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  • 「豊饒の神・境の神」読後感
    「火の神・山の神」(高見乾司著 海鳥社)に続いて、「豊饒の神・境の神」(同)を読み終えました。副題に「九州の土俗面考【2】」とあるように、本書は現場の取材から導き出した土俗面伝承の論考が中心となっていますが、著者が各地で実感したことや体験談も織り込まれていて紀行文としても楽しめる内容になっていました。偶然出会った女性との旅のエピソードは、堅い論文にない艶っぽさもあって、神々の降臨伝説と相まって不思議な地域に足を踏み入れたような錯覚を持ちました。本書で中心となっているのが祭礼を先導する猿田彦伝説で、文中にある「猿田彦が出雲で生まれて伊勢で死んだ」という仮定を基に、猿田彦の経由した道を追い、「ニニギが、製鉄と稲作の技術を携え、渡来してきた民族の代表者であり、猿田彦が先住民の代表的存在であるという定義もゆるがない。ニニギの一行と猿田彦との出会いの場面は、渡来系の弥生文化と土着系の縄文文化との出会いと融合の場面であったのだ。」と考察をしています。土俗面に関する定義では「すでに私は、猿田彦に象徴される『鉾麺』の系統が、日本列島における民間仮面のもっとも古い形を有するものであること、そしてそれが中国古代・春秋戦国時代ごろを始源とするアジアの祭祀芸能と連環するものであることなどをつきとめている。」とあるように古代日本では、沖縄や中国大陸からの渡来文化との融合があったとしています。最後に縄文文化に触れた一文が印象に残ったので引用します。「国家が形成され、権力闘争が繰り返され、戦乱が相次いだこの時代(弥生以降)は、科学文化のめざましい発達をみた時代でもあったが、自然破壊と人間性の喪失とが同時に進行した時代でもあった。比べて、女性を中心とし、狩猟と採集文化を生活の基調とした縄文時代は、自然と共存し、戦いのない平和な時代であったといえよう。その時代はおよ1万年も続き、列島の上に比類なく美しい縄文文化を花開かせた。」
    横浜で「iSAMU」観劇
    KAAT神奈川芸術劇場で今日から「iSAMU」が始まるので前売り券を申し込んでいました。副題には「20世紀を生きた芸術家イサム・ノグチをめぐる3つの物語」とあり、イサム・ノグチに憧れる自分は、どんな物語が展開するのかワクワクしながら公演を楽しみにしていました。私は随分前に「イサム・ノグチ」(ドウス昌代著 講談社)や「評伝イサム・ノグチ」(D・アシュトン著 白水社)を読んでいて、彼の生涯は自分の記憶に刻み込まれているのです。そうした眼でみた「iSAMU」は、よく練られた脚本と巧みな舞台演出に支えられたドラマでイサムの生涯のエピソードを網羅しているように思いました。印象に残ったのは、母ギルモアから0の無限を教わる少年イサムの場面、広島原爆慰霊碑制作に心底打ち込んでいた彫刻家イサムに齎された行政的な結論、女優山口淑子との結婚生活の破綻、の3つで確かにイサムの生涯で取り上げる劇的なエピソードとして、これ以上のものはないと思いました。ただ、自分が感じた残念なことを挙げると、劇が巧妙さゆえにあっさり終わってしまった感があったこと、エピソードを多く入れるために舞台転換を余儀なくされ、舞台を4つに区切ったことで、劇がこじんまりとしてスケールを失っていたように思えました。見方を変えれば、舞台美術の転換をスムーズにし、映像を加えることで緊張感を持たせることに成功しているのですが…。演劇を初めとする表現活動は、見終わった後の印象が全てと思うのは私だけでしょうか。人々の感動を勝ち取るには巧妙さだけではない何かが必要であるし、役者が小さく仕切られた舞台で小さな演技していた印象が拭えないのです。スケールのある芸術家の生涯を描くのは難しいと感じた一夜でした。
    生活の豊かさを問う
    「われわれが捨てたはずの、過疎に喘ぐ、消滅寸前の『ムラ』が、なぜ『豊か』なのか。ムラこそ、都市の豊かさでもって救われなければならない存在なのではなかったのか。都市の豊かさとは、われわれ自身が捨ててきた、ムラの犠牲の上に立っているのであろうはずだから。だが、違うのだ。誇張を続けた都市は、今ではその機能をなかば喪失し、疲弊し、無機化し、衰退に向かいつつある。そこに住む人々は、虚ろな表情で、パラダイスであったはずの都市の消滅を予感し、同時に、故郷をも遠い昔に喪失していることを実感しているのだ。だからこそ、膨大な山脈があり、風や空気や水が清々と流れ、樹木や虫たちが群れ、大地から産物が得られる場所、すなわち『ムラ』への回帰を希求し始めたのだ。」(火の神・山の神 高見乾司著 海鳥社)読んでいた書籍の中から、こんな一文に気を留めました。現在、横浜駅という大商業エリアを抱える職場と、そこから遠からぬところに居住している自分は、都市生活者の範疇に入ると思っています。よく長野県や茨城県の緑深いところに住む知人に会いに出かけますが、そこで感じる自然環境に癒され、さらに憩えるのは、無機化した自分の生活環境が齎す弊害があってのことかもしれません。今の自分の生活を鑑みると、利便を求めた結果として、身体や精神に及ぼす悪しき影響はますます増大するように思われてなりません。本当の意味で生活の豊かさとは何でしょうか。生活の豊かさは生活者の心の在り処と密接に関係するものかもしれず、豊かさを感じる人それぞれであっても、決して物質的豊かさではないと思うのです。
    偏りのある選書
    先日、仕事帰りに繁華街を散策し、書店を覗きました。職場は横浜駅近くにあるので、気軽に立ち寄ることが出来るのです。今夏の読書は日本の古代文様史と決めていて、その取り掛かりとして比較的平易と思われる書籍を購入しました。これを契機に文様史を勉強していこうと思っていた矢先に、美術書の棚でドイツ人芸術家ヨーゼフ・ボイスに関する書籍が目に留まり、思わず購入してしまいました。どっちを先に読もうか思案中です。考えれば自分の読書には偏りがあって、造形美術を中心に民族(民俗)学、文学(主に詩)ばかりです。中学生の頃は海外の翻訳推理小説、高校で純文学と詩歌、大学では専ら美術評論に夢中になり、自分は妄想ばかりの頭でっかちの青春時代を過ごしたと思っています。その遍歴は今でも変わらず、創作活動がなければ頭の中だけで空振りを繰り返す理屈っぽい大人になっていたかもしれません。書店に入れば所謂売れ筋の書籍には目もくれず、いつ廃刊になってもおかしくないものばかりに注目してしまいます。価格は関係なしに購入してしまう癖は今でも抜けません。全集は揃っていないものが多く、興味関心だけで書籍を追いかけてしまうせいで自宅の書棚は混乱しています。偏りのある選書、アンバランスを修正するつもりもなく今日も書棚を眺めています。
    8月RECORDは「棲」
    今月のRECORDは今夏の旅行を当てたテーマでやっていこうと決めました。長崎に行く前はイメージで絵を描き、軍艦島に行ってから撮影資料をもとにRECORDを作っています。長野県にも師匠の池田宗弘先生を訪ねたので、先生の隠れ家エルミタのイメージをRECORDに取り込みたいと考えています。「住」居を「棲」家とした理由は、人間に限らず動物全てにわたって居住空間を描いていきたい意図があるからです。人間もまた自然界に生息する動物で、環境に応じた棲家を得て暮らしています。軍艦島はそうした居住空間から人が離れていった無人島です。今月は「棲」というコトバのもつ意味を軍艦島を通じて考えたいという思いがあります。RECORDは一日1点ずつ小さな平面作品を作っていく総称で、毎晩自宅の食卓が制作場所になっています。彩色は週末工房でまとめて行うので、厳密に言えば一日1点の構想と下書きを完成させるというのがRECORD制作の正確なところです。今月もコツコツ頑張っていきたいと思っています。