時にそれを極限まで純粋化、結晶化してゆく過程』と評している。欧州滞在を契機に、絵画の主題として香月のなかに浮かび上がってきた戦争と抑留の体験であったが、どの鍵盤を叩けば音が出るのか、そしてそれが美しい音であるかを画家は知りようがなかったであろうし、ましてや個々の音を繋げてひとつのハーモニーを奏でることなど意識にはなかった。~略~このときまでのシベリア・シリーズは、画家が『描きたいモチーフを、内発する衝動にまかせて夢中で描いていった』結果生まれたものであり、そのため描かれた主題と描いた順番には脈絡がない。また応召から従軍、抑留を経て復員までをひとつの物語と見たとき、例えば応召や入隊の主題を描いた作品が1967年の時点では1点もないのに対して、収容所での生活を扱ったものが多いなど、主題に偏りがあった。シリーズとしての精度を高めるためには、足りない部分を補う必要があり、ゆえに1967年以降に描かれた作品の主題の選択には、シリーズ全体の体系化や整合化に対する意識が反映されている。」(萬屋健司著)ひとつの主題を画業として完成させるなら体系化は必要だと私も思います。訴えたい内容に厚さと重さを齎すからです。とりわけ巨大な外部刺激が画家の生涯を変えてしまうような事件であればなおさらです。私たち鑑賞者の多くは「香月泰男」展に「シベリア・シリーズ」を見にきていると言っても過言ではありません。それほど心を抉られる強い表現がそこにあるからです。
2021.11.10 Wednesday
今日は工房での制作を休んで、家内と神奈川県立近代美術館葉山に「香月泰男」展を観に出かけました。生誕110年という節目に初期から没年までの作品を概観できるとあって、私は必ず本展に行こうと決めていました。画家香月泰男は自分の学生時代にその名を知り、画業である「シベリア・シリーズ」の一部を、当時どこかの画廊で見た記憶があります。その頃、彫刻を学んでいた自分は、「シベリア・シリーズ」に描かれた重厚な墨色の背景と、骨太な顔が幾重にも並ぶ画面に釘付けになりました。私は彫刻と並行して木版画を試していました。それはドイツ表現派に代表されるケーテ・コルヴィッツのモノクロ版画に触発されて、自分も拙い表現をやっていたのでしたが、香月泰男の世界観はそんな私を吹き飛ばし、「シベリア・シリーズ」の真摯な表現がコルヴィッツのそれに繋がるものとして認識できました。戦争の尋常ならざる体験が生み出した人間の存在を問う世界。精神が究極に追い詰められていなければ到達できなかった深遠な表現世界は、平和な時代に生きた私にもズシリとくるものを齎せたのでした。シベリア抑留生活の体験は、前に横浜美術館で開催された画家宮崎進の画業からも放射されていたもので、表現は違えど主張する根拠は同じだろうと思えました。芸術家の生涯の中で、想像を絶する悲惨な体験があれば、芸術家はそれを表現せざるを得ないのです。しかもどうこの惨事を伝えるか、自分に問いかけ、その表現を探り、やがて具現化していくのですが、「シベリア・シリーズ」にはピカソの「ゲルニカ」と同じ象徴化も見受けられました。シベリア抑留生活の体験は、写実的な具象表現では伝わらないと画家は判断したのでしょう。訴えるものの強さが具象を超えていくと、本展を見て私は感じました。私は図録を購入したので、画家香月泰男の研究された背景をさまざまな人の論考から学んで、再度別稿を起こしたいと思います。
2021.11.09 Tuesday
先日から聖像画家山下りんの生涯を描いた小説「白光」(朝井まかて著 文藝春秋)を読み始めていますが、あれ?っと気づいたことがあります。私は以前のNOTE(ブログ)に山下りんを知らなかったと書いていますが、確かに教職に就いて間もなく、私は夏休みを利用して2週間以上も北海道を旅行して、そこの正教会で山下りんの作品を初めて見ました。東京湾からフェリーで自家用車を運び、安宿に泊まりながら道内をのんびりドライヴしたのが、私にとって最良の思い出になっていて、森に囲まれたハリストス正教会で見た聖像画は不思議な光に満ちていました。おそらく森の中の正教会は上武佐ハリストス正教会だったかもしれません。その後になって私は山下りんのことを調べたのでしょうか、当時はネット情報を得ることもなかったのですが、「白光」を読む前から、私は山下りんがロシアに留学していたことを何となく知っていました。自宅の書棚を見ていたら、薄めの文庫本が見つかりました。小田秀夫著「山下りん」で、副題に「信仰と聖像画に捧げた生涯」とありました。ひょっとしてこの文庫本は正教会か、あるいは旅先の書店で購入したものかもしれず、北海道旅行の後で私はこれを読んでいた可能性があります。ほとんど記憶にないのですが、そうでなければロシア留学のことなど私の頭になかったはずです。古い文庫本を捲ると、こんな文章に目が留まりました。「(山下りんの)三歳年上の兄重房と、四歳年下の弟峯次郎の兄弟があり、弟峯次郎はやがて出て母の実家である小田家を継ぐこととなる。~略~筆者は峯次郎の孫に当る。」つまり著者は山下りんの親戚になるわけで、その筋の人たちから山下りんに関わる情報を得て本書を書き上げたのでした。山下りんの自筆履歴の書き出しにこんな文章があり、本書にそのまま載せています。「余生来画を好む然共郷里に良師無くむなしく過る」つまり、私は元々絵画が好きだけれど故郷に良い先生がおらず虚しい時を送っている、という意味で、山下りんの胸中を物語っている文章です。本書はドキュメンタリーであるため、事実しか記述がなくドラマ性がないと思っています。私は本書で確認しながら、楽しんで小説「白光」を読んでいこうと思っています。
2021.11.08 Monday
RECORDは一日1点ずつポストカード大の平面作品を作る総称で、文字通り毎日のRECORD(記録)なのです。毎月テーマを決めて制作していて、今月のテーマを「断絶を繋ぐ」にしました。断絶とは受け継がれてきたものが絶えること、結びつきや関係が切れること、また執着を断ち切ることなどの意味があります。先週、実家の遺品整理をして、過去の自分の気持ちを断ち切ってきました。断絶とは少し意味合いが異なりますが、自分は先祖から受け継いだものを別のカタチで伝えていきたいと思っています。表面上は親の世代とは明らかに断絶をしているように感じますが、断ち切れないものもあることも分かっています。そうしたものをRECORDとして視覚的に表現することはなかなか難しいかなぁと思いながら、断絶したものを方策をもって繋いでいくことを、私は考えていきます。私個人の話は小さなものですが、これが国家となるとスケールが変わってきます。最近気になっているのは隣国との関係で、お互いの主張が異なるために関係修復が出来ません。私は日本人なので、日本側の主張はよく分かります。一度けじめをつけたものに難癖をつけてくるのなら放っておけばよいという発想も分かります。なかなか断絶を繋ぐことになりませんが、こうした距離を持って接することもバランスを保つためにも有効かもしれないと思っているところです。人間関係が絡むと断絶を繋ぐのは容易ではないと思っていて、お互いの信頼を勝ち取ることは、今後断絶を生まないために必要不可欠なことだろうと思います。こうした心理状況を視覚的に描くことは難解この上ないことですが、拙い表現でも精一杯頑張ってみようと思っています。
2021.11.07 Sunday
「陶紋」シリーズは毎年個展に数点ずつ出品していて、今年の夏の個展では56番から59番の作品を展示しました。「陶紋」は通し番号をつけていて、私の作品の中では小品の部類に入ります。ギャラリーせいほうの白い台座に乗せて展示していて、値札が分かりやすいところに置いてあります。「陶紋」シリーズは売れた作品もあって、通し番号には欠番もあるのです。今日からその「陶紋」シリーズの新作を作り始めました。来年出品をする大規模作品や中規模作品の流れで「陶紋」も作っているので、表現は同じものになりますが、集合彫刻ではなく単品で見せる作品なので、大規模作品や中規模作品とは制作意識は違っています。どのくらいの数の作品が完成するか分かりませんが、1点ずつ丁寧に作っていこうと思っています。また「陶紋」シリーズの撮影には、さまざまな環境を用意していただいていて、カメラマンにとっても刺激剤になっているのかもしれません。今年の夏の作品も、野外での光と影を取り込んだ写真として見たら秀作ではないかと私は思っています。作品以上に画像が何かを語ってしまうことに私も嬉しさを感じます。また過去には砂浜や水に沈めた状況を撮影したものがあって、その面白さは大規模作品の比ではありません。しかしながら「陶紋」の制作では撮影のことまで考えずに、純粋に形態のことだけ考えて作っているのです。カメラマンの視点に私がふいを突かれて感動するのは、私の発想にない形態感の捉えがあるからだろうと思います。小品の制作は長く作業台の前で座ることを止めていて、立ち止まりながら考え、また眺める時間を増やしています。今日は家内の用事でちょいちょい工房を出入りしましたが、小品の制作にはちょうど良いかなぁと思いました。明日も継続です。