2022.08.22 Monday
「彫刻の歴史」(A・ゴームリー M・ゲイフォード共著 東京書籍)は彫刻家と美術評論家の対話を通して、彫刻の歴史について語っている書籍です。全体で18の項目があり、今日は11番目の「巨像と奴隷」について、留意した台詞を取り上げます。台詞の中で東大寺の大仏殿の話題が出てきました。「これは矛盾しているんだけど、仏教は物理的に巨大な物体に愛着を持つその一方で、無常、つまり儚さこそが唯一不変のものである、とも唱えているんだ。仏教の教義の中心にあるのは、欲望を捨て去らない限り僕らは物理的な世界に束縛されたままで、無常という真理には辿り着けないというものだ。だからこういうイメージは、自我が幻想であるという悟りを僕らに促すためのものだ。つまり意識はまさにその具体化から解放されるためにこそ、物質的な具体化の状態を克服しなければならない、ということだね。」(A・ゴームリー)「だから一連の巨大な仏像は、とてつもなく大きな体躯を有しているのですね。その狙いは、像を見る者が自分自身を物理的な存在からすっかり脱却させるのを、手助けすることにあった。」(M・ゲイフォード)「彫刻、とりわけ人物像は古代イラクや古代エジプトのころから政治的な目的のために使われてきた。でもそういう巨大像が風化して、朽ち果てているときのほうが好きだな。僕にとっては理想化された王位ー神王ーから分離されていくものへの変容が、それをより豊かなものにしている。もともとの政教一致的な煽動家の目的は、エントロピーと虚無に焦点を当てることに置き換えられる。つまり仏教でいう『空』だ。」(A・ゴームリー)「眠っている身体、あるいは苦しんでいる身体という観念は、涅槃物とはかけ離れたもので、ミケランジェロの《瀕死の奴隷》《瀕死のガリア人》のような古典的な彫刻にまでさかのぼる。そしてロダンの《青銅時代》と同様の内に秘めた感覚を持っているんだ。20世紀の美術のなかで最初にそれをやったのは、ヴィルヘルム・レームブルックだね。兵士の死であれ、あるいは誰の死であれ、それを記憶に残す方法として、死を英雄視することを絶対的に拒否して、絶望を受忍することに置き換えた。《くずおれる男》という作品は、頭を地面につけた這いつくばる姿勢、つまり僕らが生命の始まりを連想せざるをえないような身体への回帰に力強さがある。」(A・ゴームリー)「なるほど、圧倒され、うちひしがれているとはいっても、彼は依然としてある種の巨人ですね。けれどレームブルックの像はやはり弱さにかかわるもので、強さにではありません。~略~そしてレームブルックの像と同じことはミケランジェロの《奴隷たち》にもあてはまります。ミケランジェロがいつも『囚われの者たち』と呼んでいた作品です。彼らは敗者であって、勝利者ではありません。」(M・ゲイフォード)今回はここまでにします。
2022.08.21 Sunday
週末のNOTE(ブログ)には自分の作品について書いていきたいと思います。現在私が作っている陶彫作品は一片22cmの立方体です。そこに文様を彫り込んで、同じサイズでも異なる文様が加飾された立方体を日々作っているのです。私は自作を集合彫刻と言ってきました。やきものは窯に入れて焼成するために、窯内の容量が決まっていて、ある程度の大きさのものしか焼けません。そこで考えたのが、陶彫作品を部品として小分けして、焼成後に組み合わせて、大きなサイズにしていく集合彫刻です。これは全体を部分で分けて、焼成後に合体するもので、私がよく陶彫部品とNOTE(ブログ)に書いているのは、そうした理由があるのです。しかし、現在作っている陶彫は部品ではなく、同じサイズの独立した立方体で、このユニットを積み上げたり、散りばめて空間に配置する作品になります。集合彫刻の考え方が今までと異なっていて、これはたったひとつでも見せることの出来る立方体のユニットなのです。複数個の立方体はギャラリーにランダムに置いて、その空間を楽しんだらどうだろうかというイメージが私にはあります。同じ形態がたくさん集まっているだけで、何か惹きつけられるものがあると私は感じていて、またそれらが逆に点在することでも存在を際立たせることができるのではないかと思っています。つまり集合と拡散です。空間演出において集合と拡散は、人の心理に何かを微妙に働きかけていくことがあると推察しています。イメージとしては曖昧なものでも構わないと思っていて、これは何であるか、何を求めているのかの回答を私は用意していません。今はただ只管立方体を作っているだけの日常です。そんな1年間を過ごしてみたいのです。
2022.08.20 Saturday
週末になりました。今週は水曜日と木曜日は工房に行かず、美術館に出かけました。水曜日は横須賀美術館へ工房に出入りしているスタッフ2人を連れて、運慶の展覧会に行ってきました。運慶は鎌倉時代に活躍し、写実的な仏像を制作した仏師でした。有名な奈良の東大寺や興福寺だけでなく、この横須賀にも慶派の流れを汲む仏師がいたこともあり、私にとって魅力的な仏像群が並んでいました。美術館帰りにスタッフと横須賀名物の海軍カレーを食べました。海と森に囲まれた美術館散策は、そのロケーションの良さと若いスタッフを同伴していたこともあり、楽しい時間を過ごすことができました。木曜日は私一人で出かけた現代アートの展覧会でした。東京竹橋にある東京国立近代美術館で開催されていた「ゲルハルト・リヒター展」は、自分自身の創作活動へ自問自答しつつ、絵画の革新性を改めて確認してきました。この日も私は楽しい時間を過ごしたわけですが、自分の中であれこれ考える時間があって、リヒターの世界観を理解しようと努めていました。ここには一人で出かけて正解だったかなぁと思いました。その他の日は午前中は工房に行って陶彫制作に精を出していました。因みに月曜日と火曜日の午後はお礼状の宛名印刷に充て、金曜日の午後は歯科医院に行っていました。今日は工房に後輩の彫刻家と美大生がやってきていて、いつもの週末の制作風景がありました。夜になって近所に住む人から、私の所有する植木畑に大きめなスズメバチの巣があると指摘され、業者を呼んで対応しました。樹木の幹と崖の間に巣を作っていたらしく、巣はかなりの大きさになっていました。業者はその専門職らしく即座に駆除してもらいました。誰かが蜂に刺されたら責任問題にもなるので、その処置をやってもらったのでした。いろいろなことがあった1週間でしたが、今週を振り返るとやはり2つの美術館に鑑賞に行けたことが印象に残っています。
2022.08.19 Friday
昨日、東京国立近代美術館で開催している「ゲルハルト・リヒター展」に行って来ました。現在90歳になるドイツ人アーティストは、その旺盛な創作意欲でもって鑑賞に訪れた人を圧倒する作品を見せてくれました。さまざまなシリーズの中で「アブストラクト・ペインティング」と称された絵画群が質量ともに他を凌駕していて、展示された空間の中でとりわけ緊張感が漲っていました。「アブストラクト・ペインティング」の印象としては、描写を放棄し、掠れた色彩によって壁そのものに存在感をもたせるもので、幾層にも覆われた色彩の蓄積の下に何かが隠れているような謎をつい考えさせられてしまうことです。それは写真の上から油絵の具を垂らした「オイル・オン・フォト」のシリーズが展示されていたことと無縁ではないでしょう。「アブストラクト・ペインティング」に関する文章を図録から拾ってみます。「絵画を非ヒエラルキー的に構成し、それによって制作プロセスに導入することで果たしたのが、1976年から開始された〈アブストラクト・ペインティング〉であり、そしてそれより年代の下がる〈アラジン〉などのガラス絵と〈ストリップ〉のシリーズである。1979年からは絵筆とならぶ描画用具としてスキージが、最初はごく控えめに、導入された。スキージとは、平たくて幅の狭い、最大でも長さ2メートルほどのコーティングされた木製の道具で、それに絵具を塗りつけて画面に強く押しつけて引きずるように動かすと、リヒターのアブストラクト・ペインティングに特徴的な、飛び散ったような絵具の痕跡が残るのである。~略~アブストラクト・ペインティングの制作には、さらにふたつの道具が導入された。1990年代初頭、リヒターはへらを用いて画面に縦・横に平行の筋をつけ、塗りつけられた絵具の層をこそげ取った。~略~2016年以降はキッチンナイフが導入されて、描画方法をさらに拡張することができた。ナイフもまた絵具を部分的に、あるいはキャンバス地の面から根こそぎ、削り取るものであるが、へらでの作業とは異なり、ナイフは手首を回して勢いよく、ちょうどフェンシングのフルーレのように使うことができる。それにより、リヒターの最後のアブストラクト・ペインティングは、それまでにない軽やかな遊戯性と独自性を獲得している。」(ディートマー・エルガー著)
2022.08.18 Thursday
新型コロナウイルス感染症の高止まりの影響で、私は今夏の旅行も諦めています。コロナ禍前は夏季休暇に毎年海外旅行に出かけていました。その頃は校長職との二足の草鞋生活で、どうしても気持ちを切り替えたいという意思がありました。今年は2日続きで美術館へ出かけ、展覧会を渡り歩いて、休暇気分を味わうことにしました。昨日の横須賀美術館での仏像鑑賞に続いて、今日は東京竹橋にある東京国立近代美術館での現代アートの鑑賞に時間を費やしました。ドイツ人現代アーティストのゲルハルト・リヒターは現在90歳ですが、今も存命の巨匠です。まとまってリヒターの世界に触れるのは、私には初めてのことで、今日はリヒターの造形思考を充分堪能してきました。リヒターは絵画という媒体に拘り続けた芸術家だろうと思います。それでも油彩、写真、デジタルプリント、ガラス、鏡などの多義にわたる素材を使い、視覚に関する極めて単純なものから民族的な主題まで網羅しているように私には思えました。今回来日している作品は、作風がシリーズとしてのまとまりがあって、造形的説得力のある空間が広がっていました。シリーズ化された作品が部屋ごとに分かれていた展示の方法も明快で、リヒターの考え方の変遷を辿るのに役立っていました。私の個人的な経験でも現代アートとなると、難解な思想に裏付けられた哲学を紐解くことになり、とりわけインスタレーションの場合は、眼の前に広がる状況を通じて芸術家が何を主張しているのか、自分なりに考えてみることをやっています。同じドイツ人の現代アーティストであるヨーゼフ・ボイスの場合は、眼前に置かれたモノから何かを読み解かないとならないと思っていました。リヒターはある意味では分かり易く、また馴染み易い状況が見て取れました。絵画という表現範疇から作品が外れていないためでしょうか。今回展示の主流になっていたアブストラクト・ペインティングに関しては、もう少し図録を読み解いてみようと思っていて、これについての別稿を起こします。