Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 10月になり初めての週末
    10月になりました。先月までは30度前後の蒸し暑い日々が続いていましたが、今月はどうなるんでしょうか。10月の初日である今日は週末です。週末となれば、毎回その週の状況を書いてきていますが、昨日のNOTE(ブログ)に先月の主だった状況を書いてしまったので、今週は書きません。今日も工房に朝から通い、陶彫制作に励んでいました。先月も先々月も毎日工房に来て陶彫をやっています。自分が理想とした創作生活を送れていることに幸福を感じながら過ごしていますが、限りある生命を60歳代になって漸く充実させたことにさまざまな思いが交差します。教職にいた頃は、私は早期退職をして創作活動をやっていこうとしていました。それがどういうわけか校長職になり、再任用満了の65歳まで勤めることになってしまいました。校長は学校で何かがあれば責任が問われる立場で、日々重責に苛まれることもありました。学校運営が上手くいかない時は尚更で、一般職の気軽さに比べると、自分がこんなことをしていることに不思議な思いに駆られたこともありました。自分は自分が考えている以上に芯が通っていることに驚きました。組織全体に目配せ、気配りが出来ることにも我ながら驚きました。そういえば社会的ニーズのない創作活動に何十年も没頭できるのも芯の強さかも知れません。私は不器用な人間で、上手く立ち回りが出来ず、また創作活動の素材の扱いでも、慣れるのに人一倍時間を使うのです。それでも諦めの悪い自分は、10代に憧れた彫刻を作り続け、65歳までの校長職を全うしたのではないかと思っています。もっと上手に生きたいと思っていた自分は、不器用でブレない芯を受け入れて、そのままの人生を生きていくしかないのだろうと思っています。
    残暑厳しかった9月を振り返る
    今日で9月が終わります。時間が経つのは早いもので、1ヶ月があっという間に過ぎていきます。今月は先月に続いて残暑に見舞われて、蒸し暑い日が多かったように思います。工房は空調がないので作業が辛く、そういった中でも今月30日のうち29日は工房に行っていました。日々の記録をつけた手帳を見ると、私はまったく休んでいないなぁと思います。休んだ日は東京の美術館に展覧会を見に行った日で、上野にある2つの美術館・博物館を巡っていました。教職にいた頃はウィークディは学校へ行き、週末は工房に行ったので、丸一日休むという発想が私にはなかったのでしたが、今も休まない生活を続けているのです。おかげで陶彫制作は進んでいます。二足の草鞋生活の頃のように制作で焦ることはなくなりましたが、その分制作目標を高く設定しているために、結構シンドい毎日を送っているのです。空いた時間に2回歯科治療に行って、気になっていた歯の治療は完了しました。運動習慣として週3回通っている水泳は、真面目にやっていました。スポーツ施設にも工房並みに通っているため、一応身体の筋力は衰えていないかなぁと思っています。家内の叔母が亡くなり、墓参りにも行って来ました。家内としては気持ちが落ち着いたようです。美術鑑賞では3つの展覧会に足を運びました。「ボストン美術館展 芸術×力」(東京都美術館)、「故宮の世界」展(東京国立博物館)、「二科展」(国立新美術館)です。映画鑑賞では「時代革命」(シネマジャック&ベティ)、「ONE PIECE FILM RED」(TOHOシネマズ鴨居ららぽーと)の2本でした。1ヶ月の鑑賞としては充実していたように思います。平面RECORDの制作は遅れていますが、現在作っている立体版RECORDと連動しているので、なかなか帳尻が合いませんが、最終的には何とかしようと思っています。今月の重要な出来事をひとつ忘れていました。数年ぶりに窯のメンテナンスをしたのでした。陶彫にとって窯での焼成は最終工程としては最重要なもので、これがあるからこそ土練りや成形、彫り込み加飾に神経を使うのです。全ては焼成を成功させるためにやっている制作工程なのです。読書では印象派の創始者マネに関する書籍を読み続けています。これは継続です。
    「老化と夭折」について
    「絵画の黄昏ーエドゥアール・マネの闘争ー」(稲賀繁美著 名古屋大学出版会)は副題を「エドゥアール・マネ没後の闘争」としています。その「第4章 大藝術の終焉」の「1 老化と夭折」についてまとめます。「絵画という『藝術の老衰』にあって、その第一人者を体現する画家。若き日に詩人ボードレールからそう評されたマネは、しかし『円熟に達することなく』逝去した。」これはマネの擁護者として知られるテオドール・デュレの言葉です。「はたして絵画藝術の老衰期においてなお円熟することは可能なのか。円熟の不可能さと藝術の老衰とはいかなる関係にあるのか。円熟以前の老衰。マネが没して直後、その周辺ではマネをどのように評価していたか、と問うとき、まず問題となるのは、絵画藝術の老衰が喧伝された当時の環境にあってこの『円熟』はいかなる意味をもち得たか、との問いだろう。」私たちはマネが印象派の創始者として美術史に名を刻んでいることを知っていますが、それが定着するための強硬な推進者がいたことを本書は書いています。「すくなくとも1884年当時、マネの作品で一般受けするのは、晩年十年間の印象派風の作風ではありえなかった。デュレのまたそのことを十二分に承知のうえで、売り立ての作戦を練らなければいけない立場にあった。~略~マネは初期から一貫して『明るく見る』画家だった、とのある意味では強引な見解を、強引は承知のうえで敵方のみならず身内のゾラにまでも、ことあらためて説得(というより強弁)しなければならない状況が、売り立て責任者デュレにはあったことになる。~略~『感激過多の頌歌調と叙事詩的文体』を排し、もっぱら『公平かつ高所にたって(中略)批判や論争を呼びさまさない』冷徹な叙述を自ら旨としたデュレの文体は、周囲からも『あらゆる情熱から自由で』、『情熱的なまでに平静で』、その『少し冷たい明確さ』によって『叙述し、説明し、読者を納得させる』もの、と評価されていたし、デュレご本人もそうした世評をまんざらではなく歓迎していたからである。」今回はここまでにします。
    窯のメンテナンス
    私の陶彫作品の最終工程は焼成であり、陶芸用の窯は絶対に必要な設備です。陶芸用の窯には薪窯、灯油窯、ガス窯、電気窯の4種類があり、相原工房に設置しているのは電気窯です。陶芸の醍醐味は制作工程最後に控える焼成にあり、その中で一番気持ちを揺さぶられるのは薪窯です。これは最も原始的な焼成方法で、耐熱レンガを積んで登り窯を作り、そこに薪をくべて窯内の温度を上げていくのです。この方法は陶芸の盛んな地域では大勢の協力者が協働で窯を焚き、何日も続く焼成作業は祭礼行事のような按配になります。ひと昔前までは窯焚きは共同作業でした。現在では登り窯も減り、作家一人が所有する窯で焚いているのが現状です。私の工房に設置した電気窯は、4種類の窯の中で一番手間が掛からないので選びました。工房に窯を設置した頃に私は教職にあって、焼成に時間がかけられず、また横浜のような場所では薪に使う材料もないため、電気窯にするしかなかったのでした。そもそも私は彫刻の素材として陶土を使い、陶芸としての面白さを求めていないため、窯に必要以上の思い入れがないのです。そんな電気窯でも数年に一度はメンテナンスが必要になります。電気窯は耐熱レンガの溝に熱線が張り巡らせてあり、全体を金属板で囲っています。時間経過とともに金属板に錆が生じます。窯を焚くと乾燥した作品や窯内の空間から僅かに蒸気が出て、それで錆が生じるのです。錆を削り取り、耐熱用の塗料を塗って仕上げますが、今日は懇意にしている職人集団がやってきて、賑やかに作業をしてくれました。新品同様になった窯を使って、また明日から頑張ろうと思います。
    「見えざる革命」について
    「絵画の黄昏ーエドゥアール・マネの闘争ー」(稲賀繁美著 名古屋大学出版会)は副題を「エドゥアール・マネ没後の闘争」としています。その「第3章 死後売り立ての政治学」の「2 見えざる革命」についてまとめます。自分が留意した文章を引用いたします。「実際には内輪による必死の買い支えでありながら、それが世間には売り立ての『成功』と映ずる。そんなにも危うく、多分に虚構じみた『成功』の実態。だがゾラ(エミール・ゾラ)への(テオドール・デュレによる)手紙には疑いもなく読み取れるその危うさは、事実の指摘において何ら批判されるべきところのない1902年の『マネ伝』の記述からはすっかり抹消され、すでにその痕跡すら認めがたい。しかしそうした抹消は、なにもデュレが為にしたというのではない。1902年に『マネ伝』を刊行できたその文化環境は、すでにあの84年の売り立てが『失敗』でありえたことへの配慮など、叙述の可能性からあらかじめ排除しているような環境だったからである。」マネの作り出した革命的な絵画世界を美術史に残すために、周囲がさまざまな画策を繰り返し、戦略を練っていたことがよく分かる箇所ですが、一方で否定的な批評もあり、そのやり取りが私の興味を誘います。「マネ藝術の神髄は《ル・ボン・ボック》や《剣をもつ少年》のごとき『あらゆる革命的な固定観念とは無縁に、藝術家の純粋な炎から生まれでた』作品であると見なすヴォルフ(アルベール・ヴォルフ)は、この反動的というほかない判断を楯にとって、マネの『革命的』な作品にはおしなべて駄作、凡作の烙印を押してこれを排除する権利を我がものとする。だがまさにそのマネの『革命的な固定観念』の衣鉢を継ぐのが印象派であってみれば、ヴォルフが『二束三文』と貶す作品ー以前の習作ーにまっとうな(ないしは『法外な』)商品価値を付与することが遺族側の至上命令となるのも当然だろう。繰り返すが、それをなくしては、マネの死後の栄光、ましてや印象派の将来などありえなかったからである。」近代絵画の象徴となる美術史に登場した印象派は、ある日忽然と登場したわけではなく、マネを革命的画家としての位置に押し上げ、そこから派生したものであったことが分かりました。今回はここまでにします。