2014.06.07 Saturday
今日は制作を休んで、東京の美術館を巡りました。見たい展覧会が重なっていたためで、結果今日一日で5つの展覧会を見ることになりました。家内と一緒でしたが、よく家内が何も言わず付き合ってくれたものだと思います。自分は学生の頃から展覧会や個展の梯子は得意で、一日十数軒のギャラリーを回った事があります。家内は一日2つ以上の美術展には行かないと日頃から言っているのですが、最近胡弓や三味線といった楽器を担いで東京都内を巡っているので、あるいは体質が変わったのかもしれません。ともあれ朝から夕方まで雨で電車が遅れる中、上野や外苑に出かけました。展覧会を羅列すると「バルティス展」(東京都立美術館)「新象展」(東京都立美術館)「ジャック・カロ展」(国立西洋美術館)「非日常からの呼び声」展(国立西洋美術館)「ルドルフ・シュタイナー展 天使の国」(ワタリウム美術館)です。「新象展」以外は詳しい感想を後日述べたいと思います。「新象展」は知り合いの画家が会員になっているので、毎回招待券を頂いています。彼の画風は朱と緑という補色を使った幾何抽象で、図形の繰り返しによるものです。モンドリアンから始まり、ライリーやヴァザレリといった完全なる抽象世界を継承する画風ですが、今年は直線が消え、曲線による何か生命体のようなパターンになりました。朱と緑を使っているのは同じですが、構成に蠢くような動きが現れていました。大画面を丁寧に仕上げる彼の仕事に敬服しました。
2014.06.06 Friday
今日は職場関係の仕事で小田原に出張しました。会議の後で、箱根寄木細工の若い職人さんから話を伺う機会がありました。寄木細工は当地の土産物として売られ、その幾何学模様のついた箱物は私も知っています。仕事の手間の割には、やや退屈な感じがして、あまり購買欲を刺激するものではないと思っていましたが、そうした売り上げの低迷から脱するべく、さまざまな試みが成されていることを、講演会を通して知ることが出来ました。伝統を次世代に繋ぐための試行錯誤です。プロダクトデザイナーと寄木細工職人グループがタイアップして行う国内外の展覧会、とくに注目したのはフランスでの展示で、日本の肌理細やかな美意識が、海外での評価に繋がっているように思えました。アーティストとのコラボレーションにも注目しました。伝統工芸を現代の生活空間に中で生かす方法は、今後も活発に行われていくのではないかと思います。
2014.06.05 Thursday
6月に入って真夏並みの暑い日が続いています。今日から雨模様になり、ようやく涼しくなったかなと思います。梅雨入りでしょうか。このところそんな気候のせいか疲労が取れません。職場の人たちも疲れているように見受けられます。一昨日の会議で、一人ひとりが上手に休憩をとるように職員全体に言いました。自分の直属の部下も腰が痛いと言っていました。自分は出張が立て込んで慌しい毎日を過ごしていますが、自分も休みをとりながら職場環境の改善に努めたいと思います。自分は夜になると筋肉が緩んで動けなくなります。このNOTE(ブログ)も書き上げたところで寝てしまい、ホームページにアップすることを忘れたり、RECORDは最後まで作りきれなかったり、睡魔に勝てない日が続いています。近隣のスポーツ施設に水泳に行くこともありますが、泳いでいて水に乗れず、今一歩のところで力が入りません。気候のせいか、それとも体調のせいか、原因はよくわかりませんが、二束の草鞋生活で慢性的に疲労をしていることは事実です。日頃職場でも制作でも気になることは多くありますが、少し気を抜いて楽に過ごそうかなと思っています。
2014.06.04 Wednesday
学生時代に亡父の手伝いをしていました。亡父は造園業を営んでいて、数多くの庭石を仕入れて畑に置いてありました。その昔は丹沢の河川敷や真鶴へ石を探しに行ったこともありました。アルバイトとしてみれば稼ぎのいい仕事で、他の職人に混ざって自分も造園に汗を流していました。家業の造園は、当時自分が大学で学んでいた西洋彫刻と、心の中ではまったく結びつかないもので、家業は稼ぎになるから仕方なくやっている程度でした。施工がまだ始まっていない空間に庭石を運び込むと、父が石を据え付ける場所を指示していました。言われるまま、あちらこちらに石を置き、また多少ずらして置き直す作業を繰り返していました。そこの石がどうも具合が悪い、あそこの石と交換しようと、父の容赦ない指示が飛ぶと、内心イライラしながら職人と一緒に自分も重い石を移動させたのでした。文句を言いたい自分に比べると職人は黙々と働いていました。父は何を見ていたのか、この時のことを今でも思い出すことがあります。石と石それぞれに呼応する空間を感じ取り、全体が象徴としてのまとまりを持たせること、つまり石のない余白にこそ語らせるべきものがあった、と今になって自分は思っています。当時の父にそんな思想があるわけもなく、一職人が肌で感じ取る空間美ではなかったかと考えるこの頃です。「余白の芸術」(李禹煥著 みすず書房)を読み始めて、こんな過去を思い出しました。
2014.06.03 Tuesday
「余白の芸術」(李禹煥著 みすず書房)を読み始めました。かなり前に購入してあった書籍ですが、今回初めて読みます。実は「枯山水」(重森三鈴著 中央公論新社)を読み終えた時に、日本庭園の象徴性とも言うべき余白の美に関連して本書を読みたいと思っていたのでした。あれやこれやと読書遍歴があって今になって読み出しましたが、やはり「余白の芸術」は面白い内容です。著者がよく言う「同一性と差異性」「ズレ」が旧知の感覚として自分の中に入ってきます。思えば、自分が学生時代に東京日本橋にあった南画廊で「点より」「線より」という平面作品に遭遇したのが、李禹煥ワールドへ誘われた最初の出会いでした。そこから最近の横浜美術館での大がかりな展覧会まで、ニュートラルな鉄板とゴロンとした自然石を組み合わせただけの単純で、しかも有言な作品群に至るまで、実に多くの李禹煥ワールドに出会ってきました。自分には李禹煥は分かり易い芸術家の一人です。自分が東洋人の感覚を持ち合わせているせいでしょうか。亡父が営んでいた造園、とりわけ庭石を点在させた場の創出と通じるものがあるせいでしょうか。自分はいかにも西洋彫塑的に造り込みをやってしまう世界に生きていますが、本書を通して余白の持つ意味を考えようと思います。