Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

  • Tag cloud

  • Archives

  • 「発掘~盤景~」砂マチエール開始
    新作「発掘~盤景~」の木材による土台加工がまだ完全に終わっていませんが、出来ている土台に今日から砂マチエールを施す作業を開始しました。砂マチエールは20年以上前の私のデビュー作品「発掘~鳥瞰~」からやっている表面処理です。実は陶彫が技術的に出来なかった頃には、その時のイメージを油絵で表現していましたが、その油絵にも砂マチエールを施していました。硬化剤で砂を貼り、その上から油絵の具を滲み込ませ、表面をザラつかせる効果として用いていました。その砂マチエールを施した画面と陶彫部品の組み合わせが面白いと感じたのは「発掘~鳥瞰~」からで、それから積極的に砂マチエールを使うようになり、現在では自作の特徴を成しています。砂マチエールはさまざまな画材店が扱っており、私は東京神田の「文房堂」のものを取り寄せています。理由として砂マチエール用の硬化剤が「文房堂」しか扱っていないということが分かって、東京神田の本店から大量に郵送してもらっているのです。そもそも木材を砂で覆うのはどういうことか、しかもさらに油絵の具を滲み込ませ、その上から油絵の具を振りまいて、言うなればアクションペインティングのように偶然の効果を狙っているのは、私が素材の変容を求めていることに尽きます。出来上がった作品を鑑賞した人に、これは木材だと言わなければ、素材に気づかない人もいます。陶を陶として見せる、木を木として見せる、時には木を焦がして炭化させた状態で見せることを私はやってきましたが、同時に素材の特徴を消して変容させて見せることも、イメージを具現化する上で必要な処理だと思っています。「発掘~盤景~」の砂マチエールは今日から開始して、来週には油絵の具を滲み込ませる予定です。新作が完成に向けて佳境を迎えています。
    「形態と色彩の新しい概念」について
    「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の「第二部 ゴーギャンの立体作品」の中の「第3章 彫刻的陶器への発展と民衆的木彫の発見(1887末~1888末)」に入り、今回は「2 形態と色彩の新しい概念」をまとめます。「マルティニークでの経験が絵画において印象派との断絶を促進し、装飾的様式と総合主義的傾向を固めていったように、陶器においてもブルターニュに取材した牧歌的な主題が減少してエグゾティックなモティーフが登場するとともに、装飾要素はもはや器の表面に付加されるのではなく器と一体となって、全体である種の喚起力をもつものとなった。」冒頭の文章で述べられているように、いよいよゴーギャンが印象派を超え、新たな世界を手に入れていく過程が、絵画のみならず陶器や彫刻でもあったようで、とりわけ本書は、ゴーギャンの立体作品を中心とする論考だけに私の興味は尽きません。本書は幾つかの陶器を手がかりに、ゴーギャンの歩んだ革新性の道を辿っていきます。ゴーギャンの向かう道は、器としての用途より、創作性を重んじており、肖像が彫られた壺や彫刻的な装飾を付加した器など、陶器より彫刻への移行が感じられます。その中で本書に取り上げられている「鳥と女神のいる熱帯の植物の形をした花瓶」について、著者の論じた部分を引用いたします。「装飾モチィーフとして、片面にはブルターニュの鵞鳥が一羽入念な塑像浮彫で表され白いスリップがけが施されている。その上には器の形に沿って木の枝が十字型を形成するように表されている。反対側の面には、足の部分が壺に埋まった(あるいは壺から現出するような)女性像が浮彫で表されており、そのポーズはカンボジアの仏教寺院の女神像『テヴァダ』に由来する。しかし頭部はカンボジアの女神の豪華な装飾はつけていず、マルティニークの女性に近い。~略~この独創的な花瓶はこのように、植物モティーフや動物、十字架の形、そして仏教図像を借りた『木に宿る女神』から構成されている。これらを総合するなら、そこから西洋的でも東洋的でもある聖性、そして自然の中に宿る聖なるものの意味が浮かび上がる。」
    「発掘~盤景~」と「構築~視座~」について
    今年の7月個展に出品する新作のタイトルを「発掘~盤景~」と「構築~視座~」とつけました。「発掘~盤景~」は発掘シリーズとして私の作品の中核を成すもので、陶彫部品を組み合わせる集合彫刻にしています。デビュー作品である「発掘~鳥瞰~」から20年以上もこの連作を続けてきました。20代の終わりに5年間続いた海外生活にピリオドを打って、日本に引き上げる際、エーゲ海沿岸の古代遺跡を見て廻りました。その時受けた啓示が作品イメージの源泉となり、現在も連作として続いているのです。陶彫という技法に取り組んだのは、古代遺跡のイメージを具現化するためでした。日本には陶芸に関する長い歴史があり、各地に窯場がありますが、そんな豊かな環境にあっても焼成を伴う陶の扱いは難しく、当初は何度も失敗を繰り返していました。現在読んでいる「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)にこんな文章があります。「ゴーギャンは素朴で鄙びた味わいをもつ民衆的な素材である炻器の粗い表面と硬く焼き締まったプリミティフな感覚を好み、これを生かすために機械的手段である轆轤は用いず、時には紐状の陶土を巻き上げる『紐作り』の技法によって、時には板状の陶土を貼り合わせる『板づくり』の技法によって立体を成形した。」これによると私が夢中で取り組んでいる陶彫を最初に始めたのは、20世紀初頭の画家ゴーギャンだったようで、私が西欧との関わりから陶彫に辿りついたのは、あながち偶然ではなさそうです。「発掘シリーズ」は、地中から掘り出された発掘現場を見て、埋没している部分と地上に現れた部分を空間の座標として捉えたものですが、地上に完全に立ち上げたものを、「構築シリーズ」として始めたのは2009年に発表した「構築~起源~」からです。これは主に木彫を用いて制作してきました。今夏発表をする「発掘~盤景~」と「構築~視座~」は、2つの異なるシリーズを併置いたします。私の空間に対する思考が行きつ戻りつしている状況を見せることになりますが、ひとつの要素を突き詰められない不安が私の内面にあることも確かです。先行きが見えない世相が多少なりとも反映している証かもしれません。ただし、創作活動は内面に篭って思索することが多く、コロナ渦の中でもモチベーションは保っていられるのです。
    「マーク・マンダースの不在」展の図録から
    先月の13日(火)に東京都現代美術館で見た展覧会の図録が郵便で送られてきました。展覧会についての自分の感想は既にNOTE(ブログ)にアップしていますが、「マーク・マンダースの不在」展について、自宅に届いた図録から文章を拾ってみたいと思います。図録には4人の執筆者がいました。一人はマンダース自身で、作家自らが語る個々の作品解説がありました。ただ、これは平易な解説ではなく、詩や思索に富んだもので些か難解な箇所もありました。残り3名の論考についてはここに引用させていただきます。「マンダースが『自画像』という言葉で探求しているのは、ヨーロッパ的主体による自己表現でも既成の知識の体系への従属でもなく、動植物や物が生存のために必要な進化をとげるうちに無駄のない形態や構造や機能を獲得したように、自分にとって良いと思われる『進化』の形を見出すことではないだろうか。~略~マンダース自身が現象世界に生きて制作していることの証に、彼の精神と身体の均衡は常に変化する。それに伴って彼の彫刻も進化を続けるのだ。幾つものイメージが繰り返し使われ、数年をかけて完成されたり、別の作品に組み込まれたりして、変容を続けている。そして近年は、彼のアトリエを土台としたインスタレーションのような、制作過程を暗示する展示を通して観客の身体感覚の拡張の可能性を広げている。観客は、呼び交わすイメージの森に彷徨いながら、そこで見つける繋がりや意味の断片が彼ら自身の精神の自画像を想起するきっかけとなるのを感じるだろう。」(松井みどり著)また外国の学芸員からこんな文章が寄せられていました。「彼は作品を通して、われわれが通常の理解の範疇で想像する世界よりはるかに詩的な、真の現実を垣間見せてくれる。彼の手にかかれば、彫刻の素材は筆記用具、いやむしろ世界を成り立たせる物質的な詩学を形成する語彙と文法の構成要素となる。マンダ-スにとって、言葉と世界は分かつことができないものなのだ。」(ダグラス・フォーグル著)最後に展覧会企画をした東京都現代美術館の関係者からの文章です。「自画像はしたがって文字通り姿かたちを表すものではなく、『精神の自画像』と呼ばれる。物によって自身の思考や身体、その輪郭を探ることー作家は、その精神や思考を探るため、1986年からこの架空の建物に『居住』し、作品を作り、その場を去っていく者として、自分と同じ名を持つ架空の芸術家『マーク・マンダース』を措定する。いわば作家自身が架空の自分を行為させ、作品をもってその自画像を組み立てるという構造である。」(鎮西芳美著)
    週末 小品「陶紋」に取り掛かる
    毎年、夏の個展には大作の他に小品を作って展示しています。数年前から「陶紋」と名づけていて、カタチはいろいろパターンがありますが、シリーズとして通し番号をつけています。全て陶彫作品なので、図録用撮影日から逆算すると、そろそろ「陶紋」を作っていかなければ、陶彫には乾燥期間があるので、間に合わなくなる可能性があるのです。今日は木彫の作業を休んで、小品「陶紋」に取り掛かることにしました。今回の「陶紋」の基本形は直方体で、新作として現在作っている陶彫作品に繋がるものです。全部で4点用意できるかなぁと思っています。前述の通り乾燥期間を考えて、今日から作ることにしたのですが、今日は毎週来ている美大受験生の他に、美大でグラフィックデザインを専攻している学生も来ていて、騒音を発する木彫は一旦休むことにしたのでした。何しろ木彫はチェンソーで木屑が埃のように舞い上がるし、丸鑿で木っ端が飛んでいくので、騒音以外にも迷惑な行為が多いため、他者がいない時間にたった一人で作業することに決めました。若い子たちがいる時は、静かに作業できる陶彫を選びました。今日来ていた教え子たちが図録撮影や個展の搬入搬出も手伝ってくれるスタッフなので、私にとっては大切な仲間です。工房でそれぞれが気持ち良く制作できるように配慮したわけです。私は久しぶりに陶彫に向かい合いました。陶土は慣れているため、すぐに手に馴染みました。単純で簡潔な形態に、いかに彫り込み加飾を施すべきか、悩みながら陶土を削っていきました。これは立体の仕事というより平面的な細工です。ただし、表面に微妙な凹凸を加えることで、陰影が現れてきて「陶紋」の存在感が出てきます。これも面白い世界だなぁと改めて感じました。サイズが小さいからと言っても、手間がかかることは大きな作品と大差はないというのが実感です。しかも今日は既に乾燥した陶彫部品に仕上げや化粧掛けを施して窯に入れました。夕方になって彼女たちを車で送る時に、窯のスイッチを入れて焼成を開始しました。明日は工房の照明は使えず、別の作業を考えようと思います。