2013.08.31 Saturday
陶彫による円錐状の塔を作るため、その構造となる厚板材を大量に購入しています。この厚板材を切断加工して円錐状のカタチを作り、そこに陶彫部品を接合していく予定です。既に雛型が出来ていて、切断する角度は雛型より割り出しています。今日は朝から工房に籠り、厚板の切断に明け暮れました。構造体になる厚板は今回は表面に出てきません。全てが陶彫部品で覆われた塔になります。厚板材が陶彫の重さに耐えるように工夫しなければなりませんが、いつも彫刻を作っていて感じることは彫刻は重力との闘いで、そのための工夫を強いられることです。実材を扱う彫刻は、他の媒体では考えられない力学的思考や素材の特性研究が必要になることもあるのです。今日も残暑で工房内の温度は大変なものになりました。板材の切断に神経を集中させていると汗が噴き出てきました。午後2時頃に近くのファミリーレストランに行って火照った身体をクールダウンしました。それからもう工房に行く意欲がなくなり、今日はここで作業中止にしました。明日も作業継続です。
2013.08.30 Friday
「渦巻紋と輪廻転生」(藤田英夫著 雄山閣)を読んでいます。昨日の続きを今日も掲載します。まずは文中の引用から。「オリエントでまだ土器が作られていない『先土器新石器文化時代』に、縄紋人はすでに光輝紋を土器に施紋していたので、縄紋文化はまぎれもなく世界の先進文化であった。~以下略~」縄紋(縄文)時代は土器に見られる優れた造形性ゆえに自分が興味関心のある時代です。世界的に見て縄紋文化が進んでいたことは日本人として嬉しく、また誇らしく思います。「世界の土器土偶をみても分かるとおり、平凡な原始生活の中での平凡な生活の中からは、縄紋文化のような精神的に優れた前衛的芸術作品は決して生まれない。当時あれだけの想像もできない素晴らしい芸術的土器と土偶が出現した原因を考えると、何か特別な社会制度があって、その特殊条件下に置かれた芸術家たちが、競争するように新モデルの創作に励んだ結果であろうと考えられる。」縄紋時代は前回まで読んでいた土面に関する書籍にもありましたが、戦争のない穏やかな時代だったようで、長い年月に亘っています。特別な社会制度、たとえば貴族のような階級が芽生え、趣向を凝らした造形を競わしたのかもしれません。縄紋土器に見られる斬新なデザインは、日常品としての土器とは違う価値観をもって作られたとしか考えようのないものです。自分も陶彫を扱う彫刻家の一人として古代日本に現代彫刻に繋がる要素を見出し、縄紋人の抽象衝動を感覚として捉えながら自作を作っていこうと思います。
2013.08.29 Thursday
「(井寺古墳の)彫刻を始めるにあたり、土着のデザイナーは大きな単渦紋をあしらったデッサンを施主に見せたが、それは渡来人にとって意味不明の紋様であったため、施主はこれをきらって強く修正を求めたのであろう。そこでデザイナーは単渦紋をモチーフとして残し、そこにX型の直線を入れ、円弧を鋭角化した上、円弧と鋭角、内部と外部、赤と白、実存と空間、善と悪、真と偽、支配と従属など、彼らの心の内部にある二項対立の視点のもとに渦巻紋を分解し、各部の断片をシフトし、傾け、直角にターンしてX型直線にそわせ、赤白の配色を逆にするなどの移動も含めて、意識的な操作を繰り返して別の絵に再構築したのである。」これが日本最古の紋様と呼ばれる直弧紋の説明です。言ってみれば20世紀初頭の美術界を席巻した抽象芸術運動の方法と同じです。「渦巻紋と輪廻転生」(藤田英夫著 雄山閣)を読んでいて我が意を得たりと思った箇所です。後に続く頁にキュビズムという語彙が踊っているので、きっと本書は縄紋文化と前衛美術の時代を超えた比較検討が述べられているのに違いないと確信しています。数理学を用いた論文でこんな興奮を味わえると思ってもみなかったので、自分は驚きを隠せません。続く文章を引用させていただきます。「この絵がかくれた渦巻紋から展開した抽象絵画であることが分かったとき、私は縄紋芸術家の素晴らしい前衛的心意気がこの彫刻からにじみ出てくるのを感じ、今まで遠いものに感じていた井寺古墳の彫刻が、急に身近な現代的存在に感じた。~以下略~」暫く自分を虜にしている本書を深読みして次回に感想を持ち越したいと思います。著者は理由があって「文」を「紋」として使用しています。「文様」は「紋様」、「縄文」は「縄紋」と表示しているので、このNOTE(ブログ)でも本書に関わる掲載について「紋」を使用することにします。
2013.08.28 Wednesday
現在読んでいる「渦巻紋と輪廻転生」(藤田英夫著 雄山閣)の最初の方にこんな記述があります。「連続した沢山の渦巻紋で太陽を表現する理由は、インドの太陽神伝説を知れば分かる。即ち『太陽神スリャは、日中は恋人の初々しい暁の女神ウシャス姫を抱き、熱愛のあまり光熱を発し、夕方に燃え尽きて暗闇となる。だが翌朝になると生まれ変わりの太陽が再び東の空へ昇る』と。ここに『偉大なる光熱を発する太陽が毎日生まれ変わるために、神々は太陽の子供、孫、ひ孫、その種子を次から次へと毎日誕生させる難事業をしておられるに違いない』という太陽を神格化した信仰が生まれ、その様子を沢山の渦巻紋に描き、太陽の永遠の生まれ変わりを祈るようになったと考えられる。」渦巻紋は自分の作品にも多用しています。かねてより渦巻紋の所以を知りたかったので、太陽神伝説の論拠に興味が湧きました。自分はどうして渦巻紋を使うのか、自分のことなのに確固たる動機が見つかりません。渦巻紋は中心に導くラインと中心を巡りながら外へ広がるラインという2通りの解釈があって、形態的には集中と拡大の双方が同時に展開し、自分はそこに造形的な魅力を感じています。学術的というより感覚的な嗜好で使っていると考えざるを得ないので自分には動機が見つからないのだと思いました。つまりカタチが好きだから描いたというのが正直なところです。世界各地の遺跡に残る渦巻紋の図版を見ると、自分は思わず目が留まります。太陽神が何度も生まれ変わり女神を愛する記号が渦巻紋ならば、自分勝手な嗜好にポジティヴなイメージが加わって、ますます渦巻紋が好きになりました。現在制作中の作品には渦巻紋は出てきませんが、近々渦巻紋を再び使っていく機会がきっとあると思います。
2013.08.27 Tuesday
先日出かけた長野県軽井沢で、久しぶりに訪れたセゾン現代美術館で見た「魂の場所」展。この企画展にはどんな意図があるのか、収蔵作品を選んだ理由が知りたくて、売店で小冊子「魂の場所」(三浦雅士著 セゾン現代美術館)を購入しました。50頁の冊子なので2時間ほどで読み終え、改めて展示作品を思い返しました。セゾン現代美術館は西武百貨店(セゾングループ)が経営母体となり、経営者堤清二(詩人辻井喬と同一人物)の収集した現代美術作品で構成されています。学生の頃、自分は池袋の西武美術館に頻繁に出かけて刺激的で尖鋭的な現代美術を考える機会を持っていました。「魂の場所」は堤清二の妹邦子のパリ画壇での交流、詩と絵画を同一として捉える詩人大岡信への同調、芸術家A・ウォーホルや荒川修作の芸術そのものの意味を問う思索など、20世紀から今世紀に至る現代美術の在り方を提言する密度の濃い内容でした。文章全体が時の流れを追うだけでなく、白熱し沸騰する現在という視点が常にあって、そこから導かれる論評に読み応えを感じました。次の引用で締めくくります。「自分の身体を恥じている自分とはいったい誰か。名づけられた自分、歴史のなかの自分、死の世界のなかの自分、つまり言語である。言語現象としての私である。芸術とは、この言語現象としての私が発生する瞬間を繰り返し、その白熱と沸騰を確かめることにほかならない、と思える。~略~宗教の起源は言語にしかない。言語とは禁忌のこと、法のことだ。私という言語現象もまた禁忌の束-文法の束-のようなものだ。芸術はこの禁忌の束をほどく、結びなおすために。芸術と狂気-禁忌の束をほどくこと-がしばしば同一視されるのは当然のことなのだ。」