Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 梱包チェック
    今日も工房に籠って制作三昧といきたいところですが、来週末は個展の搬入を控えているので、今日は搬入梱包の最終チェックをしました。「発掘~連築~」の一番大きな陶彫部品の垂木を使った梱包箱作り、「陶紋」の梱包、連結用ボルトナットの準備、インパクトドライバー、補修用接着剤等考えられる様々なものを工具箱に入れました。ただ、雑務ばかりやっているとモチベーションが下がるので、併行して新作の制作を行いました。成形した陶彫部品に彫り込み加飾を行うと、創作欲が湧き上がります。充実した時間を過ごし、満足できる一日だったと思えるのです。常に創作途中の作品を抱えている状態が、自分の気持ちを平穏に保つ秘訣です。ひとつ作品が終わると不安に駆られるのは私だけでしょうか。すでに今月15日から始まる個展は自分の中では終わっていて、次のステップを踏み出しています。そんな状態が自分にとって最も快適で、明日への活力に繋がるのです。
    週末 汗が滴る工房
    今日は気温が30度を超えて真夏のような暑さになりました。朝から工房に行っていましたが、替えのTシャツを持っていなかったので、汗が作品に滴り落ちていました。替えのTシャツを工房の収納ボックスに置かなければならない季節が到来したようです。汗は暑さだけではなく、神経を集中する時も出てきて服がびっしょりになります。むしろ神経を使う方がすぐに汗ばんでくるように思えます。一通り汗を出すと不思議に身体が動くようになります。汗をかいた方が作業効率が上がります。自分は汗かきの体質で、子供の頃から汗まみれになっていました。顔中汗をかくのが恥ずかしいと思っていた思春期もありました。今ではこの体質に感謝していて、自分は熱中症になったことが一度もないのです。汗をかくから水をガブガブ飲む、さらに汗をかいて水を飲む、この繰り返しで制作が捗っていると思っています。明日も暑い工房で熱い制作を繰り広げます。
    「青蜥蜴の夢」読後感
    「土方久功詩集 青蜥蜴の夢」(土方久功著 草原社)を読み終えました。本書の中では、とりわけ南洋群島にいた時代に書かれた詩や随筆に興味が湧きました。南洋群島の人々の触れ合いや繋がり、村の長老や娘たちの生き生きとした生活ぶりや異国情緒を感じさせる風景描写が、現実感に溢れ、時に郷愁をもって綴られていました。本書は著者が詩人として描いた世界で、造形の創作ノートではありません。土方久功が彫刻家として名を馳せた事実を考えると、海外での生活の中で、どこを切り取って造形美術にしたのか、どういう場面で作品が作られていったのか、私はそこが知りたいと思いました。本書は日常の何でもないことを題材に、目の前の現実を受け止め、または過去を振り返って思い描いた場面がよく登場します。その空気や匂いが伝わってくるコトバが多く、周囲の自然や気候の変化を捉えています。土方久功は小さな生物や植物に思いを寄せる心優しき人だったように思います。
    欠如を補う行為
    情緒が安定しない時は、周囲の人とも良好な関係が保てず、バランスを欠いていることすら気付かないことがあります。そうした中で何かを見出すことは難しいと思います。自己の内面を吐露する創作活動でさえ情緒が安定していることで凝縮した世界が表現できると考えます。才能に絶望して自ら命を絶つ芸術家がいますが、狂気となるのは一時だけで、咄嗟の出来心が悲劇を生むのではないかと推察いたします。創作は心の安定の上に立って、さらにそこに欠如を見出し、それを補う行為だと自分は考えます。逆に全て満たされては創作する魂を失い、駄作に甘んじてしまうとも考えられます。欠如を補おうとして何かを渇望し、尋常ではない集中力をもって作られたものは、鑑賞者の心を揺さ振るパワーが宿ると自分は信じています。欠如を補う行為、これが創作に限らず、全てのパワーの源かもしれません。
    孤独とは何かを考える
    詩を読んでいると、孤独に苛まれ、それでも生きようとするコトバに出遭います。孤独にも個人差があるとは思いますが、畢竟するに孤独とは如何なるものか、自分は折に触れて考えることがあります。自分は幼い頃から情けない人間で、甘えの構造の中で孤独という便利な言い訳を使っていました。海外で一人で暮らしていた時も、寂しさが募って情緒不安定になれば安易に帰国すればいいと思っていて、深淵に臨むが如く孤独になることはありませんでした。天涯孤独というのは自分には想像もできず、人との繋がりを一切絶つとはどんなものか、時に引き籠りたい気分はあっても、精神的に自分はやはり健全であると自覚しています。孤独とは周囲に人がいたとしても、自ら関係を絶ち、精神的に追い込まれる状態を孤独と称することもあります。縦しんば本当の意味で孤独になったとして、心が実際に耐えうるのかが疑問です。孤独感を身に纏っていても、それは自己感性が反応して感覚として捉えているのであって、孤独そのものを指すものではないとも考えています。究極とまではいかなくても忍び寄る俄な孤独感は誰にでもあって、それが創作活動に作用すると考えるのが一般的かなぁと思えます。