2022.09.06 Tuesday
「彫刻の歴史」(A・ゴームリー M・ゲイフォード共著 東京書籍)は彫刻家と美術評論家の対話を通して、彫刻の歴史について語っている書籍で、図版をたくさん掲載した分厚い書籍でもあります。私は書店で数多い図版に魅せられて本書を購入しました。歴史と言っても時系列に述べられたものではなく、18項目いずれも先史時代から現代までを、テーマに従って述べられていて、自由闊達な歴史談義になっているのです。登場する作品や彫刻家の中には私が知らなかったものや人物もあり、とりわけ未知なる世界の古代遺跡に魅せられていました。本書は定番となっている彫刻の歴史にも一石を投じていて、現代を生きる彫刻家と美術評論家の個人的な感想や意見などが述べられていて、時折偏った論考もあるように思われますが、それも含めて楽しく読むことができました。2人の対話があらゆる分野に膨らんでいくことが多く、項目ごとにまとめることが至難の技で、それのため私は留意した台詞をピックアップすることに終始してしまいました。取り上げている作品や彫刻家については私もつい偏ってしまい、自分の趣味趣向が反映してしまう結果になりました。そのことで自分が確認したこともあれば、新しい視点を教えられたこともありました。とくに現代彫刻に関しては私がもつ情報が少なく、世界にはこんな表現をする作家がいるのか、また作家のスケールの大きさにも驚かされました。私は自身の創作では社会的ニーズがないと悲観していましたが、本書を読んでみると決してそんなことはなく、大きく捉えれば歴史の中で彫刻は重要な役割を担っていることも分かりました。現代が構築した社会的システムの中では、そこに流れていかない彫刻の意思が浮かび上がって、私は絶大な勇気をいただきました。
2022.09.05 Monday
「彫刻の歴史」(A・ゴームリー M・ゲイフォード共著 東京書籍)は彫刻家と美術評論家の対話を通して、彫刻の歴史について語っている書籍です。全体で18の項目があり、今日は18番目の「変わりゆく世界をかたちにする」について、留意した台詞を取り上げます。この項目で本書は最後になります。「この石そのものにも、そしてすべての石のなかにも歴史が詰まっている。生きものの遺骸が石化して化石になっているんだ。つまり堆積岩のなかにはこの化石という地質学的な記憶が埋まっていて、それがフィレンツェにあるミケランジェロの、石のなかに半ば埋もれたままの奴隷たちに命を与えている。」(A・ゴームリー)「李禹煥の説明によれば、彼は『つくられていない』ものが好きなのだそうです。その目指すところは、人の手の入っていないものに語らせることにあります。だから彼はよく、この『人の手に入っていない』ものをほかのものと並べて置くのです。たとえば長い棒状に加工された金属を、丸くずっしりとした巨礫にバランスを取りながらたてかけて、一緒に17世紀の宮殿、つまりヴェルサイユ宮殿の石造りの正面の前に置いたりしています。」(M・ゲイフォード)「彫刻は世界に力を与えるとともに、問いを投げかけるものでもある。都市に住む僕らは、環境の機能性を主張する建築物や標識に囲まれて、目的の達成を最優先にする生活を再び強いられている。でも彫刻はそこでいったん立ち止まる機会を提供し、それ自体が矛盾したような、別のもっと深い考え方を提供する。そして僕らを、もう誰もコントロールできないような交換システムに酷使される、物言えぬ労働者にしてしまっている権力に対して、抵抗するように促すんだ。彫刻はこの150年のあいだに変化してきた。しかもこの変化はさらに加速して、僕らの生活のなかの物質的な背景を見直すように勧めている。ひとつ前の時代の理想主義とは対照的に、僕らの時代は物質的な存在それ自体のなかに、自分たちがそこに根ざしている感覚や安らぎといったものを見出してきたと思う。このことは彫刻に深い影響を与え、彫刻をその基本に立ち返らせることを可能にする。」(A・ゴームリー)次回は本書全体の読後感を述べたいと思います。
2022.09.04 Sunday
日曜日になり、美大生と美大受験生が工房にやってきて、それぞれの課題に取り組んでいました。彼女たちがいたため、今日は夕方3時まで工房で作業をしました。真夏とは違い、気温も多少凌ぎ易くなってきましたが、それでも汗が噴出してシャツがビッショリになりました。というのは今日の私の制作は、陶彫として立体を立ち上げる前段階の土練りとタタラ、陶土の保存であって、言わば力仕事がほとんどであったためでした。陶土は「発掘シリーズ」を通して同じ陶土を使っています。これは単身ではなく複数の陶土を割合を決めて混合しているのです。小型の重量計を使って複数の陶土を正確に測り、土錬機に投入します。陶土全体では毎回40kgを混合します。土錬機から円筒状の陶土が出てきますが、それを3回繰り返して完全に混ざるまでやっていくのです。土練途中で彫り込み加飾によって削り取った余剰分の陶土も一緒に土錬機に投入していきます。陶土を余らさずに使い切るのが自分流で、焼成前であれば、何度でも土錬が可能です。時折土錬機から出てきた円筒状の陶土に指を入れて、均一に混ざり合っているかを確認します。多少でも固さが残っている場合は、再度土錬機にかけていきます。混ぜれば混ぜるほど粘着質の良好な陶土が出来上がってきます。また乾ききった陶土は水を打ってビニールで梱包し、ある程度の柔らかさになってから土錬機に入れます。教員の中には土錬機の扱いに慣れていない人もいて、土錬機のプロペラを壊してしまった件もありました。土錬機は、乾いた陶土を元に戻す機能はなく、あくまでもA土とB土を混ぜ合わせるのが土錬機の機能です。そうして出来上がってきた陶土を適当な大きさにして、手で菊練りをしていきます。最後は手で練って陶土の中にある空気を外に出していくのです。菊練りした陶土は小分けにしたままビニールで包んで保存します。陶彫制作の第一歩は陶土との触れ合いから始まります。手塩にかけて土を育成するような感覚です。今日は汗をかきながら陶土との触れ合いに時間を割きました。明日からまた成形です。
2022.09.03 Saturday
週末になりました。公務員を退職後は週末もウィークディも変わらず創作活動に邁進しています。それでも週末になれば1週間の振り返りを行ない、今週の制作状況を確認しています。現在作っている新作は、陶彫による立方体を日々やっている状況なので、取り立てて書く必要を感じません。私は同じサイズの立方体を作りながら、その向こう側に見える景色を眺めているのです。幾何学的な抽象形態は、何か具体的な事物を描くことはありません。それだけにあらゆる解釈が可能で、鑑賞者が感じるままに委ねているとも言えます。個展に来られた方に説明を求められることがありますが、従来の作品なら大地から発掘された遺跡としてイメージしてもらうこともありました。陶彫制作を始めた契機が、エーゲ海沿岸に広がるギリシャ・ローマの遺跡を見て、そこにイメージの源泉を求めたので、空間解釈としては分かり易いところもありました。ところが新作はそうした遺跡のイメージを払拭してしまい、源泉の拠り所がなくなってしまうことがあると思います。陶彫制作の向こう側にはどんな景色が広がっているのか、立方体をブロックのように積んで、またバラバラに点在させていく作業の中で、一体何が見えてくるのか、私自身も全体イメージは予め持たないように努めていこうと思っています。展示をするその場で、私を含めたスタッフ全員が何かしら考えながら、また個々のイメージを掴み取りながら、イメージの共有を図っていくつもりでいるのです。私のスタッフは雇われスタッフではありません。一人ひとりが表現者であり、主体的な考えを持つ人たちなので、そうした作業が可能だと信じています。新作はどこに組み込まれるか分からない細胞をコツコツ作っているわけで、私も平均的な力量を持って制作をしています。多分、来週もその次も同じ作業の繰り返しに終始することと思います。それが現行作品のコンセプトなのです。
2022.09.02 Friday
今日の朝日新聞の「折々のことば」で取り上げられていた記事に目が留まりました。「『無垢の状態というものは立派なものである。しかし他方または大変残念なことに、これは保存されがたく誘惑されやすいのである。 イマヌエル・カント』道徳について人は自身の内に一種の『羅針盤』を持っていて、何が善であり何が悪であるかきちんと心得ている。だから何をなすべきかを知るのに哲学も学問も要らないと、18世紀の哲学者は言う。ただ、そうした『幸福な素朴さ』を損なわないための支えとしては学問も必要だと。『人倫の形而上学の基礎づけ』(野田又夫訳)から。」(鷲田清一著)亡き叔父がカント哲学者だったせいで、カントの言葉に私はふと反応してしまうのですが、人の善悪判断に哲学も学問も必要ないと言っている記事です。私はカントをきちんと読み込んだことがないのですが、現在ではあたりまえになった価値基準を、それがあたりまえなのは何故か、その理由をカントは学問として考察していることは私でも知っています。自然で素朴な判断に対して、それは間違っていないと念を押してもらうのが学問なのです。人と考えを共有できたり、共感できたりするのはカントたち哲学者が、その基準を作ってくれたおかげではないかと思っています。ただし、善悪判断の価値基準はグラデーションがあって、曖昧なところが多々あります。人と人、または国家間で諍いが生じるのはそのためで、自らの主張と妥協の辻褄を合わせるために議論を繰り返していくのです。学問の有用性は判断の裏づけをするだけではなく、これを自分ならどう考えるか、他者が考えていることをどう受け入れていくか、を他者と議論を交えることで自身の納得を得ていくことだと私は考えます。日本の教育事情が戦後の詰め込み教育から、自分自身に主体性をおいた教育に変わりつつあるのも、学問の有用性を考えたことに尽きます。私が校長職にあった時に、学習指導要領を変えていこうという動きがあり、私も図工美術科において微力ながら思索をさせていただきました。「幸福な素朴さ」を損なわずに、学力を身につけるにはどうしたら良いのか、簡単に答は見つからないことは承知で、その方針を指し示すことは重要なことだと考えます。