2023.08.26 Saturday
週末になりました。今週も相変わらず朝から工房に通って制作三昧の生活でしたが、水曜日と金曜日は工房での作業を止めて、東京の映画館、美術館や博物館に鑑賞に出かけていきました。残暑が厳しく工房での作業がやり辛いこともあって、今週は気分転換を図りました。それでも工房にいる時は、茹だるような暑さの中で陶彫制作を行っていました。いつも来ている後輩の彫刻家や美大生もいて、それぞれの課題に取り組んでいましたが、彼らにも涼風が当たるように大型扇風機を首振りにしたり、小さな冷蔵庫にはお茶やスポーツドリンクを入れて冷やしていました。昼食のパンやおにぎりも冷蔵庫に入れていました。工房での暑さ対策と言っても大したことは出来ず、私たちは耐え忍んで作業をするしかないのが現状です。前述した通り今週の鑑賞は充実していました。まず水曜日は私一人で渋谷に出かけ、得体のしれない状況に身を委ねる少女を描いた「オオカミの家」を観てきました。ストップモーション・アニメという手法は手間がかかる映像表現ですが、荒唐無稽な場面設定もすぐに可能にしてしまう面白さがあります。同じ日に駒場まで移動し、久しぶりに訪れた日本民藝館で開催中の「聖像・仏像・彫像」展を見てきました。民間信仰の素朴な像も彫刻として捉えた発想に惹かれ、心が安堵する感覚を持ちました。金曜日は家内と上野の東京国立博物館に出かけ、「古代メキシコ」展を見てきました。ここは大掛かりな展示があって、なかなか見応えがありました。「古代メキシコ」展は予約なしで入れましたが、内部は結構混雑していて、テレビ等で話題になった展示品には人だかりが出来ていました。メキシコはヨーロッパやアジアとも異なる独特な美意識があって、この土地を訪れたなら、また何か新鮮な驚きがあるだろうと想像をしていました。北米もそうですが、南米にも私は行ったことがないので、一度は行ってみたいなぁと願う気持ちが強くなりました。
2023.08.25 Friday
今日は家内と東京上野にある東京国立博物館で開催中の「古代メキシコ」展に行ってきました。副題に「マヤ・アステカ・テオティワカン」とあり、古代王権の三大遺産の数々が来日しているとあって、その規模も含めて今回は絶対に見てこようと思っていたのでした。テオティワカン文明の巨大な石彫群の中にはポスターにもなっている「死のディスク石彫」もあり、見応えは十分ありました。マヤ文明では「赤の女王」のマスクを初めとする副葬品の数々があり、周囲には人が大勢集まっていました。アステカ文明では土製の「鷲の戦士像」もあって、その造形の面白さに時間を忘れて佇みました。13.000年以上前に新大陸に足を踏み入れた狩猟採集民は、それぞれ独特な社会を構築していて、ユカタン半島内での文明の盛衰もあったようです。16世紀になってスペイン軍の征服が始まり、植民地化や民族が混じり合う格差社会になり、当時の文明は滅びていったのでした。現在も発掘調査が行われ、本展に出品されてる高度な工芸品の数々が発見されてきたのです。私が全体を見渡して興味関心が湧いたのは、どの遺産にも存在する人面の造形のユニークさと、マヤ文字の記号的な面白さです。人面で言えばマヤ文明の土偶の多様性と具象的な顔の表情に惹かれました。この巧みな塑造を見ると、私には彫刻的な興趣が沸き起こってきて、つい楽しくなってしまったのでした。風俗史を研究する学者によれば、その服装やら体格によって、当時の身分や置かれた立場を考察する資料になるのでしょう。そのくらい具象性が際立っている造形だと私は感じました。またマヤ文字は解読に励む学者がいる一方で、私のようなこれを美術作品と受け取る者にとっては、現代のキャラクターデザインのようで、視覚的に見ても美しさを湛えた魅力があるのです。勿論何が書かれているのか知りたい興味はありますが、その前段階として美術として鑑賞するのも有りだなぁと思いました。もう一つ、古代メキシコには生贄儀礼がありました。これについてはその関係するものも展示されていましたが、紙面の都合でここでは扱いません。図録を読み込んで、別稿を起こそうと思います。
2023.08.24 Thursday
昨日、渋谷イメージ・フォーラムで上映しているチリの映画「オオカミの家」を観てきました。家内が邦楽演奏があったために私一人で出かけました。映画を観終わった後、私には情緒が不安定になるような不思議な感覚が残されました。本作はストップモーション・アニメで、本編に入る前に別の監督による短編「骨」の上映がありました。これは死者が甦る映像で、カルト的な世界は「オオカミの家」に共通していました。戦後ドイツのナチ信奉者がチリに作ったコミューン「コロニア・ディグニダ」に着想されていて、全体的に不健康な雰囲気があり、それによって感情に刺激を与える要素が、自分を捉えて離さないのではないかと思いました。内容としては、チリ南部にある施設から逃げ出し森の中の一軒家で二匹の豚と出会った娘マリアに起こる奇怪な出来事を描いています。二匹の豚は2人の子どもの姉弟アナとペドロに変身しますが、それも束の間、形が崩れ落ちたり、異形に変容する有様が止めどなく執拗に続いていきます。この不安定は何なのか、図録の文章から探してみることにしました。「マリアが支配されているのは、『言うことを聞かなければ悪いことが起こる(お仕置きもされる)』という世界観だ。マリアがオオカミに支配されているというだけではない。マリア自身もまた、自分自身が生み出したペドロやアナに対して同じ世界観を押し付ける。このことがまさに、マリアが完全にオオカミの世界観に囚われきっていることを示している。支配された者が支配するものになったとき、同じことを繰り返してしまう。被害者であったものが、加害者になってしまう。この二重の立場のあいだの揺れ動きこそ、本作の面白さであり、恐ろしさだ。コロニア・ディグニダで暮らす彼女には、そういう考え方以外できる余地がないということが暗に示される。」(土居伸彰著)ストップモーション・アニメは立体から壁伝いに平面に移行し、部屋の模様替えも瞬時に行っていきました。クリストバル・レオンとホアキン・コシーニャの2人の監督は、美術館に実寸大のセットを組み、等身大の人形や絵画をミックスして制作をしていました。制作の様子は美術館で公開されて、映画撮影を進行していたようです。これも新しい試みだろうと思います。観ていた観客は20代が多かったようですが、映画館はほぼ満席でした。物語の真意を理解するのは時間がかかりましたが、奇抜な発想の下に深淵なる世界が見え隠れしていて、印象としては重いものがありました。
2023.08.23 Wednesday
昨日、窯入れをしたために今日は工房での作業を休みました。このところ連日やっていた陶彫制作を一日休むことは気分転換にもなって、良い効果を生むのではないかと思っています。今日は朝から東京に出かけました。渋谷にあるミニシアターで映画を観て、その後、駒場に移動して日本民藝館で庶民信仰を対象にした仏像を見てこようと思ったのでした。映画「オオカミの家」は、俳優で映画監督の竹中直人さんに紹介してもらったものです。彼は高校の同級生で、私の個展に来てくれているのです。彼は暗い世界を好むので、薦められた映画も癖がありそうだなぁと思っていましたが、まさに不安定な心理をそのまま描いたストップモーションアニメでした。私も彼の好むものが嫌いではありません。渋谷の中心にある小さな映画館はほぼ満席で、観客は全体的に若い世代が多いかなぁと思いました。内容は崩壊と再構築が延々と繰り返されるもので、不条理で理屈が通らない世界観がありました。それでも私が退屈せず、次第に惹き込まれていったのは内面に何か得体のしれないものが存在していたからかもしれません。詳しい感想は後日改めます。次に渋谷駅から井の頭線に乗って駒場東大前駅で降りました。ここにある日本民藝館で開催されている「聖像・仏像・彫像」展は、庶民信仰を対象とした素朴な立体造形を集めたものでした。これを「彫刻」という観点で捉えた展覧会でしたが、私にとっては癒しにもなり、ホッとして作品の前で佇んでおりました。これも詳しい感想は後日改めます。今日という日は、まさに不条理な映画鑑賞と癒される民藝鑑賞という対極を体感した日で、ざわつく心と静まる心が同居していました。創作活動をリフレッシュするには、その対極となる双方が必要なのだと実感しました。久しぶりにやってきた渋谷の街並みは、かなり様変わりしてしていて、しかもどこへ行っても人が混雑していました。先月の銀座での個展の時も思ったのですが、都会に出てくるにはパワーが必要だなぁと感じました。渋谷駅の地下道を右往左往しながら、乗り換えにも距離があって、今日は結構歩いた気がしています。
2023.08.22 Tuesday
私は高校時代に美術の専門家を目指すことになり、高校教師に勧められて受験用の予備校に通うことになりました。そこでは石膏像を木炭紙に木炭でデッサンすることから基礎学習が始まりました。石膏像はギリシャ彫刻を模造したもので、本物は大理石に人体が彫られたものです。初心者は細かい所に目がいってしまうのを、指導者は大きく捉えるように大雑把な陰影を描きこんだりして、私のデッサンを躊躇なく壊していきました。その繰り返しで私は表面より形態の構造把握を体験することになったのでした。海外生活を引き揚げてくることになった30歳の頃、ヨーロッパ文化の源泉とも言うべきギリシャに行ってギリシャ彫刻に接した時は、何とも言えない感慨が込み上げてきました。紀元前の時代にどうしてこんなにも均整の取れた見事な人体像が作られたのか、その奇跡的な美意識をどう考えたらよいのか、私にとっては長い間の謎でした。現在読んでいる「風土」(和辻哲郎著 岩波書店)にその答えがありました。「観る立場の発展は観らるるものにおいてその中味を獲得する。あくまでも明るい、見えぬもののない、そうして規則正しいギリシャの自然が、ここでは見る立場の中味になる。自然はすべてを露出している。そうしてそこには一定の秩序がある。この考えは自然哲学者を支配していたとともにまた芸術家を動かす力でもあった。ギリシャ彫刻の最も著しい特徴は、その表面が、内に何物かを包める面としてでなく、内なるものをことごとく露わにせるものとして、作られていることである。~略~外面において内面を見つくすのである。彫刻家はそれを微妙な鑿の触れ方によって成し遂げている。たとえばパルテノンのフリーズの浮き彫りにおいては、衣文を刻んだ鑿のあとはまだまざまざと残っている。それは彫り凹めた跡であって決して滑らかな面を作ろうとした跡ではない。~略~自然の秩序正しさは芸術家の観る立場の中で発展した。ここにギリシャの芸術の合理性がある。そうしてかく技術において把捉せられた合理性からして数学的学問が発展し出でたのである。だからギリシャにおいては、幾何学の知識が芸術を幾何学的な規則正しさに導いたのではなく、幾何学が成立する以前にすでに芸術家が幾何学的な比例を見いだしていたのであった。」ギリシャ彫刻以前にエジプト彫刻があったとしても、硬質な様式を持つエジプトに比べれば、何という比類なき具象性をギリシャは獲得したのでしょうか。自分にとってはあの石膏像の描写が美術家へ近づく扉だったのでした。