2023.11.29 Wednesday
「土方久功正伝」(清水久夫著 東宣出版)の第七章「ボルネオから土田村へ」の気になった箇所を取り上げます。「久功が見舞いに行った4日後、昭和17年(1942)12月4日、中島敦は入院中の岡田病院で逝去した。6日、自宅で告別式が営まれた。久功は葬儀に参列後、直ちに列車で西へ向かい、神戸から乗船した。~略~下関を経てシンガポール(昭南島)へ至り、その地で正月を迎え、年明けに北ボルネオへ渡った。北ボルネオでは、陸軍専属嘱託のボルネオ調査団の民族班担当として北ボルネオ各地を、船、汽車、車で回って調査した。」ここで久功は身体を壊し、入院を余儀なくされたようで、やがて香港の病院に転院しています。「半年近くの入院の後、3月7日、病院船バイカル丸で香港を発ち、台湾を経て、18日に大阪・天王寺の赤十字病院に移った。1週間後の25日、東京から来た妻・敬子との1年4カ月ぶりの再会であった。~略~ここに2ヶ月入院した後、帰郷療養となり、5月16日の朝、世田谷・豪徳寺へ帰ってきた。早速兄弟、親戚へ電話で挨拶した。」戦時下で久功と妻・敬子は岐阜県へ疎開します。「久功が妻・敬子とともに岐阜県土田村へ疎開したのは、敗戦の前年、昭和19年(1944)9月であった。」夢の田舎暮らしを思い描いていた久功にとって、敗戦を迎えた後の土田村での生活は、現実的には厳しいものとなったようです。「土田村の軍需工場は、平和産業に転じることになった。しかし、会社は規律が乱れ、盗みが横行した。8月21日の日記には、上から下まで、会社の品物を盗み出している、取り締まる立場にある部課長も盗みをしているので、見て見ぬふりをしている。診療所でも、薬局の倉庫から、よい薬はあらかた盗まれた。」そんな状況もあってか、久功は土田村の生活にすっかり嫌気がさしていたようです。今回はここまでにします。
2023.11.28 Tuesday
「土方久功正伝」(清水久夫著 東宣出版)の第六章「戦時下の日本へ」の気になった箇所を取り上げます。本章では戦時下の中での作家中島敦との交流、医師川名敬子との結婚、太平洋協会からボルネオ行きを懇願されたことなどが綴られていました。「昭和17年(1942)3月17日夕方の5時、土方久功と中島敦が乗船したサイパン丸は横浜港に着いた。戦時中のため船の到着を事前に知らせることができなかったので、出迎えはなかった。」そこで土方家を取り巻く大きな事件がありました。「夕方、兄・久俊の家を訪れ、そこで土方与志(久敬)が明後日20日に入獄することを知らされた。」土方与志(久敬)は築地小劇場を主催した演劇人として知られた存在でした。「(土方与志(久敬)は)第一回ソビエト作家同盟で日本代表として、小林多喜二虐殺や日本の革命運動弾圧について報告した。~略~(朝日新聞の見出しには)『伯爵土方久敬(与志)氏、遂に栄爵を喪ふ 明治維新以来誉高き名家に峻厳な処断下さる』。爵位を剥奪されるのは日本の華族史上異例の出来事だった。」久功に縁談の話が持ち上がり、昭和17年9月に久功は結婚式を挙げました。「1週間後の13日、久功と川名敬子は、九段下の軍人会館で結婚式を挙げた。出席者37人の内輪だけのささやかな結婚式であった。」久功は中島敦の実家を訪ねたりして、2人の親交は続いていました。同時に久功はボルネオ行きを断れなくなっていました。「ボルネオ行きは確定したので、29日に、久顕、英子、柴山家へ別れの挨拶に行った。夜は後藤禎二から夕食に招かれた。このような混乱の中、11月30日の昼前、久々に中島敦を訪ねたところ、16日にひどい発作を起こして入院し、その後、11本も注射を打ち、ほとんど危なかったと聞かされた。入院先は近くの岡田医院(現・世田谷中央病院)だったので、すぐに行ってみた。パラオにいた時と同じように、何枚も布団を積み上げた所に凭れかかって、苦しそうな様子だったが、思ったよりは元気で、1時間ばかり話して、昼過ぎに帰ってきた。これが、中島敦を見た最後となった。」今回はここまでにします。
2023.11.27 Monday
昨日の26日付の朝日新聞「折々のことば」より、記事内容を取り上げます。「”明るく”あきらめるのがいいね。柚木沙弥郎」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「歳をとると、いろんなことができなくなる。散歩も風呂も、大好きな餅を食べることも。でもそれを辛いとは思わず生きてきたと、染色家は言う。人生は『楽しくなくちゃ、いけない』。だから妙な『こだわり』は捨て、『自分でできること』を変えていけばいいのだと。なんだか景色も明るくなる。『和楽』の特集《柚木沙弥郎 101年の人生と仕事》から。」染色家柚木沙弥郎氏の展覧会に、私は幾度となく足を運び、その現代性を味わってきました。簡潔で斬新なデザインは、私にハッと眼を見開かせてくれた印象があって、気持ちも軽ろやかになりました。テレビに登場した柚木氏のアトリエやインタビューにも新鮮なものを感じました。私は、101歳まで創作活動を続けてこられた柚木氏に羨望の眼差しを向けていましたが、加齢でできなくなったことをできなくなったと受け入れるポジティヴな思考があったことを記事によって知りました。私自身も昔に比べると身体のあちこちが痛くなったり、また動き辛くなったりしています。なかなか達観の境地には入れませんが、明るくあきらめることを前向きに捉えていこうと思っています。「楽しくなくちゃ、いけない。」これが日常の基本でしょう。仕事を退職した私には心配事がなくなっているので、自分が思うように生きていけばいいんだと改めて感じています。
2023.11.26 Sunday
週末のNOTE(ブログ)には創作活動について書くようにしています。私は自身のことを彫刻家と呼んでいますが、時に造形作家とも言っています。一日のほとんどを工房で過ごし、私は日常的に彫刻を制作しています。でもそれだけではなく、自宅ではRECORDと称する平面作品も作っています。このポストカード大の小さな平面作品も彫刻に比べて遜色はなく、寧ろ一日1点を作るノルマを自分に課しているため、彫刻よりも時間的には厳しい中で制作をしているのです。教職に就いていた頃に始めたRECORDでしたが、これは大変なことを始めたものだと当初から感じました。それでも教職の多忙さに創作活動を忘れがちになる自分を戒めるために始めたものなので、止めるわけにもいかなかったのでした。彫刻という立体表現とRECORDという平面表現の二刀流、これ故に私は造形作家と記した名刺を持つに至ったのでした。RECORDはカメラマンに依頼をして、撮影後にホームページに載せています。現在のホームページ掲載の状況は2021年の11月までアップしています。最近、ホームページでRECORDの後につくコトバが飛んでしまうエラーが発生して、ホームページを管理するアートディレクターに原因を解明していただいて、元通りに直していただきました。その確認のために改めて2007年からのRECORDを見直しましたが、自分のことながら、よくもまぁこんな数の作品を作ったものだと思いました。ここまで作品が継続していると自分の個性が浮き彫りになってしまうのを認めざるを得ません。私が構成しやすい方法や形を選ぶ際の癖のようなものがよく現れています。苦し紛れの作品もあります。自分では新たなものだと思っても旧作に似たようなものがあって、ちょっとショックも受けました。継続は宝なのか汚点なのか分からなくなってしまいますが、あまりゴチャゴチャ考えずに継続していこうと決心しました。
2023.11.25 Saturday
週末になりました。今週の振り返りをします。今週も相変わらず創作活動一辺倒な1週間でした。現在取り組んでいる陶彫立方体は、サイズが決まっているものの毎回彫り込み加飾を変えているので、常に新作を作っている意識があります。その都度、新作には新鮮な感じをもっているわけで、作業が画一化していることはありませんが、平日も週末もなく続いている制作に、気持ちの上では多少の疲労があるのかなぁと思っています。気候が創作活動に相応しい温度になり、このところ制作時間が長くなりました。陶土を扱っていると手の乾燥もあって、そろそろハンドクリームを使おうかとも思っています。自宅に帰るとRECRODの制作が待っています。夜は読書もやっていて、このNOTE(ブログ)への書き込みもあります。1週間を振り返ると、昔から私が描いていた理想的な創造中心の生活がそこにあると自覚しています。校長職に就いていた頃に比べると、危機管理意識や他者への気遣いはなくなりました。ただし、外部刺激が減って生活は単調になりました。これを良いこととして捉えれば、今が一番充実していて幸福な時かもしれず、自分のことだけを考えて暮らせることは、神様からの贈り物ではないかと感じています。創作活動は自分のことで苛立つことや不満なこともあっても、世知辛い国際情勢に鑑みれば、現行の平和な社会に生きていられることは幸福なんだと捉えながらも、欲張ったことを言えば、自己表現ではなかなか幸福になり得ない自分に腹が立ちます。考えてみれば自己表現で満足が得られたとすれば、あとは死を待つばかりとなってしまうことは疑う余地もなし、自己完結をするため、私は長い行程を歩んでいる途中と考えた方が健康的でしょう。