2013.09.20 Friday
「縄文の音」(土取利行著 青土社)を読み終えました。カタチとしては残っていない縄文時代の音や歌の追求は、世界各国に伝わる民族古楽器や伝承歌を調査し、その共通項を探って縄文時代へ繋げる方法を取らざるを得ません。打楽器奏者である著者は、銅鐸を演奏する機会や、有孔鍔付土器を楽器として解釈し、再現された縄文鼓を演奏する機会を持ち、考古学とは一味違う創造的楽しさを本書に盛り込んでいます。あとがきに「~前文略~日本国という名が定まったのはおよそ七世紀のころ。それ以前はまだ縄文時代以来のクニグニが日本列島の各地に存在しており、そのクニグニには熊襲、隼人、国栖や、『風土記』で土蜘蛛などと総称されている様々な民族がそれぞれの社会を作って暮し、蝦夷やアイヌ民族もまた独自のクニを形成していたはずである。しかしこれらのクニグニは七世紀末ころに、当時は近畿を中心とする日本列島の一部にすぎなかった日本国の侵略を受け、各々のクニビトは日本人と化していったのである。そしてアイヌや沖縄の民族は、この日本国に対し近代にいたるまで抵抗を続けた。そしてそれは、日本国の農耕・仏教に対する狩猟および漁撈・アミニズムという文化的・宗教的抵抗でもあった。」とあるように、縄文文化が南方だけでなくアイヌとも繋がっていることを本書は事例を基に説いています。考古学の検証はこれからも続き、本書のような音楽家の視点で縄文文化を紐解くこともあり、また造形美術の視点では既に論考されている書籍もあります。自分は折に触れて縄文文化に関わり続けたいと思っているところです。
2013.09.19 Thursday
「縄文時代から見えないかたちで、わたしたちのこころの奥底を流れ続けている感覚。これをわたしは浮流感覚と仮に名づけたい。縄文の終焉以来、弥生、古墳、そして飛鳥の国家成立期を経て奈良・平安と、歴史はまるで一部の指導者のよって造られてきたかのような印象をわたしたちに与えてきた。が、日本文化の大陸化ともいえるこの時代に、浮流感覚を持ち続けた庶民の存在を忘れてはならない。そしてこれら庶民の浮流感覚は、やがて平安末期から鎌倉時代の下剋上の時代を通じて一気に歴史の上にも蘇った感がする。その現象は、先に説明した踊り念仏など、仏教の中にも示されているし、芸能の中にも多々見られるであろう。~以下略~」先日から読んでいる「縄文の音」(土取利行著 青土社)の中の一文で、縄文時代の感覚が残っている文化に触れた部分です。岡本太郎が芸術表現の視点で再発見した縄文土器。また自分がそうした縄文土器に憧れにも似た気持ちを抱くのは浮流感覚があればこそなのでしょうか。縄文の造形性に新鮮さや親しさを覚えるのは私だけではないでしょう。造形の斬新さという点で、現代はどのくらい造形感覚の進歩があったのでしょうか。テクノロジーが進んだとはいえ、それらはデジタルな衣を纏っているだけで、内容そのものの変化は如何なものでしょうか。先日来、古代文化と付き合っている自分は、縄文文化の斬新さに驚くばかりです。
2013.09.18 Wednesday
今月初めの週末、あまりにも工房が暑くて作業を早めに切り上げた日がありました。その日の夕方、横浜山手にある神奈川県近代文学館で開催中の「注文の多い展覧会」に行ってきました。展覧会の題名が示す通り、これは宮澤賢治の文学作品が基底にある展覧会で、宮澤賢治の世界を表現した画家で絵本作家である司修の作品を一堂に集めたものでした。自分の学生時代、版画作品を通して司修を知りました。詩情溢れる作品に、自分の感覚にはないノスタルジックな雰囲気を感じていました。表現方法の幅が広く、同一人物が描いたとは思えない画風があって、その自由奔放な絵が羨ましいと思ったこともありました。展示作品の中で詩集「雨ニモマケズ」の線描の絵画が面白く、自分もこんな風に描けたらいいなぁと思いました。色彩の美しさに定評のある画家ですが、自分は白黒の木版画も好きで、挿絵の入った書籍「サーカス物語」を思わず購入してしまいました。M・エンデの戯曲なので、そのうち読んでいきたいと思っています。残暑の厳しい日でしたが、展覧会場で気持ちがフワっと楽になれる気分を味わいました。
2013.09.17 Tuesday
このところ日本の古代文化に対する興味が湧いています。現在読んでいる古代音楽に関する書籍に面白い場面があって注目しました。「演奏当日、橿原考古学研究所に総勢三十名のスタッフが集まり準備を始める。テレビ撮影隊、録音隊、ボランティア・スタッフ等、誰もが未知の演奏に期待を募らせている。標高百九十九メートルの畝傍山は車で登れず、登山口の山口神社から山ツツジの映える狭道を各自が機材を担いでゆく。古い社跡を残す山頂広場。その北端の何本かの常盤木に囲まれた所に、宮大工さんによって十方形のやぐらが建てられる。そのサルスベリの木枠の一辺一辺に二個ずつ小型の銅鐸を、やぐらの中央を交差する接点には大型の銅鐸を吊す。それら黄金色の銅鐸が目にまばゆい。やぐら横には三本柱を円錐状に建て、そこに南中国からインドシナに分布する銅鐸を吊し、小型の銅鐸一個もぶらさげた。畝傍山の西方には二上山、葛城山、金剛山が見える。それら山々の稜線を夕陽が染め、やがて夜の帳が降りる。山頂の冷気が漂い、黄泉の国と化す。明けて四月七日午前二時四十五分、銅鐸が吊るされたやかたの中で、しばし静謐を保った後、大地を裸足で踏みしめながら演奏に入っていく。~以下略~」長い引用になりましたが、「縄文の音」(土取利行著 青土社)の冒頭にあった銅鐸の演奏風景です。著者は再現された銅鐸で古代の音を探ろうとしています。打楽器奏者としての著者が面目躍如としていて、読んでいる自分も古代に誘われていくような思いがしました。
2013.09.16 Monday
三連休の最終日にあたる今日は台風18号の影響で朝から暴風雨に見舞われていましたが、午前中から工房にいて板材の組み立て作業に追われました。板材ユニットを円錐状に配置し、これを構造体にして陶彫部品を接合させていくのです。陶彫はまだこれから成形を開始する予定ですが、どのくらいの陶彫部品があれば全体を覆うことが出来るのかを制作工程から割り出しました。150個以上の部品が必要だとわかって、焦燥感に駆られつつこれを具現化することに些か自虐的な思いを持ちましたが、それでもクオリティを下げることはできません。果たして完成するのか、間に合うのか、日程的に追い込まれてくると厳しい思いをすることはわかっています。これは毎年のことで、今年こそ余裕をもって制作しようと考えていますが、結局直前に右往左往して冷や汗をかくことになるのではないかと思います。そうした反省を踏まえ、今年こそ予定通りに余裕を持って仕上げたい希望はあるのです。