Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

  • Tag cloud

  • Archives

  • 週末 写実表現について考える
    日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。先日見に行った「髙島野十郎展」は、生涯を通じて精緻な写実絵画を描いていた一徹な画家の作品を通じ、写実とは何かを自分に問いかける機会を持ちました。私も高校生の頃から写実表現を学んできました。それは美術系の大学における受験用デッサンを始めたことが契機になりました。見た通りに描くことが大変な困難を伴うことを、その頃は身に沁みて感じましたが、大学に入ってからも師匠から空間に粘土でデッサンをするように彫塑をすることを教えられ、私が写実を究めたいと望む期間が10年近くも経っていました。海外の美術学校でもそれは継続し、それが完遂できないまま、私は写実表現そのものに疑問を抱くようになりました。日本で習った師匠も具象彫刻ではあるけれど、写実描写を取捨し、量感を削り取ったところにあるリアルを追求していました。海外の作品でも写実を超えたリアルを感じるものがあり、それは一体何なのか、多種多様な表現が齎す存在感を私は見つめ続けてきました。20世紀に写真術が発明されてから、絵画は写実という説明要素から解放されましたが、それでも人が眼で見てその事象を描き切る写実表現はそれなりに残ってきました。表面を写し取る映像とは違う奥深さを追求する絵画表現は、私たちの心に迫るものであり、それは「髙島野十郎展」で感じた趣向そのものでした。そこに作家自身が達成感と満足を覚えれば写実表現でも続けられるものを、私は写実ではないものを考えるようになり、しかも物語性をも排除してしまいました。ものはモノであるという、物質に対する始原的な考え方に立脚すると、実際の空間に広がりを感じるようになり、人が芸術とは別の目的で建造したモノや地下に掘り込んだモノに面白みを感じてしまったのでした。それは写実表現ではないと思いますが、抽象表現と呼ぶのには些か躊躇します。ともあれ、写実表現ではない方向に舵を切った私は、それに代わる存在を求めて作品化を図っているのです。
    週末 天候急変が印象的な1週間
    週末になりました。定番として土曜日は今週の振り返りを行ないます。今週も相変わらず毎日工房に出かけて行って、陶彫制作に精を出していました。猛暑も相変わらずでしたが、その気候にも身体が慣れてきて、汗を滴らせながら陶土に向かい合っていました。先月から一日も休まず制作を続けているため、疲労が蓄積しているような気がして、何か身体に大きな異変が生じる前に休息を取ろうと思っていました。木曜日は家内も演奏活動がなく、一緒に休めることが分かったので、やや遠方の美術館へ行ってみようと計画を立てました。千葉県立美術館で開催している「髙島野十郎展」は誠実な写実絵画が見られるとあって、そこに行くことが楽しみになっていました。美術館では写実表現について、あれこれ考えることがあり、私には充実した時間がありました。髙島ワールドに触れて心の平穏を保つことができ、満足を覚えました。夕方になって私たちはゆっくり横浜に帰ることにしました。その帰り道に天候急変があり、首都高速を走る私たちが冠水した道路をすり抜けていく危機に陥りました。3車線あった道路が規制されて渋滞が発生し、おまけに水をかき分けて走っていた時は、ここで立ち往生したらどうしようという思いが頭を巡りました。大井南から羽田空港にかけては内心ヒヤヒヤしていました。実際にテレビ報道で見る光景にリアルに遭遇したらこんな感じなのかと思いながら、スマホの情報を頼りに車を走らせていました。今週は何と言ってもゲリラ豪雨に遭遇したことがインパクトが強くて、これはどんなに予防をはろうが、その場での危機管理の判断を強いられるのだろうと思います。日本は災害大国で、こうしたことに地球温暖化の影響を受けるのでしょう。首都高速の路肩を道路公団の車がパトロールをしていて、その対応の素早さも目に入りました。冠水箇所で働いていた人たちに感謝をしながら、私たちはその場を一刻も早く過ぎ去りました。
    千葉の「髙島野十郎展」
    昨日、千葉県立美術館で開催している「髙島野十郎展」に行ってきました。以前に蠟燭の炎を描いた作品を私は見たことがありましたが、まとまった作品を見たのは初めてでした。画面の隅から隅まで丹念に精緻な写実で描かれた風景や静物や人物像などに、作家の世相に左右されない硬派な性格を感じ取りました。写実表現の宿命ですが、技術の巧みさに驚いていたにも関わらず、見慣れるとその不変のスタンスに印象が薄くなってしまう事実もあります。しかしながら、こうまでして写実に打ち込めたのは作家が仏教思想に共感していたことに関係があるのかもしれません。その数多い作品群の中でも、私にとっては月や蝋燭を描いたものが写実の奥に潜む思索が読み取れて、興味が湧きました。その背景を知りたいために図録を求め、そこに記載されていたことに注目しました。「野十郎はとくに晩年において月の作品を手掛けたが、最初は月夜の風景を描いていたのが、次第に絵から風景が捨象され、最後には本作《月》のように闇に浮かぶ満月という究極の表現に至った。月を盛んに描いたのには、仏教的な関心があったことは間違いない。野十郎によると、月は観音様の生まれ出る穴だという。円相を想起させる、余計な要素が一切含まれない満月の絵は、『慈悲』をめぐる野十郎の仏教的な思惟の最終形態であったと思われる。~略~『蝋燭』は、野十郎芸術を最も象徴する作品であり、生涯飽くことなく描き続けられたものでありながら、個展などでは決して発表されず、お世話になった人や友人に贈られていたという。蝋燭自体が仏教的な意味合いのある主題であるが、それを贈るという行為が、仏教でいうところの献灯の儀を想起させる。決して消えることのない永遠の炎を描きたかったのか、あるいは炎が消える最後の瞬間を描いたのか、想像は尽きない。」(高山百合著)写実表現は眼に見える事物を巧みに描くだけで、一般の人から見れば分かり易いし、また評価もされるのですが、難しいところはその表現の背景に思索的なものがあるかどうかで、作品が印象に残るかどうかが決まるように思います。本展では月と蝋燭がその深遠さで際立っていたように思います。
    首都高速の冠水をすり抜ける
    今日は久しぶりに家内と千葉県にある美術館に行くことを決めていました。8月は31日間、自宅と工房の行き来に終始し、ほとんど休みをとっていなかったので、今日は朝から美術館での展覧会鑑賞で一日を楽しもうと思っていたのでした。行こうとした展覧会は千葉県立美術館で開催中の「髙島野十郎展」で、先日のNHK日曜美術館で取り上げられていて、画面に映し出された骨っぽく隅々まで緻密に描かれた写実絵画を見たくなったのでした。私は美術館に行くのも久しぶりなら、写実絵画を見るのも久しぶりでした。朝は晴天で首都高速から東関東自動車道を快適に車で走りました。千葉県立美術館へは初めて行きましたが、分かり易いアクセスだったので昼頃に到着しました。テレビ放映の影響か平日にも関わらず、美術館には多くの人が訪れていました。展覧会の内容は後日改めて述べたいと思いますが、美術館からの帰途で、所謂ゲリラ豪雨に遭ってしまい、よく報道番組で出てくる冠水した道路を走り抜ける危機に陥りました。千葉の浦安あたりで曇り空になり、雨がぽつぽつ降り始めました。私たちが向かっている横浜方面は黒い雨雲に覆われて、雷も響いていました。そのうち雷鳴が轟き、大粒の雨が降ってきましたが、高速道路は地上より高い位置にあるので、まさか冠水することはないと高を括っていました。ところが首都高速の大井南あたりで何カ所か冠水箇所があり、道路規制が行われていました。まさかと思いましたが、滝のような豪雨の中で立ち往生したらどうしようと頭を過りました。家内はスマートフォンの天候情報を見ていて、もう少しで豪雨が過ぎ去ると言っていて、その情報を頼りに車を走らせていました。道路規制で幾度か渋滞をしましたが、何とか横浜まで帰ってきました。ゲリラ豪雨の恐ろしさを改めて体験しました。横浜はすでに雨も止んでいて、雲の間から薄日が差していました。快適にドライブするはずが、危機に遭遇する状況があり、無事に帰れた時には安堵しました。
    「ミケランジェロ」について・10
    「芸術家列伝3」(ジョルジョ・ヴァザーリ著 田中英道・森雅彦訳)の「ミケランジェロ」について、幾つかに分けて気に留まった箇所をピックアップしていきます。ミケランジェロの最晩年に関する記述が多く、著者ヴァザーリとの関わりが濃厚だったことがよく分かります。「サン・ピエートロ寺建造に、ミケランジェロは17年間費やした。そして、なんども監督たちは彼から支配権を奪おうとした。それが成功しなかったので、彼らは今度はこの手、今度はあの手と、あらゆることで彼をおさえつけ、彼がすでに年老いてなにもできず、困惑して引退するよう計った。そこには監督官としてチューザレ・ダ・カステル・ドゥランテがいたが、このころ彼が死んで建造工事が進んでいなかったので、ミケランジェロは適切な人物を見出すまで、若手だがたいそう有能な人物であるルイージ・ガエータを派遣した。監督たちの一部はなんども、ナンニ・ディ・バッチョ・ビージョを置こうと画策した。ナンニが彼らをせきたて、さまざまなことを約束したからであった。そして建造仕事で自分勝手に采配を振るうことができるよう、彼らはルイージ・ガエータを解雇してしまった。ミケランジェロはそれを聞きつけていささか腹を立て、もはや建物のほうには出向くまいと思った。それで彼らは、彼がもはや能力がなく、代わりが必要である、もうサン・ピエートロ寺には関わりたくないと言っていた、と吹聴し始めた。すべてがミケランジェロの耳に入った。~略~彼の死の1年ほど前、ヴァザーリはひそかに、コージモ・デ・メディチ公がその大使のアヴェラルド・セㇽリストーリ氏を介して、法王に働きかけるよう奔走した。ミケランジェロがたいそう衰弱しているとわかったので、周りにいる者や彼の家に働いている者の、より熱心な世話と気づかいを必要としたからである。また、老人にありがちな、なにか急な事故でも起こったら、衣類、素描、カルトン、模型、金、その他、彼の持ち物一切は、死の際には財産目録に記され、サン・ピエートロ寺建造に供するよう保管される用意が必要とされたからである。もしサン・ロレンツォ寺聖具室や図書館、正面のために、なにかそれに関わるようなものがあっても、よくある持ち去りがないようにするためであった。この配慮はやはり有益であった。すべて最後には実行されたからである。」今回はここまでにします。