2016.03.28 Monday
「夢解釈」(フロイト著 金関猛訳 中央公論新社)第六章「夢の仕事」の(g)「夢におけるさまざまな情動」のまとめを行います。暫く「夢解釈」から離れていたので、再度ざっと読み直して、要点になる箇所にラインを引きました。夢の情動発現はどんな状況で起きるのか、本文より引用いたします。「覚醒時の思考においてならば、ある表象内容によって、一定の情動作用が惹き起こされるのは必定だと私たちは期待する。しかし、夢では、そうはならない。~略~つまり、情動の放散のきっかけにはなりそうにない内容であるのに、強烈な情動発現が起こることもある。」覚醒時に恐怖や嫌悪を感じる事態でも夢はそうならず、逆に無害なことに夢で恐怖を覚えることがあることを言っています。「抵抗による検閲の影響を被った心的複合体において、情動は検閲に抗う部分である。そして、私たちにとっては、この部分のみが正しい捕捉をするための手がかりとなりうる。精神神経症では、夢におけるよりもずっと明瞭にこの関係が明るみに出る。」フロイトは精神医として、夢の分析に取り組んでいました。最終的にはそれを医療に生かすことが目的だったと改めて思います。本文ではいくつかの事例を載せ、そのつど論考を加えています。「取り消し、減衰、逆転の行程が複数に絡み合って、ついに夢の想念の情動から夢の情動が生成する。こうした複雑な絡み合いは、完全に分析された夢の適切な統合においてうまく概観できる。~略~私は、夢自体の中で、それにともなってしかるべきおぞましさを感じていない。これは複数の意味での欲望充足である。~略~同じ情動を供給しうる複数の情動源泉が集結し、夢の仕事がなされる際にその情動が形成されるようにするのである。」細かな説明を省いて、本文の引用をすると、意味が通じなくなることもあり、後で読み返すと何のことやらわからないのですが、自分なりにまとめをして先に進めたいので、敢えて要所だけ取り出させていただきました。
2016.03.27 Sunday
五十肩になってから暫くスポーツをやっていません。以前は近隣のスポーツ施設へ行って水泳をしていました。まだその施設の会員のままでいますが、会費を収めても1年以上放ったままでいるので、休会するか止めるかしようと思っていました。五十肩は次第によくなってきていますが、まだ腕を回すと痛みがあって、水泳は無理だろうと思っています。今日は朝から工房で制作をしていましたが、昼ごろスポーツ施設に久しぶりに行って、1時間程度水中ウォーキングをしてきました。最近筋肉が衰えているのではないかと感じていたので、肩に負担のない水中ウォーキングなら大丈夫と考えました。これはなかなかいいかもしれません。大股で歩いたり、腿上げをして軽く走るようにして歩いたり、後ろ向きに歩いたりして、何回か繰り返すうちに僅かに汗が出てきました。これなら継続できそうです。施設から帰って、再び制作に戻りました。それによって制作が滞ることもなく、寧ろ気分がよくなって効果的でした。ウィークディの精神的疲労、そして週末の陶彫の追い込み、RECORDやNOTE(ブログ)といった日々の取り組み、そんな日常の中で1時間の水中ウォーキングがストレス発散になれば幸いです。
2016.03.26 Saturday
週末になりました。ウィークディは来年度人事を巡って職員一人ひとりと面接を行い、交渉やら微調整があって精神的な負担を感じる日々を送りました。これが自分の役目なのだと割り切って、職員には私の立場で意見する場面が多く、職員一人ひとりから聞く苦しい事情はよくわかっていました。職場は来年度に極小規模になることがわかっていて、職員一人の抱える仕事量は他の施設に比べて圧倒的に多いのです。苦しい台所事情をわかってくれる職員もいて、何とか人事が固まってきました。まだ来週も非常勤職員との面接が残っていて最終調整が続きます。そんなこともあって、週末になると疲労が出て、なかなか創作活動に気が向かないのです。先週もそうでした。NOTE(ブログ)のタイトルを「疲労困憊 その2」としたのは先週と同じ気分になっていたためで、それでも制作工程を何とか進めていました。来週末は4月になります。新年度となって新しい人事が動き出しているはずです。来週末には元気が甦ってくれることを期待したいと思っています。新作の制作状況は、どう考えてもやはり遅れていると言わざるを得ません。毎年のことですが、遅れている制作工程を補うため、何とか最後に頑張って帳尻を合わせてきましたが、今回も苦しい綱渡りが続いている現状があり、結局今年も改善はされていません。毎年慣れているようで厳しいことに変わりはなく焦りを感じます。こんな時に次なるイメージがやってきていて、制作にどっぷり浸かっていたくなります。ともかく今日のノルマを果たし、明日へ繋げていきます。
2016.03.25 Friday
横須賀美術館で開催されている「嶋田しづ・磯見輝夫展」を見てきて、とりわけ大型木版画を制作していた磯見輝夫氏の作品に、自分の若かりし頃の思い出を重ねてしまうことがあります。20代の頃、自分は大学で具象彫塑を学んでいて、その傍ら大型版画を作っていました。畳大のシナベニアを使って、具象的な人物像を彫っていました。版画といえども複数摺るものではなく、たった1点のみの制作で、言わば版を使った平面作品となっていました。ドイツ表現派のK・コルヴィッツ、R・キルヒナーや棟方志功、そして磯見輝夫氏等に影響されて、壁画のような効果を木版画によって作り出そうとしていましたが、暫く時が経つと気に入らなくなり、版画や版木は全て廃棄してしまいました。手元に残っている当時の作品はありません。師匠である彫刻家池田宗弘先生が丁寧に保管してくださっている木版画による絵本が現存する唯一の作品です。あの頃、評価をしてくださったお礼に、先生に贈った手製絵本で、数冊あったうちの一冊です。この絵本はオーストリアのウィーンでも展示したことがあり、また国立ウィーン美術アカデミーで教壇に立っていた芸術家F・フンデルトワッサーにも見ていただいた記憶があります。自分にとって大型版画は何だったのか、若い時代の感情の吐露だったのか、消えていった表現を再び思い出す機会を持てたことに、複雑な感情が交差しました。昨年はワインのラベルを作成する機会を持ち、久しぶりに木版画に挑戦しましたが、当時熱病のように作っていた木版画とは明らかに意識が異なり、ザクザクと版を彫ることは出来ませんでした。これから版画を試みるとしたら、銅版画をやってみたいと思っています。自己表現の変遷とともに忘却の彼方にある大型版画。たとえ脳裏を横切っても自分はもう当時の表現はしないし、出来ないと思っています。
2016.03.24 Thursday
先日、横須賀美術館で開催されている「嶋田しづ・磯見輝夫展」に行ってきました。現存する画家・版画家の旧作から新作まで含めた大がかりな展示は、その作家の歩んだ道を達観できる良い機会でした。画家嶋田しづ氏は長年パリで暮らし、西欧の画壇の中で自己表現を培ってきた人のようです。図録によると海外生活での苦労を厭わず「サロン・ドートンヌ」に出品を重ね、キャリアを積んでこられたことが分かりました。抽象性のある形容しがたい構成と色彩は「キャンバスを前にして自然に湧いてくる」そうです。さらに「とにかくシンプルな空間とかたちを通して心の底のエスプリを表現したいのだ」と本人の弁が図録にありましたが、作品から豊かな世界が広がり、中間色の組み合わせが快く響いていると感じました。一方、モノクロの版画家磯見輝夫氏の大型木版画に、私は学生時代に多大な影響を受けました。図録によると私が当時憧憬の的であったドイツ表現派とは縁はなく、杉板に「彫り進み」という技法で直接挑んだことで、異界の世界に存在する女性像を表現するに至ったようです。「『彫り進み』の技法で制作してきて、摺りを重ねるということは間接的になりすぎる気がだんだんとしてきました。やはり木版は一版じゃないと駄目だと思って、少しずつそれに近づけていったのです。版の重なりの表現よりも、一版での力強さの方に興味が移りました。」という本人の弁が図録に掲載されています。木のもつ素材感を引き出し、原始的生命感を版画に宿す磯見流スタイルがここから見えてきます。展覧会をざっと見渡して、自分は女性像のいなくなった最近の木版画に興味を覚えました。集中する視点が曖昧になったことで、さらに微妙なニュアンスが感じ取られ、木版画は抽象とも具象とも説明のつかない不思議な空間に支配されていました。その美しさに感動しました。