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  • 「カンディンスキーと青騎士」展
    自分にとって注目すべき展覧会です。ブログに何回となく書いているカンディンスキーは、P・クレーやシュルレアリスムの芸術家と共に自分の中に今も生きつづけている画家なのです。年刊誌「青騎士」の翻訳が白水社から刊行されたのを契機に、「青騎士」をじっくり読んで、以前のブログにもその感想を書きました。今回の展示内容ではやはりカンディンスキーの先鋭さが目立ちました。青騎士の他のメンバーよりさらに前を行くカンディンスキーは、カタチの解体や色彩の雄弁さを推し進めて、まさに内面から奏でる旋律に身を任せたような作風に移行していました。無調音楽に到達したシェーンベルクより発想を得た非対象絵画は、当時は理解されることもなく展覧会は惨憺たる結果に終わっているのですが、今自分の目の前にあるカンディンスキーの作品を見ていると、それも時代が時代だけに頷けるものがあります。絵画はサロンで眺めるものではなく、カタチと色彩の織り成す哲学になった瞬間から、造形する発想の転換が行われ、現代が始まったと言っても過言ではないと思います。眺める絵画から思索する絵画へ。思索には解釈が付き纏います。それもひとつではない解釈があって、まさに造形を哲学する時代がやってきたと認識しています。
    竹橋の「麻生三郎展」
    先日、東京竹橋にある国立近代美術館で開催中の「麻生三郎展」に行ってきました。背景と同化した人体。混沌とした重厚な壁を見ているような麻生三郎の油彩は、人の存在を問うような世界観をもっています。灰一色に見える大きな画面にはさまざまな色彩がせめぎ合い、やがて人体の部分が浮かび上がり、それらがひとつになって濃密な空間を作り出しているのです。図録にある文章を引用すると「~略~麻生の作品では、人の姿をはっきりと見つけ出すことが難しい。見えない大きな力によって押しつぶされてしまったのだろうか。いや、そうではない。時間をかけて、じっくりと画面に対峙していると、少しずつ、人の姿は見えてくる。眼を見つけ、手を見つけ、足を見つけ…、しかし完全な人体の輪郭は、おそらく最後までつかみ取れないはずだ。そこで焦ってはいけない。そうすると、人の姿はたちまち、混沌の中にかき消えてしまうだろう。ここからは我慢比べである。完全につながらない人体が、空間の中でどのような関係をもっているかを丹念にたどっていく。そうしていると~略~何か濃厚な生のエネルギーを、名づけようのない存在そのもののエッセンスを、感じとることができるだろう。~以下略~」(大谷省吾 著)作者のリアリズム追求の姿勢は、彫刻家ジャコメッテイの油彩にも通じるものがあると感じました。困難な絵画的状況を抱えたまま旅立った麻生三郎を思わないではいられない感想をもちました。
    土練りのあと美術館へ…
    成形に使う陶土がなくなり土練りをしました。陶彫は土を単身ではなく複数の土を混ぜて使っているのです。近々新しい土錬機が来るので、今使っている土錬機最後の仕事かもしれません。自分と懇意にしている陶芸業者から連絡があって、いい土錬機が見つかったので替えてみないかと持ちかけられたのです。ちょうど今の土錬機ではちょっと物足りない感じがしていたので、安く譲ってもらうことにしました。夕方は昨日の続きのような気分で美術館に出かけました。神奈川県川崎市にある岡本太郎美術館で開催中の「池田龍雄」展です。池田龍雄著「蜻蛉の夢」を何年か前に読んでいたので、実際の作品を見に行きたくなっていました。昨日は電車で、今日は自家用車で出かけました。今日は美術館の一室に作家がいてギャラリートークをやっていました。暫く耳を傾けていましたが、80歳を過ぎているにもかかわらず年齢を感じさせない若々しさを感じました。これは現代美術をリードしてきた自負からくるものか、生き生きとした制作生活からくるものか、まだまだ創作欲が衰えないところは見習うべきと思いました。展覧会の印象や感想は機会を改めたいと思います。
    週末の美術館巡り
    彫刻家池田宗弘先生をはじめ、お世話になっている方々にお歳暮を贈りに家内と街に出ました。そのついでに知人にチケットを頂いた「麻生三郎展」を見てきました。東京竹橋にある国立近代美術館に行くのは久しぶりでした。麻生先生は大学の油画科で当時教壇に立っておられた方でしたが、生前お目にかかることはありませんでした。2000年に亡くなられています。感想は機会を改めたいと思います。次に東京丸の内にある三菱1号館美術館に行きました。「カンディンスキーと青騎士」展が開催中で、これは是非とも見に行きたいと思っていたのです。これも感想の機会を改めます。今日は晴天で、12月にしては気温が高く快適に美術館巡りができました。東京丸の内の銀杏並木が美しく紅葉していて、枯葉が風に吹かれて路上を舞っていました。都心の風景を美しいと感じたひとコマでした。
    クラシック音楽を聴く機会
    20代の頃にオーストリアの首都ウィーンに住んで、リング(環状道路)沿いにある国立歌劇場に毎晩通っていました…と、書くと自分はいかにも文化意識が高く、経済的にも恵まれた、どちらかと言えば鼻持ちならない留学生に見えますが、実際はとんでもない状況の中で、それでも音楽に親しんでいたのでした。ウィーンにいたというだけでも、恵まれていたといえば確かにその通りです。環境の凄さに生活苦を忘れることもありました。国立歌劇場に通い始めた理由は、もちろん本場の音楽を聴きたいことが挙げられますが、ひとつは一人住まいのアパートに帰るのが嫌だったこと。ふたつめは秋から冬、さらに春先にかけて日本とは比べものにならないくらいウィーンは寒くて暖房費を節約したかったこと。みっつめは国立歌劇場の立見席は日本円で当時200円程度の安さで確保できたこと等々がありました。クラシック音楽は、以前のブログに書いたかもしれませんが、日本にいた時はそれに接する機会がほとんどなくて、とくに興味もなかったのでした。それが前述した理由で国立歌劇場に通いだし、その表現力の片鱗に触れ、素晴らしさを実感しました。クラシック音楽は人間の呼吸や歩くテンポに呼応しているようにも思えます。当時を振り返ると美術そっちのけで、モーツアルトやマーラーを語っている自分がいました。今はほとんどクラシック音楽のコンサートには行きません。生活環境とはそんなもので、たまにFMラジオから流れるクラシック音楽を聴くと、当時を懐かしむと同時に、もう一度あの世界に親しんでみたいという欲求が湧いてきます。不滅なモノとはそういうものでしょうか。