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  • マン・レイの改題「破壊されざるオブジェ」
    昨日のNOTE(ブログ)に、シュルレアリスムを代表する芸術家マン・レイのオブジェ「破壊されるべきオブジェ」について書いたところですが、今日の朝日新聞夕刊にマン・レイの記事が掲載されていました。そこには「破壊されざるオブジェ」という見出しがついていて、私は訝しく思いました。私自身、マン・レイについては詳しいことは知らず、昨日のNOTE(ブログ)も展覧会場で購入してきた図録より抜粋したもので、当のオブジェの背景が分かっているとは言えません。今日の新聞より記事を引用いたします。「オリジナルの作品は1923年の制作とされ、当初の題は「破壊されるべきオブジェ」だった。その約10年後、オブジェをもとに描いたイラストの傍らに、作者は次のような文章を記している。『愛していたのにもう会うことの出来ない人の写真から、その目を切り抜く。メトロノームの振り子にこの目を取り付け、(中略)忍耐の限度まで鳴らし続ける。ハンマーで狙い定め、そのすべてを破壊する』。失恋による未練を断ち切りたいとの決意が、この時には託されていたらしい。しかし作品のタイトルは、やがて思わぬ事件を呼び込む。57年、パリの画廊に乗り込んできた若者たちが、展示中の作品を持ち去り、壊してしまったというのだ。マン・レイはその後、題名を「破壊されざるオブジェ」と改め、100個以上のレプリカを相次いで再制作することになる。~略~そうして生まれたレプリカには『永遠のモティーフ』という題が付けられたものも。マン・レイは自伝に、こんな言葉を残している。『わたしは、同じものをいとも簡単に作ることで、作品を破壊不可能なものにすることができたのである』」(西田理人著)昨日書いたエピソードと今日のエピソード、どちらが真実に近いのか、それともそんな動機の究明は作者にとっては必要ないのか、私には分かりませんが、マン・レイが題名を180度異なる意味に変えてしまったことは事実のようで、それもシュルレアリストの自己表現だったのでしょうか。
    マン・レイの「破壊されるべきオブジェ」
    先日見に行った千葉県佐倉市のDIC川村記念美術館で開催中の「マン・レイのオブジェ展」。展覧会のポスターになっているメトロノームを使った「破壊されるべきオブジェ」は、メトロノームの先に目の写真を貼り付けたもので、品のよいオブジェと私には感じられました。これはどのような背景で作られたモノなのか、しかもこの題名に秘められたものは何なのか、米国出身のマン・レイがパリで生活を送るうちにモノの価値転換があったと考えられます。このエピソードを語っている文章がどこかに掲載させていないか、図録を確認したところ、こんな文章がありました。「《破壊されるべきオブジェ》と名付けたメトロノームを『絵を描くときには作動させていた』彼は、カッチ、カッチとリズムに合わせ、観客の役割もメトロノームに求めながら、ある日、止まった後も描いてしまったので、『すばやく描いて自分を繰り返さない』とする原則が崩れ、『沈黙が耐えられず』メトロノームを粉々に砕いてしまった。」というもので、彼は極めて個人的な事情で題名をつけたようです。「市販のメトロノームと目の写真の出会いは題名を付されることで、マン・レイのオブジェからシュルレアリスムを象徴するオブジェとなった。ありふれた工業製品にクリップで留めるだけの作業、印画紙にもこだわらない態度は、題名の重要性を改めて認識させる。《贈り物》の沈黙と対照的な饒舌といえるほどのメトロノームの氾濫は、ジャズの国で育ったマン・レイの素直な感情表現だと言える。不協和音にアドリブが入る仕様はマン・レイの仕事そのもの、曲をまとめるベースの役割をメトロノームがはたしたとするのは言い過ぎだとしても…。」(引用の文章は全て石原輝雄氏)引用の文章に出てきた「贈り物」とは、マン・レイのもうひとつの重要なオブジェであるアイロンのことで、その裏側には鋲が13本接合されたモノです。この「贈り物」と「破壊されるべきオブジェ」がマン・レイの代表的なオブジェですが、展覧会場で私が驚いたのは、それらが複数制作されていたことです。これは20世紀芸術で流行ったマルティプル・アート(複数芸術)と言えるのでしょうか。オリジナルという概念が崩される前は、たとえば版画や鋳造彫刻の既成概念があったのですが、マルティプル・アートはそれに限らず、20世紀になってさまざまな表現に取り入れられたのでした。現在のオブジェに対する考え方は広範囲になっていますが、マン・レイが生きた時代では前衛芸術表現であったと言えます。
    週末 多様な1週間を思う
    1週間の振り返りは土曜日にやっていますが、先週も今週も土曜日は美術館で開催している展覧会に出かけてしまったので、振り返りは今日行います。先週の日曜日から昨日の土曜日までを振り返ると、多様な活動をしていた1週間だったという印象があります。まず日常の基本は朝から工房に出かけて、陶彫制作に勤しんでいました。新作の陶彫作品は、同じサイズの立方体を作り続けているので、成形に彫刻的な面白みが薄く、寧ろ彫り込み加飾に面白みがあります。彫り込み加飾は浮き彫りにする文様なので、工芸的要素が強いのですが、それでも立体の特徴がよく出てくるので、文様のバリエーションや彫り込みの深さなどを考えながら掻き出しベラで決定していきます。微妙な凹凸が出来てくると気分が上がります。この立方体が巨大な城壁に見え、それに積石による凹凸がついていくイメージがあって、そうした建築要素を自分の中で置き換えて楽しんでいるのです。これはこのサイズで作ろうと決めた陶彫作品ですが、一瞬雛型を作っているような錯覚になって、思わず笑みがこぼれます。さて、今週は木曜日に5回目のワクチン接種に近隣の病院に行って来ました。私はワクチンに対する副反応が少なく、翌日も通常通りの陶彫制作が出来ました。その翌日の金曜日ですが、夕方になって川崎市多摩区にある菓子店に注文したシュトレンを受け取りに行ってきました。菓子店を経営するパテシエの友人は20代の頃にウイーンで知り合った人で、あの頃2人で夢見た将来像にそれぞれが近づいていると思っています。理想的とは言えないまでも、何十年もブレずにやってきたと自負してもいいのではないかと2人で確認し合いました。土曜日は工房を休んで、工房に出入りしている若いスタッフ2人を連れて、千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館に行ってきました。シュルレアリスムの芸術家マン・レイによるオブジェを中心とする展覧会が開催されていて、マン・レイの世界観を堪能してきました。帰路、私の車にエンジントラブルを知らせる警報が点灯したので、自宅近くに戻ってからディーラーに車を持ち込みました。どうやら内臓コンピューターの誤作動だったようで、ホッと胸を撫で下ろしました。
    週末 千葉の「マン・レイのオブジェ展」
    週末になりました。今日は工房に出入りしている若い世代の女子2人と、千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館で開催している「マン・レイのオブジェ展」に出かけました。DIC川村記念美術館に過去何度か私は訪れたことがあります。同館が所蔵する作品群に興味関心があって、大自然の中で見る現代美術の傑作に、私は時折会いたくなるのです。今日はシュルレアリスムを代表する芸術家マン・レイのオブジェが見られるとあって期待は高まりました。図録にマン・レイの言葉が掲載されていました。「最終的にどのような形態であれードローイングであれ、絵画であれ、写真であれ、あるいは素材や大きさに手を加えていない物体そのものであれーそれは、楽しませ、当惑させ、困らせ、内省を促すように作られているが、他の芸術作品に通常求められているような、優れた手わざに対する賞賛を喚起するためのものではない。」マン・レイがよく使う「我が愛しのオブジェ」という言葉がしっくりとくるようなオブジェの数々を見ると、私はそのタイトルにも注目をしました。「視覚から認識し、脳内に想起する言葉や音と、タイトルにあてられた言葉、その繋がりの一致/ずれの関係性で、詩的なイメージが浮かび上がる。これは単なるシャレと片付けてしまうには尚早で、マン・レイが仕掛ける多層的な遊びなのである。」詩的発想はどの造形媒体にも存在すると私は考えていて、マン・レイの心を探る楽しみが溢れていると感じました。「マン・レイのオブジェは、『絵画』や『彫刻』など大義な芸術の『外』の要素の組み合わせで成り立ったあと、作品として静かに芸術の世界に戻され、『絵画』や『彫刻』と肩を並べるものであり、逆説的に芸術の枠もヒエラルキーも壊していく。マン・レイは制作の中で自由と快楽を追求していたと語るが、我々の前に『我が愛しのオブジェ』という肯定的な響きとともに品よく現れる彼のオブジェを見ると、自由や快楽はもちろんのこと、創造する純粋な愉しみをまっすぐに感じられるようである。」(引用の文章は全て杉浦花奈子氏)今日は女子を2人連れていたので、DIC川村記念美術館のレストランでお洒落な昼食をとりました。画家鴨居玲の伝記にあった「ええ格好しい」を、私も女子たちの前でやってしまいました。
    STOLLENの季節到来
    STOLLEN(独語シュトレン)とは坑道の意味で、トンネル状になった菓子パンのことを言います。ドイツやオーストリアではクリスマスの1ヶ月前から少しずつ輪切りにして食べていく習慣があります。今でこそ日本では一般的になったシュトレンですが、私がオーストリアを引き上げてきた1980年代には、シュトレンを扱っているベーカリーはほとんどなく、私も暫しシュトレンから遠のいていました。横浜市都筑区にある東京横浜独逸学園(在日ドイツ人学校)の学園祭で、ドイツ人の保護者の方々から手作りのシュトレンをご馳走になり、その懐かしい味に舌鼓を打った記憶が今も甦ってきます。私が海外にいた頃、同じウィーンに住んでいた日本人パテシエがいました。その頃よく彼と遊んでいて、私は美術学校の学生、彼はオーストリア伝統菓子店に勤める身で、私たちは将来に漠然と不安を抱える仲間でした。その彼が出身地の神奈川県川崎市の自宅に戻り、梨畑の一角にオーストリア伝統菓子の店を開きました。日本で流行っている柔らかくフワフワした洋菓子に比べると、彼の作る菓子はどっしりとして食べ応えのあるものでしたが、本物志向が日本に定着するようになってから、彼の菓子は売れ始めました。シュトレンはその頃から彼の得意なパンとなり、さまざまなフルーツやナッツ、マジパンをヨーロッパから取り寄せていたようです。今年はロシアのウクライナ侵攻もあり、全体に値が上がっていましたが、私は彼の店「マリアツェル」から大量のシュトレンを購入してきました。嘗て私のようにヨーロッパに住んでいた彫刻家の師匠や先輩画家、親戚の声楽家たちへ郵送するためもありますが、私自身がシュトレンの味が好きなのです。シュトレンは幼子イエスの産着を包んでいるように見えることからキリスト教と関連が出来たのだろうと思っています。異文化の中で培われた食文化は、今やグローバル化して、日本にいて容易に手に入るものになりました。