Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 9月RECORDは「分離」
    「分離」というテーマを思いついた時、ウィーン分離派のことが頭を過りました。20代後半の5年間をウィーンで過ごしていた自分は、青果市場近くにあったゼツェッシオン(分離派会館)の独特な景観を思い浮かべていました。ウィーン分離派は19世紀末の保守的なウィーン画壇に反発したクリムト等が立ち上げた運動で、20世紀初頭では華々しい活躍があったようです。今月のRECORDは、もちろん「分離派」をテーマにするわけではありませんが、分離には単純なカタチの分離だけではなく、様々なイデオロギーを伴う分離もあることも念頭に入れていきたいと思います。そうした一筋縄ではいかない分離を、どう捉え、いかに表現するかは大変難しいところですが、自分の力で表現可能な範囲でやっていきたいと思います。RECORDとは一日1点ポストカード大の平面作品を作り、その総称として名づけているものです。月ごとにテーマを決め、さらに5日間で展開する方法をとっています。彩色はまとめて週末にやっているので、作品1点が日ごとに完成しているわけではありません。でも構想や下書きは毎晩やっています。猫のトラ吉に邪魔されながら食卓で鉛筆を動かしています。今月も頑張っていこうと思います。
    西洋の没落「都市と民族と」そのⅡ
    「西洋の没落」(O.シュペングラー著 村松正俊訳 五月書房)の第二巻を読んでいます。そのⅡとしたところは「民族、人種、言語」という副題がついています。3つのテーマの中で自分は言語に着目しました。「ことば語で虚言をつく者は自分で気のつかないうちに、身ぶり語でその実を暴露する。身ぶりで見せかけをするものの本心は、口調に現われる。固結した言語は手段と意向とを分離させるからこそ、識者の眼を決してごまかすことができないのである。識者というものは、その眼光は紙背に徹する。そうして人の挙動とか筆蹟とかを一目見さえすれば、すぐにその人を理解する。精神的共同体がより深く、より緊密になればなるほどそのために、記号をすて覚醒存在による結合をすてる。真の友情は多くのことばをつかわないでたがいに理解するし、真の信仰は沈黙するだけである。またもや言語をこえた非常に純な諧調の象徴は、夕方には家の前にすわり、そうして沈黙したまま語り合う老いた農夫の夫婦である。おたがいにその相手を考えたり、また感じたりすることを知っている。ことばはこの和合を攪乱するだけのことであろう。この相互理解からはなにものかが出てきて、高等動物界の共同生活をはるかに超えて、すべて自由にうごく生活の原始歴史のなかにふかく達している。ここにこそ覚醒存在からの解放が、瞬間ごとにほとんど到達されているのである。」単元のまとめというより部分的な引用ばかりになっていますが、論理が多くの分野を横断するため、気に留めた箇所だけの記述にさせてもらっています。
    9月制作目標は多作
    9月をどう過ごすか、先月の猛暑で制作が滞った状況を受けて、制作工程の仕切り直しをしなければなりません。今年同様、来年発表予定の作品は新作屏風と床置きの作品がメインになりますが、果たして来年5月初旬に出来上がるかどうか心配しています。新作の陶彫部品は曲面を多用した新しい試みをしていて不安の種は尽きません。床置きの作品は陶芸窯に入るギリギリの大きさで、無事に焼成出来るかどうかもわかりません。来年こそ大変で綱渡りのような制作工程になると、実は毎年思っています。でも今年は心配が膨らんでいるのは事実で、時に強迫観念に囚われることもあるのです。今月は時間があればウィークディの夜にも工房へ出かけたいと思います。陶彫部品を少しでも多く作ること、これが9月の制作目標です。そろそろこの暑さが何とかならないものかと思っています。暑さゆえ工房に一日中いて、制作するのは困難です。それでも今日は朝から夕方までいて、陶彫の加飾や土練りをやっていました。相変わらず汗が滴り落ちています。幸い熱中症にはなりませんが、汗をかく分、身体が疲れているように感じます。今月は健康に留意しながら制作に励もうと思います。
    9月初日から 家内は胡弓修行へ
    9月になりました。毎年恒例になっていますが、家内が富山県八尾に出かけました。家内は胡弓奏者です。八尾では有名な「おわら風の盆」が開催され、多くの観光客で賑わうのです。自分も数年前に行ったことがありますが、普段は風情のある小さな町が、この時ばかりは大変混雑し、人をかき分けながら町流しを見ました。家内は八尾にいる胡弓の大御所から教えを乞うことを八尾行きの目的としています。定宿にしているところがあるようですが、一晩かけて町を流す「おわら風の盆」を堪能するので、ほとんど寝ない日が続き、まさにこの4日間は家内にとって胡弓修行と言えます。家内は富山県の出身ではありませんが、幼い頃にバイオリンをやっていて、大人になって三味線を始めました。その2つの楽器が融合したのが胡弓だったわけです。そんな巡り合せがあって、胡弓が家内の生涯の友になっています。自分は祖父が大工、父が造園業という環境要因から彫刻を選び、これが生涯の友です。生涯をかけて自分がやりたいことを見つけることで人生が豊かになります。そうした意味でも家内の富山県八尾行きは意義のあるものかもしれません。
    庄司利音さんの「祭りの金魚」
    詩人の庄司利音さんとは最近知り合いました。「祭りの金魚」(新風舎)に描かれている利音ワールドに、自分の感覚が忽ち反応してしまい、綴られているコトバひとつひとつが蠢いている錯覚を持ちました。詩全体を通して命を謳いあげているせいかもしれませんが、自分の彫刻「発掘~混在~」にしても、利音さんのコトバを借りれば「地球そのものの命」を感じてくださったようで、本書には命の大小を問わず、生きとし生きるモノたちの不思議や自然への畏敬が述べられています。あとがきに「頭の中に洗面器があってそれに水がたまってきてだんだんいっぱいになってきて、重くてくらくらしてくるようで、それで頭をかしげて水をこぼすような、そんな感じで詩をかいているようなところがあります。」と書かれていて、実際に利音さんにお会いしてみると、利音さんが喋るコトバと綴られたコトバが一致しているのを改めて感じました。詩はほとんど手直しをしないと言っていましたが、成程その通りの人だと思いました。詩はコトバの説明的要素を剥ぎ取り、その組み合わせによってイメージを作り出すものと考えます。組み合わせの発想で心の琴線に触れる世界が現れます。人によっては独特な感性をもって発想し、その妙によって心にストンと落ちてくるモノがあるのです。自分は多くの詩から感覚が震える体験を与えられました。自分もコトバを表現媒体とする世界を試みていますが、自分は今だコトバを操るのが困難です。利音さんの詩を読んでいると、詩は技巧的に作り出すものではなくて、自分の発するコトバから生み出されてくるものと思えます。コトバで頭が溢れることが自分にもあるのでしょうか。カタチで頭が溢れることは自分には日常茶飯なことなのですが…。